第181話 拍手と絶望、あるいは次元の隔絶
紫に淀んだ絶海の風が、完全に凍りついて黒い灰と化したバルザールの残骸を虚空へと散らしていく。
最大の脅威であったはずの猛将を討ち取った。しかし、新大陸の岸辺を支配する空気に、勝利の歓喜や安堵の色は微塵もなかった。防壁の上で見守る誰一人として、声を上げることができない。
それどころか、肺の奥底に直接鉛を流し込まれるような、本能的な恐怖と息苦しさが、戦場全体を重く、冷たく押し潰し始めていた。
パチ……パチ……パチ……。
水を打ったように静まり返った絶海の岸辺に、ゆっくりとした、ひどく場違いな拍手の音が響き渡る。
生き残っていた無数の下級魔族たちが、その音を耳にした瞬間に持っていた黒鋼の武器を放り出した。彼らは砂浜に頭を擦りつけるようにして平伏し、まるで死刑宣告を受けたかのようにガタガタと激しく震え始める。
ヴァンとローランは油断なく武器を構えたまま、拍手の鳴る方向へと鋭い視線を向けた。
新大陸の未開の森の最奥部から天を突くように立ち昇る、漆黒と極彩色の魔力の柱。その歪んだ空間が、まるで劇場の幕が開くかのように、音もなく左右へと割れる。
そこから歩み出てきたのは、四メートルを超える巨漢であったバルザールとは対照的な、人間の青年と変わらない背丈の存在だった。
夜の闇を切り取ったかのような漆黒の外套を優雅に纏い、頭部には捻じ曲がった二本の山羊の角が生えている。透き通るような青白い肌に、深淵そのものを嵌め込んだかのような漆黒の双眸。
その美しくも冷酷な顔には、この世のすべてに心の底から退屈しきっているような、極めて薄い笑みが浮かんでいた。
「素晴らしい。泥に塗れ、汗を散らし、血を吐きながら力と力をぶつけ合う。実に野蛮で、実に醜悪だ。……私の最も嫌いな、ひどく美しくない死に様だよ、バルザール」
その男が口を開いた瞬間、世界そのものが凍りついたかのような錯覚に陥った。
彼が放つ声は美しい旋律のようでありながら、耳にした者の精神を内側から削り取っていくような悍ましい魔力を帯びている。
覇軍大将バルバトス。
魔界という異次元から遣わされた四天王の一人が、ついにその姿を現したのだ。
バルバトスは、足元で平伏し震えている下級魔族たちを、ゴミでも見るかのような目で見下ろした。
「お前たちもだ。これほど不快な汗と血の臭いを撒き散らして、私の歩く道を汚すな」
バルバトスが、酷くつまらなそうに小さく息を吐く。
たったそれだけであった。彼が息を吐き出した瞬間に発生した不可視の魔力の波紋が広がり、触れた下級魔族たちが次々と、音もなく塵となって崩れ去っていく。数千、数万という自軍の軍勢が、将のため息一つで文字通りこの世から完全に消し飛ばされた。
「……な、なんだあいつは……。ただそこに立っているだけなのに、空気が……重い……!」
防壁の上で弓を構えていた難民の兵士たちが、次々と膝から崩れ落ちていく。
「おい、冗談じゃねえぞ! 星脈の核の出力が足りねえ! 結界そのものが、あいつの存在の重圧に耐えきれずに軋んでやがるんだ!」
機関室からのバルガンの悲鳴のような報告が響く。
剛角獣の巨大な角をアンテナとし、絶大な魔力を誇る防壁の青白いドーム状結界。それが、バルバトスがただ歩みを進めるだけで、バキバキと音を立てて表面に無数の亀裂を走らせていた。魔法による攻撃すら受けていない。ただそこに存在している魔力の圧だけで、都市の絶対防衛線が内側から崩壊しかけている。
「このままでは結界が砕け散る……! ここは通さんッ!!」
ローランが顔を蒼白にしながらも、青白い竜のオーラをこれ以上ないほどに爆発させ、弾丸のような速度でバルバトスへと突進した。
竜の魔力を限界まで凝縮した、一撃必殺の流麗な突き。先ほどの猛将バルザールの装甲すら切り裂いた絶対の一撃が、無防備に歩いてくるバルバトスの心臓へと迫る。
だが、バルバトスは歩みを止めることすらしなかった。
彼が漆黒の外套から、白く細い指先をスッと持ち上げる。
「無作法なトカゲだ。私の視界で騒ぐな」
指先が軽く弾かれた瞬間、不可視の巨大な衝撃がローランの体を捉えた。
「ガァァァァッ!?」
竜の鱗の硬度を持つ軽鎧が紙くずのように粉砕され、ローランの体は凄まじい速度で後方へと吹き飛ばされた。彼は砂浜を激しくバウンドしながら防壁の岩盤に激突し、大量の血を吐いてそのまま崩れ落ちる。
「ローラン!!」
ヴァンが鋭く叫ぶが、ローランからの返事はなく、ピクリとも動かない。
バルバトスは武器すら抜かず、魔力術式を詠唱したわけでもない。ただ指を弾いただけの動作で、隠れ里を統べる竜人の長を、赤子をあしらうように捻り潰したのだ。
「さて。次はお前か、人間。バルザールを壊したその玩具、少しは私を楽しませてくれるのか?」
漆黒の双眸が、ゆっくりとヴァンへと向けられる。
肌を突き刺すようなプレッシャー。これまでのどんな災害級魔物とも次元が違う。
「セリア。極限の単体同化を」
ヴァンは静かに滅竜剣の構えを解き、背後の結界内で杖を握るセリアへと短く告げた。
連続した多重同化による負荷は限界に近い。この絶対的な魔力の壁を突破するには、力や速度の足し算ではなく、万物の理すらも斬り裂くただ一つの究極の技術が必要だった。
「ええ! あなたの剣に、天下無双の絶技を!」
セリアが極限の集中をもって、己の持てる最高の魔力を紡ぎ出す。
「迷いなき空の境地、森羅万象を両断する無双の二刀。今、この器にて魂を顕せ。同化召喚……最強の剣豪・宮本武蔵!」
ヴァンの肉体を、静謐にして鋭利な、透き通るような白銀のオーラが包み込む。
手にした武器が眩く輝き、長い刀と短い小太刀、二振りの美しい白銀の双刃へと姿を変えた。
ヴァンは二振りの刀を構えると同時に、自身の気配、殺気、さらには感情の揺らぎすらも完全に世界から切り離した。ただ純粋に敵を斬ることのみに特化した、無我の境地。
ヴァンは音もなく砂浜を蹴った。
風切り音すら生じない、完璧に制御された神速の踏み込み。バルバトスの懐へと入り込んだヴァンは、長刀と小太刀を全く隙のない不可避の軌道で同時に振り抜いた。
空間そのものを十字に斬り裂く、二天一流の絶対の斬撃。
ガシィッ。
だが、その必殺の双刃は、バルバトスの首元に届く数ミリ手前で、ピタリと完全に静止していた。
ヴァンの双眸が、僅かに見開かれる。
バルバトスは、右手と左手のそれぞれ二本の指だけで、白銀の長刀と小太刀の刃を挟み込んで止めていた。
最強の剣豪の技と、ヴァンの全筋力を乗せた斬撃が、一切の余波を生むことなく完全に殺し尽くされたのだ。
「見事な技術だ。人間が到達できる極致の果てと言ってもいい。……だが、哀しいかな」
バルバトスが冷酷に微笑み、双刃を挟んだ指先に僅かに力を込める。
「技術では、絶対的な次元の壁は越えられないのだよ」
バルバトスが刃を挟んだ指を軽く弾いた。
ただそれだけの動作。しかし次の瞬間、バルバトスの指先から空間そのものを粉砕するような、爆発的な魔力の衝撃波が至近距離でヴァンを襲った。
「ッ……!!」
ヴァンは咄嗟に双刃を交差させて防御姿勢をとったが、黒曜の鱗鎧越しに深く浸透してきた規格外の衝撃エネルギーまでは殺しきれない。
ヴァンは砲弾のように後方へと吹き飛ばされ、砂浜を激しく転がり、防壁の根元に叩きつけられた。
全身の骨が軋みを上げ、内臓が激しく揺さぶられるほどの致命的な衝撃。
しかし、ヴァンは倒れ伏すことなく、口から大量の血を流しながらも砂煙の中から即座に立ち上がった。
彼は表情一つ変えることなく、両手で白銀の双刃を握り直し、揺るぎない闘志を宿した瞳でバルバトスを真っ直ぐに睨みつける。
「……ほう。今の衝撃を受けてなお、顔を歪めることもなく立ち上がるか」
バルバトスが初めて、僅かに興味深そうな声を漏らす。
だが、状況が絶望的であることに変わりはない。
最強の英雄の技すらも赤子の手を捻るようにあしらう、次元の違う存在。
紫に淀んだ空の下、建国されたばかりの都市の前に、抗うことすら許されない真の絶望が立ちはだかっていた。
「ヴァン……!」
結界の内側で、セリアが震える両手で杖を強く握りしめていた。
単体の同化では、いかなる神や英霊の力を用いようとも、あの次元の違う化け物には届かない。このままではヴァンが、そして彼が護ろうとしたこの都市が完全に滅ぼされる。
(……やるしかない。私の魔力のすべてを使って、複数の魂を絶え間なく入れ替え続ける……!)
それは、ヴァンの肉体と精神を極限まで削り取る、未知の連続多重同化。
どれほどの代償を払おうとも、この深淵のような絶望を打ち破るには、もはやその狂気的な手段しか残されてはいなかった。




