第182話 神速の絶望と、銀髪の召喚師の決意
血反吐を吐き、全身の骨が軋みを上げながらも、ヴァンは砂煙の中から再び立ち上がった。
どれほどの絶望的な力が叩きつけられようとも、彼の双眸に宿る闘志の炎は微塵も揺らいではいない。
覇軍大将バルバトスは、漆黒の外套を僅かに揺らしながら、ひどく退屈そうにその姿を見下ろしていた。
「驚いたな。私の指弾を受けて肉体が四散しない人間がいるとは。辺境の泥虫が着るにしては、その漆黒の鎧はいくらか上等な代物のようだ」
バルバトスが優雅な足取りで一歩前に出る。ただ彼が踏みしめただけで、新大陸の豊かな砂浜は瞬時に黒く変色し、ジュウジュウと腐臭を放って溶け去っていく。彼が存在しているだけで、世界そのものが死へと変換されているのだ。
ヴァンは白銀の双刃を構えたまま、背後の結界内に立つセリアへ短く鋭い声を飛ばした。
「セリア。奴の認識のさらに外側から叩き斬る。最速の雷を」
「ええ! あなたの剣に、神速の紫電を!」
セリアが杖を天に掲げ、単体同化の詠唱を紡ぐ。
「超高圧電流と超音速の機動力を誇る紫電の雷獣。今、この器にて魂を顕せ。同化召喚!」
静謐な白銀のオーラが弾け、ヴァンの全身を激しくバチバチと鳴り響く紫色の雷光が包み込んだ。手にした双刃が一つに融合し、極限まで軽量化された一振りの鋭利な刀、紫電の雷刃へと変異を遂げる。
ダンッ!
ヴァンが砂浜を蹴った瞬間、爆音と共に紫色の稲妻が走り、彼の姿は完全に不可視の光の線と化した。
紫電の雷獣がもたらす超音速の機動力。肉眼では到底捉えきれない速度で前後左右、さらには頭上から、無数の残像を伴う雷の連撃がバルバトスへと降り注ぐ。
だが、バルバトスは視線すら動かそうとしなかった。
ガインッ! ガガガガガッ!
ヴァンが放つ必殺の雷刃は、バルバトスの周囲数センチの空間に展開された、目に見えない高密度の魔力の壁にすべて弾き返されていた。刃が触れるたびに紫電の火花が散るが、バルバトスの漆黒の外套の裾一つ揺らすことすらできていない。
「速さは見事だ。だが、それだけだ。絶対的な次元の壁の前では、小賢しい羽虫の羽音に等しい」
バルバトスが鬱陶しそうに、右手で虚空を軽く払う。
ただそれだけの、まるで埃を払うかのような無造作な動作。しかし、空間そのものが大きく歪み、漆黒の重力波とも呼べる規格外の衝撃が巻き起こった。
「ッ!?」
回避不可能な不可視の質量が、超音速で移動していたヴァンを激しく打ち据える。
雷のオーラが容易く吹き飛ばされ、ヴァンは再び数十メートルも後方へと叩きつけられた。
ズゴォォォォォォンッ!!
吹き飛ばされたヴァンの背後、都市を覆う青白いドーム状の結界に、彼を吹き飛ばした魔力の余波が直撃する。
ピキ、バキバキバキッ!
剛角獣の角を触媒とした強固な絶対防衛線に、巨大な亀裂が幾筋も走った。結界の内側にいる難民たちから、恐怖に染まった悲鳴が響き渡る。
「ふむ。目障りな光の壁だ。あの瓦礫の山ごと、綺麗に消し去ってあげよう」
バルバトスが右手の平を天に向ける。
そこに、ドス黒い魔力が凄まじい密度で収束し、小さな漆黒の球体が生み出された。球体の周囲の空間が、圧倒的な質量に耐えきれずに悲鳴を上げて歪み、光すらも吸い込んでいる。
あれが放たれれば、結界ごと希望の都市が跡形もなく消滅する。誰の目にも明らかな、純粋な破壊の結晶だった。
ヴァンは口から絶え間なく血を流し、両腕の筋肉が断裂しかけながらも、紫電の雷刃を杖代わりにして三度立ち上がった。
その背中は、都市と、そしてセリアを絶対に護り抜くという強烈な意志のみで支えられている。だが、単体の同化では、いかなる英霊や神獣を呼ぼうと、あの次元の違う化け物には傷一つ負わせられないという残酷な現実が突きつけられていた。
結界の内側で、セリアは震える手で自身の杖を強く握りしめていた。
彼女の紫色の瞳に、血塗れになりながらも決して膝を屈しようとしない不器用な戦士の背中が映っている。
(……このままじゃ、ヴァンが死んでしまう。都市も、みんなも、全部消え去ってしまう)
単体の同化では通用しない。
圧倒的な魔力の壁を打ち破るには、二つの強大な魂を同時に宿す「多重同化」が絶対に必要だ。しかし、この底なしの絶望を打ち倒すには、ただ一度の二重同化でも足りないことを、彼女の特異な魔力感知能力が告げていた。
相手は、魔界の理を体現する四天王。
炎には氷を、剛力には神速を、絶え間なく状況に合わせて最適な神々の魂をぶつけ続け、相手に一切の余裕を与えずに限界を超えた連続攻撃を叩き込むしかない。
それはすなわち、「二重同化を一度も解除することなく、次々と新しい神や英霊の魂を上書きし続ける」という、同化召喚の禁忌に触れる狂気の沙汰だった。
器となるヴァンの肉体に、どれほどの言語を絶する負荷がかかるか想像もつかない。命が燃え尽き、魂そのものが崩壊してしまうかもしれない。
(私が、ヴァンを殺してしまうかもしれない……)
セリアの瞳から、恐怖と悲しみの入り混じった大粒の涙が溢れ落ちる。
だが、彼を信じずして、誰が彼と共に戦うというのか。世界中から無能と蔑まれた自分を見つけ出し、光を与えてくれた、たった一人の大切な人。
彼が命を懸けて護ろうとしているものを、自分も命を懸けて共に護り抜く。
「ヴァン……!」
セリアは防壁の縁ギリギリまで進み出ると、両手を真っ直ぐにバルバトスとヴァンへ向けて突き出した。
彼女の銀色の髪が、極限まで高められた魔力によって激しく逆巻く。その瞳の奥には、かつてないほど強靭な、同化召喚師としての究極の覚悟が宿っていた。
「私の魔力のすべてを使って、魂を繋ぎ止める! だから……どうか、耐えてヴァン!」
セリアの悲痛で、しかし絶対的な信頼の込められた叫びが絶海の岸辺に響く。
ヴァンは振り返ることなく、ただ静かに、そして力強く一度だけ頷いた。
「神々の連続多重同化……! 私が、あなたを、次元を超える最高の戦士にする……!」
絶望の魔王を前に、銀髪の召喚師と不屈の戦士による、命を削り合う狂気の反撃が、今まさに幕を開けようとしていた。




