第163話 浄化の光と、大地を揺るがす絶望の足音
鬱蒼とした未開の樹海に、淀んだ泥のような異臭が立ち込めていた。
拠点の防衛ラインを広げるため、森の警戒を続けていたヴァンたちの前に立ち塞がったのは、決まった形を持たない巨大な粘性魔物の群れであった。
旧大陸の文献では「腐肉喰らいの泥獣」と呼ばれるそれに近いが、新大陸の濃密な魔力を吸い上げたその巨体は家屋ほどもあり、触れるものすべてを溶かす猛毒のガスを絶え間なく噴き出している。
「物理的な斬撃が通りにくい相手だな。それに、あのガスを吸い込めば肺が焼け爛れるぞ」
ローランが口元を腕で覆いながら、青白い竜のオーラを纏った長剣を油断なく構える。
だが、ヴァンは表情一つ変えることなく、背負っていた白銀の長剣をゆっくりと引き抜いた。
「毒も泥も、跡形もなく消し飛ばせば問題ない。セリア」
「ええ、不浄なものをすべて焼き尽くす光を喚ぶわ」
セリアが森の瘴気を退けるように、凛とした声で極限の詠唱を紡ぎ出す。
「一切の影を許さず、触れる闇を浄化の熱で焼き尽くす絶対の輝き。今、この器にて交わりたまえ。同化召喚……陽光の輝精霊!」
詠唱が完了した瞬間、鬱蒼とした森の暗闇を切り裂き、ヴァンの肉体を眩いばかりの黄金の光が包み込んだ。
チャキィィィィンッ!
白銀の長剣が陽光の輝精霊の魂に共鳴して激しく流動し、刀身が透き通るような黄金のクリスタルブレードへと変異する。その刃からは、太陽そのものを切り取ったかのような、圧倒的な浄化の熱線が放たれていた。
「シャァァァァァッ!」
光を嫌う粘性魔物たちが、一斉に猛毒の泥を波のように逆巻かせて襲いかかってくる。
「消えろ」
ヴァンは黄金の大剣を上段に構え、迫り来る泥の波に向かって真っ向から振り下ろした。
ドバァァァァァァァァァァッ!!!
斬撃から放たれた極大の光の奔流が、森の暗闇を完全に真っ白に染め上げた。
光属性の浄化の熱に触れた瞬間、猛毒のガスも、巨大な泥獣の体も、ジュッと音を立てる暇すらなく一瞬で蒸発し、光の粒子となって消滅していく。
ただの一振り。それだけで、周囲数十メートルを覆っていた不浄な気配が完全に浄化され、木々の隙間から本物の太陽の光が差し込んできた。
「……ふう。これでこの周辺の脅威は完全に排除したわね」
セリアが額の汗を拭いながら、安堵の息をつく。
ヴァンも黄金の剣を元の白銀の長剣に戻し、背中に収めた。
「ああ。だが、やはりおかしい。この粘性魔物たちも、我々を狙うというより、背後から押し出されるようにして手前に逃げてきていた。……森の奥のプレッシャーが、徐々に高まっている」
ローランが険しい表情で森の奥を睨みつける。
その言葉に、ヴァンも無言で頷いた。
「拠点に戻り、バルガンたちに報告する。防壁の完成を急がせなければならない」
ヴァンたちが樹海を抜け、純白の砂浜に広がる開拓拠点へと帰還すると、そこは昨日とは見違えるほどの活気に満ちていた。
「いいぞ! その石材の隙間に、森で見つけた青い魔力石の粉末を混ぜた粘土を流し込め! 結合力が旧大陸の漆喰の百倍に跳ね上がるぞ!」
バルガンが義手を振り回し、ドワーフや人間の職人たちに大声で指示を出している。
方舟を中心とした半径数百メートルの範囲に、すでに高さ五メートルを超える頑強な石造りの防壁の基礎が組み上がりつつあった。
「お帰りなさい、ヴァンさん、ローラン様!」
ルミナが分厚い帳簿を抱えて駆け寄ってくる。
「見てください、この周辺の地盤は驚くほど強固です。さらにバルガンさんの技術と、新大陸特有の硬質な木材と石材が合わされば、いかなる魔物の突進も跳ね返す絶対防衛線が構築できます」
「おう大将! ちょうど新しいスープができたところだぜ!」
バクスも巨大なお玉を持ち、満面の笑みで手招きをしている。
拠点の中では、数千の民衆たちが種族の壁を越えて協力し合い、誰もが希望に満ちた顔で汗を流していた。
その平和で力強い光景を見渡し、ヴァンは少しだけ表情を和らげたが、すぐに真剣な眼差しでバルガンたちを呼び寄せた。
「バルガン、ルミナ、バクス。よく聞いてくれ。この拠点の防壁工事は素晴らしいが、想定している外敵のレベルをさらに数段階引き上げる必要がある」
ヴァンの重い言葉に、その場にいた全員の表情が引き締まった。
ローランが一歩前に出て、森の奥で感じた異変を説明する。
「我々が森で倒した巨大な原生モンスターたちは、すべて何かに怯え、外へ外へと逃げ出そうとしていた。つまり、この巨大な樹海の奥には、旧大陸の災害級モンスターすらも小動物のように逃げ惑う『生態系の頂点』が存在しているということだ」
「災害級の化け物が、逃げ出すほどの存在だと……?」
バルガンが義手を顎に当て、低く唸る。
「わかった。なら、防壁の厚さを当初の予定の三倍にする。星脈の核から魔力を引き出し、石材の中に直接防御結界の術式を刻み込んでやる。何が来ようと、この拠点の民衆には指一本触れさせねえ」
頼もしい仲間の言葉にヴァンが頷きかけた、その時だった。
ピタッ……と、風が止んだ。
さきほどまで響いていた波の音も、森の中から聞こえていた奇怪な鳥や虫たちの鳴き声も、すべてが突然、刃物で切り取られたように消失した。
世界そのものが、息を潜めたような絶対的な静寂。
「……なんだ? 急に静かに……」
バクスが怪訝な顔で周囲を見渡した次の瞬間。
ズズズズズズズンッ……!!!
大地が、いや、世界全体が上下に激しく揺さぶられた。
「きゃあっ!?」
「うおおっ、地震か!?」
あまりの激しい揺れに、ルミナや民衆たちが次々と地面に膝をつく。
だが、それは自然現象の地震ではなかった。
一定のリズムを刻みながら、重く、深く、大地の底から響いてくる。それは間違いなく、何か途方もない質量を持った巨大な存在が「歩いている」足音だった。
「嘘だろう……。俺が太鼓判を押した、この新大陸の超硬度の岩盤が、足音だけで悲鳴を上げてやがるだと!?」
這いつくばったバルガンが、信じられないという顔で地面を見つめる。
ズズンッ……! ズズンッ……!
足音が近づくにつれて、森の奥から信じられないほど濃密で、圧倒的な死の気配が拠点に向かって押し寄せてきた。
それは、殺気という生易しいものではない。ただそこに存在するだけで、周囲の生命を呼吸すらできなくさせるような、圧倒的な「強者の質量」。
魔力を持たない人間たちの中には、そのプレッシャーだけで白目を剥いて気絶してしまう者も出始めた。
「全員、防壁の内側に下がれ! 方舟の結界出力を最大まで上げろ!」
ローランがかつてないほど切羽詰まった声で叫び、自らも青白い竜のオーラを最大まで爆発させて、森へと向かう前線に立ち塞がった。
「ヴァン……これ、尋常じゃないわ。私たちが今まで戦ってきたどんな魔物とも、全く次元が違う……!」
セリアがヴァンの背中に身を寄せ、その体が微かに震えている。
「ああ。どうやら、新大陸は俺たちを簡単に受け入れてはくれないらしいな」
ヴァンは極限の緊張感の中で、それでも決して後退することなく、白銀の長剣を抜いて肩に担いだ。
黒曜の鱗鎧が、森の奥から吹き付ける異常な突風に軋み声を上げる。
ズシンッ……!!
拠点から数百メートル離れた樹海の奥。数十メートルの高さがある巨大な古代樹が、まるで枯れ枝のように次々と薙ぎ倒されていく。
土煙と魔力の暴風の向こう側で、山そのものが動いているかのような、途方もなく巨大な影がゆっくりとその姿を現しつつあった。
新大陸の生態系の頂点。絶対的な絶望の足音が、希望の拠点へと真っ直ぐに接近していた。




