第174話 透き通る湖畔と、揺れ動く戦士の心
エメラルドグリーンの湖面が、柔らかな陽光を反射してキラキラと宝石のように輝いていた。
新大陸の未開の森の中にありながら、この湖の周辺だけは不思議なほど魔物の気配がなく、静寂と清浄な空気に包まれている。淡い青色の花々が岸辺を彩り、微かに甘い香りを風に乗せて運んできた。
「わあ……! なんて綺麗な場所なの」
セリアが純白のワンピースの裾を軽く押さえながら、感嘆の声を上げた。彼女の紫色の瞳が湖面の輝きを映し出し、まるで少女のように無邪気な光を帯びている。
「ああ。魔力溜まりもない。水も澄んでいて、底まで見える」
ヴァンは周囲に鋭い視線を巡らせ、危険がないことを完全に確認してから、背負っていた白銀の長剣をゆっくりと下ろした。
戦場では決して見せない、完全に油断した姿。それは、この場所が安全であるという確信と、何より隣にいる彼女に余計な緊張を与えたくないという、ヴァン自身の無意識の配慮であった。
「バクスさんの言っていた通りね。ここで少し、お昼にしましょうか」
セリアが花畑の合間の開けた場所に、ルミナが用意してくれた厚手の敷物を広げる。
二人が並んで座ると、セリアはバスケットの中からバクス特製のお弁当を取り出した。厚切りの魔物の肉を新大陸のスパイスで焼き上げたサンドイッチ、色鮮やかな未知の果実の盛り合わせ、そして冷たい果実水。どれもこれも、極限の死闘を繰り返してきた日々の野営では考えられないほどの、手の込んだ贅沢な品々だった。
「はい、ヴァン。たくさん食べてね」
セリアがサンドイッチを一つ手に取り、ヴァンの口元へと差し出す。
「ん……いや、自分で食べる」
ヴァンは咄嗟に顔を背け、自分で別のサンドイッチを手にとって口に運んだ。
普通なら他愛のないやり取りのはずだが、今のヴァンにとっては、彼女の細く白い指先が近づいてくるだけで、心臓がやけに大きな音を立ててしまうのだ。
(俺は、どうしてしまったんだ)
サンドイッチの極上の味すらもよくわからないまま、ヴァンは咀嚼を繰り返す。
ダークエルフの王や伝説の竜、そして生態系の頂点である剛角獣との死闘。どんな絶望的な強敵を前にしても、ヴァンの心は氷のように冷徹であり、恐怖も焦りも感じたことはなかった。
だが今、隣で美味しそうにサンドイッチを頬張るセリアを見ているだけで、胸の奥が熱く締め付けられ、視線のやり場に困ってしまう。
剣を振るい、ひたすらに戦い抜くことだけを考えてきた彼にとって、セリアは誰よりも大切な相棒であり、絶対に護り抜くべき存在だ。その事実に今も変わりはない。しかし、純白のワンピースを着て、穏やかな木漏れ日の中で柔らかく微笑む彼女は、戦場でともに死線を潜り抜けてきた同化召喚師としてではなく、一人の女性として、ヴァンの目にあまりにも鮮烈に焼き付いていた。
「美味しい……! バクスさんの料理は、本当に世界一ね」
セリアが満面の笑みを浮かべ、果実水をゴクリと飲む。その拍子に、彼女の銀色の髪が風に揺れ、ふわりとヴァンの肩に触れた。
ビクッと、ヴァンの肩が反応する。
「ヴァン? どうしたの? サンドイッチ、お口に合わなかった?」
「いや……美味い。美味すぎるくらいだ」
ヴァンは短く答え、視線を湖面へと逃がした。
食事が終わり、二人はしばらくの間、湖畔に吹き抜ける風を感じながら無言で座っていた。
沈黙は決して気まずいものではない。これまでの戦いの日々で培われた、言葉を交わさずとも互いの体温を感じられるような、心地よい静寂だった。
「……ねえ、ヴァン」
不意に、セリアがぽつりと口を開いた。
彼女は両腕で膝を抱え、遠くの湖面を見つめている。
「私ね、ずっと一人だったの。同化召喚なんていう、誰の役にも立たない術しか使えなくて。世界中から無能だって後ろ指を指されて……」
彼女の声は、風に消え入りそうなほど細かった。
「でも、あなたが私を見つけてくれた。私の術を、最強だって言ってくれた。……あなたがいたから、私は今、こんなに綺麗な景色を見ることができているのよ」
セリアはゆっくりと顔を向け、真っ直ぐにヴァンを見つめた。
その紫色の瞳には、偽りのない深い愛情と、絶対的な信頼が宿っている。
「違う」
ヴァンは低い声で、はっきりと否定した。
「俺がお前を見つけたわけじゃない。お前が、俺を暗闇から引っ張り上げてくれたんだ。お前がいなければ、俺はとっくに路地裏で死んでいた」
ヴァンは無骨な手を伸ばし、セリアの細い肩にそっと触れた。
彼のその手は、これまでは剣を握り、敵を斬り伏せるためだけに使われてきた血塗られた手だ。けれど今は、目の前にいるたった一人の少女を、何よりも優しく包み込もうとしていた。
「俺は、お前が笑って生きられる場所を作るために、剣を振るう。……これからも、ずっとだ」
それは、ただの相棒としての誓いを超えた、一人の男としての嘘偽りのない感情の吐露だった。
セリアの瞳が大きく見開かれ、やがてその目尻から、一粒の綺麗な涙がこぼれ落ちた。
「……ありがとう、ヴァン」
彼女はヴァンの無骨な手に、自分の白い手をそっと重ねる。
二人の手のひらから伝わる温もりが、不器用な戦士の胸に、確かな愛おしさとして広がっていく。
「水際まで行ってみよう。青い花が綺麗だ」
ヴァンは立ち上がり、重ねた手を離すことなく、セリアをそっと引き上げた。
「ええ……!」
湖の岸辺を、手を繋いだまま歩く二人。
戦いしか知らなかった戦士は、今、初めて誰かを愛おしいと思う感情の輪郭に触れていた。
仲間たちが仕組んだ不器用な休日は、彼らの間の見えない壁を確実に溶かし、新しい関係へと踏み出すための、かけがえのない時間となっていた。




