第184話 顕現せし真なる絶望と、泥に堕ちた大将の美学
絶海の岸辺に、凄惨な静寂が降り降りた。
覇軍大将バルバトスの右腕は肘から先で完全に切断され、そこからドス黒い魔界の血が止めどなく溢れ出し、純白の砂浜を汚らわしく染め上げている。
円卓の騎士王アーサーの持つ絶対的な浄化の光と、北欧の雷神トールの振るう万物粉砕の剛力。二つの神格を同時に宿したヴァンが放った神雷の聖剣の一撃は、魔界の理で編み込まれた数十層の絶対防壁を紙切れのように引き裂き、四天王であるバルバトスに決定的な敗北を突きつけていた。
「ハァッ……ハァッ……」
剣を振り抜いた姿勢のまま、ヴァンは荒い呼吸を繰り返している。
二つの強大な魂を一つの器に降ろすという常軌を逸した多重同化の負荷は、彼の肉体を内側から容赦なく破壊していた。皮膚の至る所から細かな血の霧が噴き出し、筋肉は断裂の悲鳴を上げ、骨は軋み続けている。
だが、その両足は大地を力強く踏みしめ、バルバトスを見下ろす双眸には一片の揺らぎも、恐れも存在しない。そこにあるのは、自らの命を燃やし尽くしてでも背後の都市を護り抜くという、人間の戦士としての純粋にして強烈な意志のみであった。
一方、砂浜に倒れ伏したバルバトスは、残された左手で自身の右腕の切断面を押さえながら、信じられないものを見るように虚空を見つめていた。
端正で優雅だった彼の顔は、苦痛と屈辱によって醜く歪んでいる。夜の闇を切り取ったかのような美しい漆黒の外套はボロボロに引き裂かれ、泥と自らの血に塗れていた。
「この私が……。神の似姿たる、完全にして至高の存在であるこの私が……」
バルバトスの唇が、微かに震える。
彼の傷口からは、アーサー王の聖なる光が残留し、魔族の根源的な生命力をチリチリと焼き焦がし続けていた。トールの雷の余波は神経を麻痺させ、魔力の循環を完全に阻害している。
このまま人間の形態を維持していれば、遠からず自分は死ぬ。辺境の地で、泥に塗れた人間などという下等生物の剣によって、己の歴史が完全に終わる。その残酷な事実が、彼の精緻な頭脳に冷たく提示されていた。
バルバトスは、魔界においても極めて特異な存在であった。
弱肉強食と無秩序が支配し、醜悪な化け物たちが血みどろの争いを繰り広げる魔界。彼はそのドブ泥のような世界を心の底から嫌悪していた。力こそがすべてという野蛮な思想を軽蔑し、知性と優雅さ、そして何よりも「美しさ」を至上の価値として生きてきた。
だからこそ、彼は己の内に眠る真の力を封印し、最も美しく無駄のない人間の青年の姿をとることに執着してきたのだ。美しく在ることこそが、彼にとっての誇りであり、野蛮な他の魔族たちとの決定的な次元の違いを示す唯一の証明であった。
しかし今、目の前の泥虫が、その誇りを完全に打ち砕こうとしている。
敗北を受け入れ、このまま美しい人間の姿を保ったまま死の静寂に身を委ねるか。
あるいは、己の美学を捨て去り、心の底から軽蔑しているあの「醜悪な姿」を世界に晒してでも、目の前の敵を惨殺するか。
「……ありえない」
バルバトスの喉の奥から、呪詛のような声が漏れた。
「ありえない。ありえないありえないありえないッ! この私が、このような泥濘の中で、虫けらに命を絶たれるなどという結末、私の美学が絶対に許しはしない……ッ!」
バルバトスは血走った漆黒の双眸で、真っ直ぐにヴァンを睨みつけた。
その瞳の奥に宿っていた冷酷な余裕は完全に消え去り、そこにあるのは、自らの誇りを汚した者に対する、底なしの純粋な憎悪だけだった。
「泥虫風情が。私に、あの姿を晒すことを強要したな……。私の高貴なる精神を、魔界のドブ泥へと引きずり下ろした罪。もはや、ただ殺すだけでは済まされないぞ……!」
バルバトスが残された左手で大地を強く握りしめると同時、新大陸の淀んだ空が、さらに一段と深く、光の一切存在しない完全な暗黒へと塗り潰された。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……。
大地の底から、世界そのものが悲鳴を上げているかのような悍ましい地鳴りが響き渡る。
「ヴァン! 奴の魔力が……さっきまでとは全く違う次元に膨れ上がっているわ!」
結界の内側から、セリアの緊迫した声が届く。
彼女の同化召喚師としての特異な魔力感知が、バルバトスから発せられる魔力の異常性を正確に捉え、激しい警鐘を鳴らしていた。
それは、熱や冷気、あるいは重力といった物理的な事象を引き起こすためのエネルギーではない。存在するだけで、触れた周囲の空間そのものを虚無へと変換し、世界の理に風穴を開けようとする、次元の違う反逆の力だった。
「……来るか」
ヴァンは神雷の聖剣を構え直し、決して敵から視線を外さない。
バルバトスの切断された右腕の断面から、ドス黒く粘り気のある極彩色の魔力が間欠泉のように噴き出し始めた。それは瞬く間に巨大な肉の塊となり、新たな右腕を形成していく。
それと同時に、彼の人間の青年としての肉体が、内側から弾け飛ぶようにして異常な膨張を始めた。
メチャッ……バキバキバキバキッ!!
美しい青白い肌が内側から無惨に引き裂かれ、その下から鋼のように硬い漆黒の獣毛と、爬虫類を思わせる分厚く禍々しい鱗が同時に姿を現す。人間の背丈だった体は、三メートル、五メートル、そして七メートルを超える巨大な怪物へと一気に変異を遂げた。
頭部に生えていた捻じ曲がった二本の角は、天を貫くような四本の巨大な大角へと枝分かれし、背中からは空を覆い尽くすほどの巨大な蝙蝠の双翼が、バサァッという重い音を立てて広がる。
さらに、彼の顔からは人間の面影が完全に消え去った。額と頬の皮膚が裂け、新たに四つの眼球が浮かび上がる。合計六つの血走った赤い眼球が、不規則にギョロギョロと動き回る。
顎は胸元まで裂け、そこには鋼鉄すらも噛み砕く無数の巨大な牙が乱杭のように並んでいた。腕は丸太のように太く発達し、その先端には、空間そのものを切り裂くおぞましい長さの漆黒の爪が伸びている。
覇軍大将バルバトス、獣神形態。
美しさと優雅さを至上のものとしていた魔界の四天王が、そのすべてを投げ打って解放した真の姿が、ついに絶海の岸辺に完全な顕現を果たしたのだ。
ズズン……。
七メートルを超える巨体が立ち上がった瞬間、世界から音が消えた。
バルバトスは咆哮を上げなかった。攻撃の姿勢すらとらなかった。
ただ、その醜悪で巨大な化け物が、そこに存在しているだけ。
しかし、それだけで周囲の環境が、世界そのものが、彼の放つ圧倒的な存在の重圧に耐えきれずに崩壊を始めたのだ。
ピキッ……パリーンッ!!
空間に、目に見えない亀裂が走る音が響く。
バルバトスの足元を中心に、重力が完全に狂い始めた。純白だった砂浜は彼の影が落ちた瞬間からドス黒く腐敗し、ジュウジュウと音を立てて虚無へと溶け落ちていく。
吹き荒れていた絶海の海風がピタリと止み、押し寄せていた波が、まるで巨大な恐怖から逃れるように、彼を中心として半円状に大きく後退していく。海面そのものが、物理的な力ではなく、彼の存在の重圧によって押し潰され、深く陥没しているのだ。
「……なんだ、息が……」
「空気が、無くなっているのか……?」
防壁の上で見守っていた難民の兵士たちが、次々と首を掻きむしりながらその場に倒れ込んだ。
バルバトスは何もしていない。ただ呼吸をしているだけだ。しかし、獣神の放つ絶対的な魔力の密度が周囲の空気を押し出し、絶海の岸辺一帯を真空に近い状態へと作り変えてしまっていた。
さらに、都市を護る剛角獣の絶対防衛結界が、バルバトスからの攻撃を一切受けていないにもかかわらず、その存在圧だけでバキバキと音を立てて無数の亀裂を走らせている。
闘わずして、そこに居るだけで世界を滅ぼす。
これこそが、魔界を統べる四天王が隠し持っていた、真なる次元の違う絶望だった。
沈黙の中、七メートルの巨体を持つ獣神が、ゆっくりと己の巨大な両手を見下ろした。
漆黒の獣毛、禍々しい鱗、そしておぞましく伸びた長い爪。
その六つの赤い眼球に浮かんでいたのは、殺意でも破壊衝動でもない。心の底からの、吐き気を催すほどの強烈な自己嫌悪と絶望であった。
「……あぁ。忌まわしい。なんと醜悪で、おぞましい姿か」
獣神の裂けた口から紡がれたのは、理性を持たない獣の咆哮ではなく、流暢で、極めて理知的な、聞き慣れたバルバトスの声であった。
しかしその声は、人間の形態の時のような美しい旋律を持っていなかった。幾重にも重なったような濁った重低音が、聞く者の脳髄を直接削り取るような悍ましい響きを帯びている。
怪物の姿へと成り果ててもなお、彼の高度な知性と理性は完全に保たれていた。だからこそ、彼は自らのこの醜い姿を客観的に認識し、誰よりも深く嫌悪しているのだ。
「私の高貴なる精神が、この汚らしい肉体の内に閉じ込められている。毛並みの臭い、皮膚を覆う硬質な鱗の不快な感触、視界を不必要に歪める六つの眼球。すべてが、私の美学に対する冒涜だ。自らの存在そのものが、吐き気を催すほどの泥水のように感じられる」
獣神バルバトスは、自らの漆黒の爪をギリッと音を立てて握りしめ、その鋭利な先端を自らの手の平に突き立てた。赤い血が滲むが、彼はその痛みすらも自己への罰として受け入れているようだった。
そして、六つの眼球が、ゆっくりとヴァンへと向けられる。
「この姿は、私の最大の恥辱だ。戦場という泥にまみれた舞台で、私が最も憎むべき野蛮な獣へと堕ちるなど。美しい死すら選ばせてくれなかった罪……人間よ、貴様が私から奪ったものの代償がどれほどのものか、理解しているか?」
バルバトスの声は、激昂してはいなかった。
むしろ、極端なまでに冷徹で、静かであった。しかし、その理知的な言葉の裏側に渦巻く憎悪の質量は、先ほどまでの比ではない。それは、世界中を敵に回してでも目の前の存在に無限の苦痛を与えようとする、純度百パーセントの呪いそのものであった。
「私は理性を失ってはいない。だからこそ、貴様には最も残酷な結末を用意することができる。一瞬で殺すような慈悲は与えない。貴様の四肢を少しずつ削り取り、その魂を私の内に取り込み、永劫に続く虚無の暗闇の中で泣き叫ばせてやる。貴様の背後で震えているその女も、この瓦礫の都市の無力な虫けらどもも、すべて等しく、私が最も醜悪と嫌悪するこの爪牙で、無慈悲に、そして絶望的に引き裂いてくれよう」
バルバトスが一歩、ヴァンへと向かって足を踏み出した。
ズシンッ! という重い足音と共に、周囲の空間が致命的な悲鳴を上げる。
物理的な接触をせずとも、彼が動く軌道上の空間が削り取られ、目に見えない次元の断層が周囲に黒い穴を開けていく。
防ぐことも、逃げることも許されない、完全なる理不尽。
人間の戦士がどれほどの神の力を束ねようとも、覆すことのできない次元の壁が、明確な形となってそこに存在していた。
「……セリア。少しでも気を抜けば、魂ごと消し飛ばされるぞ」
ヴァンは全身から血を流し、激しい痛みに筋肉を痙攣させながらも、神雷の聖剣を正眼に構えた。
「ええ……! わかっているわ、ヴァン。絶対に、あなたから魂を離さない!」
背後の結界内で、セリアが限界を超える魔力を放ちながら、悲壮な決意と共に叫ぶ。
理性を保ったまま真の怪物へと堕ちた、絶望の大将。
自らの美学を捨て去り、無限の自己嫌悪と憎悪を煮えたぎらせた獣神の圧倒的な存在感の前に、ヴァンとセリアの命を懸けた最終決戦の火蓋が、いよいよ切って落とされようとしていた。




