第171話 巨獣の骸と、産声を上げる希望の都市
絶峰の剛角獣という、歩く自然災害を退けてから数日が経過した。
新大陸の抜けるような青空の下、絶海の岸辺にはかつてないほどの活気と熱気が満ち溢れていた。魔物の咆哮や人々の悲鳴はもうどこにもない。代わりに響き渡るのは、石を削る小気味よい槌の音と、木材を組み上げる職人たちの力強い掛け声、そして種族の壁を越えて笑い合う人々の明るい声だった。
「よし、その岩盤を東のゲートの基礎に落とし込め! 隙間には青い魔力石の粉を混ぜた特製粘土を流し込むんだ!」
バルガンの豪快な怒声が、建設中の防壁の上から響く。
彼の足元、そして都市をぐるりと囲むようにして組み上げられているのは、他でもない絶峰の剛角獣から剥がれ落ちた「鋼の岩盤」であった。ミスリル以上の硬度と密度を誇るその岩盤は、ドワーフの卓越した技術と、星脈の核から引き出された結界の術式を刻み込まれることで、いかなる天災にも魔物にも揺るがない絶対の防壁へと生まれ変わりつつある。
「ひははははっ! 大将が叩き折ってくれたあのバカでかい角は、都市の中央広場にシンボルタワーとして突き立ててやったぞ! あれ一つで都市全体の魔力循環を安定させる最高のアンテナになる。旧大陸のひ弱な城壁なんて、指先で弾き飛ばせるくらいの難攻不落の要塞都市が組み上がっていくぜ!」
義手を振り回して笑うバルガンの目には、伝説のドワーフとしての純粋な職人魂が燃え盛っていた。人間から奴隷のように扱われていた過去の陰りは、もう微塵も感じられない。
その防壁の内側、方舟を中心として広がる居住区画の一角に、ひときわ良い匂いを漂わせる巨大な木造の建物が完成しつつあった。
入り口には、不器用な文字で『バクス亭・第一号店』と彫られた真新しい木の看板が掲げられている。
「おうおう、並べ並べ! 今日は新大陸の建国祝いも兼ねて、全員に極上ステーキの無料大盤振る舞いだ!」
厨房の奥から、バクスが巨大な鉄板の上で肉を焼きながら大声を張り上げている。
鉄板の下で赤々と燃えているのは、ルミナが森で発見した炎の魔力を内包する赤い鉱石だ。旧大陸の石炭とは比べ物にならない安定した超高熱が、絶対零度で瞬間冷凍されて鮮度を完璧に保っていた剛角獣の肉を、一気に焼き上げている。
分厚く切られた生態系の頂点の肉は、新大陸の巨大なキノコの旨味成分と、青い果実を絞った酸味のあるソースを絡められ、ジュージューと食欲を刺激する音を立てていた。
「うおおおっ……! なんだこれ、口に入れた瞬間に溶けるぞ!」
「美味すぎる……! 生きて新大陸に来て、本当によかった……!」
獣人も、エルフも、人間の難民たちも。誰もが大きな皿を抱え、涙を流しながら肉に齧り付いている。迫害され、飢えに苦しんでいた彼らにとって、腹一杯に美味いものを食べられるこの場所は、まさに夢にまで見た楽園であった。
その熱狂的な宴の傍らで、ルミナは真新しい木製のデスクに山積みの素材と帳簿を広げ、忙しそうにペンを走らせていた。
「この剛角獣の鱗の欠片は、軽くて非常に高い魔法耐性を持っています。防具の素材として一級品ですね。そして、森で採掘した青い魔力石と赤い魔力石……これらを基本の通貨およびエネルギー資源として流通の基準を定めます」
彼女の前には、獣人や魔族の若者たちが、森で採取してきた未知の植物や鉱石を次々と運び込んでいる。
「労働には必ず正当な対価を支払うこと。一部の者が利益を独占する商会システムは完全に廃止し、国家が適正価格を保証する公平な市場を創ります。……私を搾取していた悪徳商人たちがこの市場を見たら、あまりの完璧さに泡を吹いて倒れるでしょうね」
ルミナはふふっと誇らしげに微笑み、新しい国の豊かな経済基盤をその小さな両手で着実に築き上げていた。
少し離れた静かな天幕の中では、ローランが山積みの羊皮紙に向かっていた。
傍らに立つ側近のガロが、新しく切り出された木材の目録を机に置く。
「ローラン様、休憩を取られては。この数日、ろくに眠っておられないでしょう」
「いや、構わない。この国の法律の草案、どうしても早急に基礎を固めておきたいのだ」
ローランは羽ペンを置き、天幕の隙間から見える、笑い合う民衆たちの姿に目を細めた。
「旧大陸の法律は、人間という単一の種族を頂点とし、他者を隷属させるための鎖だった。我々が創るのは、種族による身分の差を一切認めない、完全な自由と平等を保証する法だ。……夢物語だと言って笑っていた者たちに、見せてやりたいよ。この光景をな」
「ええ。ローラン様とヴァン殿が切り拓いたこの大地なら、必ず成し遂げられます」
ガロもまた、深く頷き、窓の外の光景を眩しそうに見つめた。
そして、活気あふれる喧騒から少し離れた方舟の甲板。
ヴァンは、真新しく包帯を巻き直された両腕を甲板の手すりに預け、出来上がりつつある都市の情景を静かに見下ろしていた。
剛角獣との死闘で負った極限の多重同化による肉体の損傷は深く、まだ全身に鈍い疲労感が残っている。だが、その胸の奥には、これまでの過酷な旅路では決して味わうことのなかった、静かで確かな達成感が満ちていた。
「風が、とても心地よいわね」
背後から、セリアが二つの木のマグカップを持って歩み寄ってきた。中には、バクスが淹れた新大陸の茶葉の香ばしい湯気が立っている。
「ああ。……少し前まで、勇者パーティーの雑用係として野営の準備ばかりしていたのが、遠い昔のようだ」
ヴァンはマグカップを受け取り、ゆっくりと口に運んだ。
温かい茶が、酷使した内臓に染み渡っていく。
「ふふっ。あの頃のあなたに教えてあげたいわ。あなたは雑用係なんかじゃなくて、誰もが笑顔で暮らせる国を創る、最高の戦士様になるんだって」
セリアがヴァンの隣に並び、海風に銀色の髪を揺らしながら微笑む。
「俺一人じゃ、何もできなかったさ。お前が俺を見つけてくれて、あいつらが集まってくれたから、ここまで来られた」
ヴァンは都市の中心にそびえ立つ、剛角獣の角で作られた巨大なシンボルタワーを見つめた。
「……悪くないな。俺たちの国、か」
肩を並べて同じ景色を見つめる二人の間には、戦場での極限のやり取りとは違う、穏やかで、しかしどこか少しだけ甘くくすぐったい沈黙が流れていた。
互いに命を預け合う絶対の信頼がありながらも、平和な時間の中で見つめ合うと、ほんの少しだけ視線が彷徨ってしまう。
まだ国名すら決まっていないこの白紙の大地で、都市の産声と共に、彼らの間の見えない距離もまた、少しずつ、確かな変化の時を迎えようとしていた。




