第162話 狂乱の樹海と、忍び寄る巨大な影
新大陸への上陸から数日が経過し、方舟の周辺は単なる野営地から本格的な開拓拠点へとその姿を急速に変えつつあった。
「いいぞ! その石材は東側の基礎に組み込め! 隙間には魔力を含んだ粘土を流し込んで固めるんだ!」
バルガンの力強い号令が、波の音と森のざわめきに混じって響き渡る。
彼は人間やドワーフの職人たちを指揮し、方舟を取り囲むように巨大な防壁の基礎工事を始めていた。新大陸の木材や岩石は旧大陸の常識を覆すほどの硬度と密度を誇り、それらをバルガンの卓越した建築技術で組み上げることで、いかなる魔物の爪牙も通さない強固な砦が形作られていく。
「バルガンさん、森から切り出した新しい鉱石の分類が終わりました」
ルミナが分厚い帳簿と、数個の鈍く光る石を抱えて歩み寄ってきた。
「この赤い鉱石、微量ですが炎の魔力を内包しています。おそらく、新大陸の濃密な魔力が数千年の時をかけて結晶化したものです。これを炉の燃料として使えば、旧大陸の石炭の数十倍の火力を生み出せます。そしてこちらの青い石は、高い魔力伝導率を持っています。加工すれば、極上の装飾品や武具の素材になるはずです」
ルミナの報告に、バルガンは義手をカチンと鳴らして豪快に笑った。
「ひはははっ! さすがは商人、目の付けどころが違うぜ。その赤い石があれば、俺の設計する都市の鍛冶場は常に最高の温度を保てる。バクスの厨房の火力も桁違いに上がるだろうな!」
「はい。この新大陸には、私たちの国を豊かにするための宝が無限に眠っています。悪徳商会に搾取されることのない、真に価値ある市場を必ず築いてみせます」
ルミナの瞳には、希望と野心がキラキラと輝いていた。
活気に満ちた拠点から数キロ離れた、深く鬱蒼とした樹海の奥。
そこでは、ヴァン、ローラン、セリアの三人が、拠点の安全圏をさらに広げるための過酷な開拓を続けていた。
「……魔物の数が増えてきたな」
ヴァンは白銀の長剣の刃にこびりついた緑色の体液を振り払いながら、鋭い視線で周囲の薄暗い森を警戒した。
彼らの足元には、全身を鋭い棘で覆われた巨大な狼型の魔物や、鋼鉄の糸を吐き出す巨大蜘蛛の死骸が数多く転がっている。どれも旧大陸であれば討伐に熟練の騎士小隊が必要なレベルの凶悪な原生モンスターだ。
「ええ。ですが、少し不自然です」
セリアが倒れた魔物たちの足跡や逃走経路を観察し、怪訝な表情を浮かべた。
「この魔物たち、私たちを狙って襲ってきたというより、森のさらに奥から『何か』から逃げてきている途中で私たちと鉢合わせたような動きをしています」
「同感だ。これほどの力を持つ原生モンスターたちが、まるで怯えた群れのようにパニックを起こしている」
ローランが青白い竜のオーラを纏ったまま、森の深部へと視線を向けた。
「縄張りを争うというより、生態系の頂点からただ逃げ惑っている。……この森の奥には、我々の想像を絶する何かがいる」
その時、彼らの足元の地面が不気味に蠢いた。
「下だ! 避けろ!」
ヴァンの鋭い警告と同時に、三人が立っていた場所の地面が爆発するように隆起した。
地中から姿を現したのは、全長二十メートルにも及ぶ巨大な食虫植物の化け物だった。強酸の粘液を滴らせる巨大な顎のような花弁と、鋼の鞭のようにしなる無数の蔓が、三人を捕食しようと全方位から襲いかかる。
「地中に潜んで待ち伏せていたか! シィッ!」
ローランが空中で身を捻り、襲い来る蔓を流麗な剣技で次々と切り落としていく。切断された蔓から強酸の体液が降り注ぐが、ローランは竜の魔力を盾にしてそれを完全に弾き返した。
「ヴァン、あの植物の本体は地中に深く根を張っています。物理的な斬撃だけでは、すぐに再生してしまいますわ!」
セリアが後方から叫ぶ。
「わかっている。細胞の活動そのものを止める」
ヴァンは白銀の長剣を構え、セリアに合図を送った。
「セリア、頼む」
「ええ! 万物の律動を止め、触れるものすべてを静寂へと誘う絶対零度の支配者。今、この器にて交わりたまえ。同化召喚……絶対零度の氷晶竜!」
セリアの詠唱が完了した瞬間、ヴァンの肉体から透き通るような絶対零度の冷気が爆発的に噴き出した。
白銀の長剣が激しく流動し、幾何学的な氷の結晶紋様が刻まれた長く分厚い大剣へと変異する。周囲の気温が一瞬にして急下し、空気中の水分が凍りついてキラキラとダイヤモンドダストのように舞い散った。
「凍てつけ」
ヴァンは氷晶竜の冷気を極限まで帯びた大剣を、地中から這い出してきた食虫植物の巨大な花弁に向かって全力で突き入れた。
ピキィィィィィィンッ!!!
大剣が突き刺さった瞬間、絶対零度の冷気が魔物の体内へと直接流れ込んだ。
強酸の粘液も、鋼のように硬い蔓も、地中に深く張られた根の末端に至るまで、すべての分子運動が一瞬にして停止する。巨大な植物型の魔物は、苦悶の声を上げる間もなく、全身を真っ白な霜で覆われた巨大な氷の彫刻へと変わってしまった。
ヴァンが剣を引き抜き、氷漬けになった魔物の本体を軽く蹴りつける。
パァァァンッ!
という甲高い音とともに、全長二十メートルの化け物は粉々の氷の結晶となって砕け散り、森の空気に溶けて消え去った。
「凄まじい冷気だ。植物型の魔物には最も効果的な一撃だな」
ローランが剣を収め、感嘆の声を漏らす。
「ああ。だが、こいつらはあくまで前座に過ぎない」
ヴァンは氷晶竜の同化を解き、再び警戒の視線を森の奥へと向けた。
倒した魔物たちの強さは規格外だが、ヴァンたちの前ではまだ単体の同化召喚で圧倒できるレベルだ。
しかし、ヴァンとローランの戦士としての本能は、見えない脅威に対する警鐘を絶え間なく鳴らし続けていた。
「風の匂いが変わったわ」
セリアが銀髪をかき上げながら、森の奥から吹き抜ける風に顔を向けた。
「なんだか、とても重くて……息苦しい魔力が混じっている」
「……拠点に戻ろう」
ヴァンが短く決断を下した。
「これ以上、無闇に森の奥を刺激するのは危険だ。バルガンの防壁が完成するまで、このラインを絶対防衛線として警戒を強める」
「賛成だ。私も、この森の奥から感じるプレッシャーには嫌な予感がしている」
ローランも深く頷き、拠点の方角へと歩き出した。
彼らはまだ知らない。
この広大な樹海の最奥で、すべてを蹂躙する生態系の頂点が、方舟の放つ莫大な魔力に惹きつけられ、ゆっくりとその巨体を動かし始めていることを。
新しい国を創るための希望に満ちた白紙の大地に、未曾有の絶望の足音が、確実に近づきつつあった。




