第176話 反転する空と、迫り来る黒い波
エメラルドグリーンに輝いていた湖面が、一瞬にしてドス黒いヘドロのような色へと変色した。
新大陸の最奥部、未だ誰も足を踏み入れていない未開の樹海深くから突如として噴き上がった漆黒と極彩色の魔力の柱は、天を貫き、美しかった茜色の夕焼け空を、まるで毒の絵の具をぶち撒けたような悍ましい紫色へと塗り潰していく。
「ヴァン……! なに、これ……!」
ヴァンの背中に庇われたセリアが、ガタガタと震えながら空を見上げた。
彼女の同化召喚師としての特異な魔力感知が、これまでに経験したことのない異常な警鐘を鳴らしている。大気中に満ちていくのは、巨大な魔物が放つ野性的なプレッシャーではない。世界そのものを腐敗させ、あらゆる生命を泥に引きずり込むような、純粋で底知れない「悪意」の塊だった。
岸辺に咲き誇っていた淡い青色の花々が、吹き抜けた邪悪な風に撫でられただけで瞬時に枯れ果て、黒い灰となって崩れ落ちる。
「走るぞ、セリア!」
ヴァンは白銀の長剣を構えたまま、空いた手でセリアの細い手を強く握りしめ、来た道を振り返ることなく疾走し始めた。
彼の顔には、先ほどまで湖畔で見せていた不器用な青年の面影は微塵もない。愛おしい感情も、早鐘を打っていた鼓動も、すべてを胸の奥底の絶対に侵されない聖域へと厳重に仕舞い込み、彼はただ背後の少女を護り抜くための冷徹な戦士へと完全に切り替わっていた。
「ハァッ……ハァッ……!」
セリアは息を切らしながらも、ヴァンの手に引かれて必死に走る。
周囲の鬱蒼とした古代樹すらも、空から降り注ぐ異常な瘴気に当てられ、葉を枯らし、幹をどす黒く変色させていくのが見えた。新大陸の過酷な大自然すらもが、この異常な魔力の前に悲鳴を上げて死に絶えようとしている。
「森の奥から……何か、途方もない数の気配が、こちらに向かって溢れ出してきているわ……! 獣じゃない。もっと冷たくて、悍ましい何か……!」
「振り向くな。俺たちの都市の防壁まで一気に駆け抜ける」
ヴァンはセリアの手をさらに強く握り、森の木々を縫うようにして脚力を極限まで引き上げた。
森を抜け、開拓された平野部へと飛び出すと、遠くに完成したばかりの巨大な防壁が見えてきた。
しかし、希望の産声を上げたばかりの都市も、すでに異常事態の只中にあった。
「星脈の核の出力を限界まで引き上げろ! 防御結界に魔力を全部回すんだ! ケチケチすんじゃねえぞ!」
防壁の最も高い物見櫓から、バルガンの血を吐くような怒声が響き渡っている。
都市の中央広場に突き立てられた剛角獣の巨大な角が、強烈な青白い火花を散らしながら、都市全体を覆う巨大な半透明のドーム状結界を展開し始めていた。結界の表面には、紫色の空から降り注ぐドス黒い瘴気が雨のように打ち付けられ、ジュウジュウと不気味な音を立てて蒸発している。
「皆さん、絶対に押し合わないで! 武器を持たない者と子供たちは、方舟の内部シェルターへ速やかに避難してください!」
ルミナが拡声の魔道具を手に、パニックになりかける民衆を必死に誘導している。
その横ではバクスが、身の丈ほどもある巨大な包丁を両手に構え、避難誘導の最後尾で鋭い牙を剥き出しにして上空を睨みつけていた。
「ローラン!」
ヴァンが結界の入り口へと滑り込み、門の前で防衛部隊の指揮を執っていた竜人の盟友へと声をかけた。
「ヴァン! セリア殿! 無事だったか!」
ローランが安堵の表情を見せるが、その竜の瞳孔は極限まで細く絞られ、かつてないほどの緊張感を漂わせていた。
「森の奥のあの柱……一体何が起きている。自然界の魔力ではない。あれは純粋な、世界への呪いだ」
ローランが青白い竜のオーラを全身から立ち昇らせながら、紫に淀んだ空を睨む。
「わからない。だが、あれの中心から、夥しい数の何かが押し寄せてきている。防壁の門を完全に封鎖しろ」
ヴァンがセリアを自身の背後に庇うように立たせ、白銀の長剣を構え直す。
二人が陣形を整えた直後だった。
ズズズズズズズ……!
防壁の外、枯れ果てた森の境界線が大きく揺れ動いた。
木々が薙ぎ倒され、土煙と共に現れたのは、剛角獣のような巨大な原生モンスターではない。
二本足で歩き、歪な形をした黒鋼の武器を手にし、全身をどす黒い皮膚と奇妙な装甲で覆われた、悍ましい異形の兵士たちだった。旧大陸の伝承にのみ語られる、悪魔や魔族の最下級兵。それが、視界を埋め尽くすほどの黒い波となって、森から無限に這い出してきたのだ。
「馬鹿な……。知性を持った魔物の軍隊だと……?」
防壁の上からその光景を見下ろしたガロが、信じられないというように絶句する。
「ギャギャギャギャギャッ!」
異形の兵士たちは都市を覆う防壁と結界を見ると、醜悪な笑い声を上げながら、一斉に黒鋼の武器を振りかざして突撃を開始した。
圧倒的な数の暴力。その波が結界に激突し、バルガンが展開した青白い光の壁が激しく軋み声を上げる。
「剛角獣の岩盤で作った防壁だ、そう簡単には抜かれねえ! だが、あの数は異常だぞ!」
バルガンが機関室から叫ぶ。
「結界に負荷をかけ続けるわけにはいかない。打って出るぞ、ヴァン!」
ローランが長剣を抜き放ち、門の前で迎え撃つ態勢をとった。
「ああ。新大陸に俺たちの国を創るんだ。こんな得体の知れない泥虫どもに、一つたりとも傷をつけさせるものか」
ヴァンは鋭い視線を黒い波へと向け、静かに闘気を練り上げる。
平和な休日は終わりを告げた。
新大陸の最奥に隠されていた真の絶望、魔界への扉から溢れ出した漆黒の軍勢を前に、建国間もない希望の都市は、かつてない最大の防衛戦へと突入していくのであった。




