第175話 触れ合う温度と、空を淀ませる邪悪な影
陽が西へと傾き始め、エメラルドグリーンだった湖面が、茜色と黄金色が混ざり合った美しい夕闇の色へと染まりつつあった。
昼間の爽やかな風は少しずつ冷たさを帯びてきたが、湖の岸辺を歩く二人の間に流れる空気は、それとは対照的にどこまでも温かく、穏やかだった。
セリアの歩幅に合わせてゆっくりと歩くヴァンは、繋いだ右手から伝わってくる柔らかな温度に、己の胸の奥でかつてないほど激しく打ち鳴らされる鼓動を感じていた。
戦場で剣を握り、幾千の魔物の血を吸い、ただ生き残るためだけに酷使されてきた無骨な手。対して、彼女の手は透き通るように白く、小さく、そして柔らかい。こんな血に塗れた手で、彼女のような純粋な存在に触れてしまっていいのだろうか。これまでのヴァンであれば、そんな躊躇いが先に立ち、自ら距離を置いていたかもしれない。
だが、今は違った。
繋いだ手を離そうとしないのは、他でもないセリアの方だった。彼女の指先はヴァンの無骨な手をしっかりと、そして愛おしそうに包み込んでいる。その確かな力強さが、ヴァンの心に巣食っていた孤独や躊躇いを、静かに溶かしてくれていた。
「ヴァン」
不意にセリアが足を止め、ヴァンを見上げた。
夕陽の赤い光が彼女の銀色の髪を美しく照らし出し、紫色の瞳が潤んだように揺らめいている。
「今日、一日中あなたと一緒にいられて……私、本当に夢みたいだった。戦いのない場所で、ただあなたと並んで歩いて、同じ景色を見て、同じ風を感じて。……こんなに幸せな時間が世界にあるなんて、知らなかったわ」
セリアの言葉は、飾りのない純粋な本心だった。
ずっと異端として忌み嫌われ、誰からも必要とされなかった彼女の孤独な世界。そこに光を与え、外の世界の美しさを教えてくれたのは、目の前に立つ一人の不器用な戦士だ。
「……夢なんかじゃない」
ヴァンはゆっくりとセリアの方へ向き直り、彼女を見つめ返した。
「俺たちは生きて、新しい大地に立っている。これからは、こういう日が当たり前になるように……俺がお前の居場所を護る」
「ううん、それだけじゃ足りないの」
セリアが一歩、ヴァンへと距離を詰めた。
純白のワンピースの裾が揺れ、彼女の微かに甘い香りがヴァンの鼻腔をくすぐる。
「私は、ただ護られるだけの存在になりたくない。戦場では、あなたの背中を護る最高の相棒でありたい。でも……戦いのない平和な世界でも、私は、あなたの隣にいたい。召喚師としてじゃなくて……ただの、セリアとして」
彼女の頬は夕陽の赤とは違う色に染まり、その瞳には溢れんばかりの切実な想いが込められていた。
その言葉を聞いた瞬間、ヴァンの胸の内で燻っていた名状しがたい感情が、ついに明確な形を成した。
誰かを護るための義務感でも、相棒としての信頼感でもない。彼女を誰にも渡したくないという、男としての純粋な独占欲と愛情。
ヴァンは繋いでいた彼女の手をそっと引き寄せると、空いた左手を伸ばし、彼女の白い頬に触れた。
剣ダコだらけの荒い指先が、壊れ物に触れるように優しく彼女の肌を撫でる。
「……俺も、同じだ」
ヴァンの低い声が、静かな湖畔に響いた。
「戦場だけじゃない。これからもずっと、俺の隣にはお前がいてほしい。お前以外の奴が隣に立つなんて、考えられない」
不器用で、気の利いた言葉など一つも知らない戦士の、それが彼にできる精一杯の、しかし世界で最も誠実な愛の告白だった。
セリアの瞳からポロリと涙がこぼれ落ち、彼女はヴァンの手の中へすり寄るようにして、小さく頷いた。
「……うん。ずっと、ずっと一緒にいるわ。ヴァン……」
セリアがそっと目を閉じ、少しだけ背伸びをして顔を上へと向ける。
ヴァンもまた、彼女の想いに応えるように、その美しい顔へとゆっくりと顔を近づけていった。
二人の距離がゼロになりかけ、唇と唇が触れ合おうとした、まさにその瞬間だった。
ゾワァァァァァァァァッ!!
突如として、絶対零度の冷気すら生温く感じるほどの、おぞましい悪寒がヴァンの背筋を突き抜けた。
殺気などという単純なものではない。それは純粋な「悪意」。世界そのものを腐敗させ、あらゆる生命を泥に引きずり込むような、途方もなく邪悪な魔力の奔流だった。
「ッ……!?」
ヴァンは咄嗟にセリアの肩を引き寄せ、己の背後へと庇うと同時に、神速の反応で白銀の長剣を引き抜いた。
甘く穏やかだった空気は、文字通り一瞬にして消し飛んだ。
ズズズズズズズズ……!
大地が低く唸りを上げ、激しく振動し始める。だが、それは剛角獣の時のように巨大な質量の魔物が歩いている足音ではない。大地そのものが、内側から湧き上がるおぞましい力に耐えきれず、悲鳴を上げているのだ。
「ヴァン……! なに、これ……!」
背後に庇われたセリアが、ガタガタと震えながら湖の向こう側を指差した。
彼女の同化召喚師としての究極の魔力感知能力が、かつてないほどの異常事態を捉え、警鐘を乱打している。
ヴァンの鋭い視線の先。
新大陸の最も深く、未だ誰も足を踏み入れていない未開の最奥部から、天を貫くほどの巨大な「漆黒と極彩色の魔力の柱」が立ち昇っていた。
その邪悪な魔力が空に触れた瞬間、美しかった茜色の夕焼け空が、まるで毒の絵の具をぶち撒けたように、淀んだドス黒い紫色へと一気に塗り潰されていく。
空が、淀み、腐っていく。
湖畔に咲き誇っていた青い花々は、吹き抜けた邪悪な風に触れただけで瞬時に枯れ果て、灰となって崩れ落ちた。澄み切っていたエメラルドグリーンの湖面すらも、不吉な黒色に濁り始めている。
「空気が……いや、空間そのものが魔力によって捻じ曲げられている。旧大陸のいかなる災害級魔物でも、こんな異常な現象は起こせない」
ヴァンは長剣を構えたまま、額から一筋の冷や汗を流した。
剛角獣のような「生態系の頂点」が放つ自然なプレッシャーではない。これは明確な「異界の力」だ。
「セリア、ここは危険だ。すぐに都市に戻るぞ。仲間たちと合流し、防壁の出力を最大に引き上げる」
ヴァンは完全に戦場の冷徹な戦士の顔へと戻り、セリアの手を強く握り直した。
「ええ……! でも、あの魔力の中心から、底知れない数の『何か』が、こちらに向かって溢れ出してきているわ……!」
セリアが血の気を失った顔で、漆黒の柱が立つ方角を見つめる。
白紙の大地に希望の国を築き、ようやく手に入れかけた平穏な日常と、ささやかな恋の芽生え。
しかし、この新大陸が真の恐怖を隠し持っていたことを、彼らはまだ知らなかった。
世界の理を狂わせる「魔界への扉」の覚醒。絶対的な絶望の影が、産声を上げたばかりの都市を呑み込もうと、音もなく、しかし確実に忍び寄っていたのである。




