第158話 新世界への上陸と、自由の旗印
荒れ狂う絶海と、天地を繋ぐ嘆きの暴風壁。
それらの苛烈な大自然の試練を抜け出した方舟を待っていたのは、まるで鏡のように穏やかで透き通るような青い海と、どこまでも広がる抜けるような青空だった。
「嘘みたいに静かだ……。さっきまでの嵐が幻だったみたいに」
甲板の先端で、セリアが潮風に銀髪を揺らしながら、信じられないといった様子で海面を見つめていた。
「これが新大陸の近海か。旧大陸の海とは、流れている魔力の質が根本から違うな」
ヴァンは背負った白銀の長剣の柄に手を添えたまま、鋭い観察眼で周囲を警戒していた。波一つない穏やかな海だが、水の下には得体の知れない巨大な影がいくつも泳いでいるのが見える。しかし、それらは方舟の放つ規格外の魔力と威圧感を感じ取っているのか、一定の距離を保ったまま決して近づこうとはしなかった。
「大将! 水深が浅くなってきたぞ! 海岸はもう目の前だ!」
操舵室からバルガンの弾んだ声が響き渡る。
「外輪停止! 陸上走行用車輪、展開! そのまま砂浜へ上陸するぞ!」
ガコンッ!という重厚な機械音とともに、方舟の底部から収納されていた巨大な鋼の車輪が展開される。
ヒュドラの魔石の動力が車輪へと切り替わり、方舟は浅瀬の海水を豪快に掻き分けながら、ついに純白の砂浜へとその巨体を乗り上げた。
ズズズズズズンッ……!
巨大な車輪が新大陸の大地をしっかりと捉え、方舟が完全に停止する。
静寂。
波の音と、見知らぬ鳥の鳴き声だけが響く中、甲板に集まった数千の民衆たちは、目の前に広がる手つかずの広大な緑と、雄大な山々の連なりを息を呑んで見つめていた。
人間の国が築き上げた石造りの城も、処刑場も、奴隷の収容所も、ここには何一つ存在しない。完全に白紙の、真新しい世界だった。
「タラップを下ろせ」
ローランの静かな、しかし確かな感情の籠もった声が響く。
ギィィィィ……と重い音を立てて、方舟から砂浜へと続く巨大なタラップが下ろされた。
「行くぞ、ローラン。お前が最初の一歩を踏み出せ」
ヴァンが一歩下がり、ローランに道を譲る。
「……いいのか?」
「俺は道を拓くだけの戦士だ。この民を束ね、新しい国を創る長はお前だ。お前が先頭を歩くべきだ」
ヴァンの不器用だが最大の敬意に、ローランは竜の瞳孔を潤ませ、深く頷いた。
流麗な軽鎧を鳴らし、ローランがゆっくりとタラップを下っていく。その後ろを、ヴァンとセリア、そしてバクス、バルガン、ルミナ、ガロたちが続く。
ローランのブーツが、新大陸の純白の砂浜に降り立った。
サクッ、という小さな音が、彼らにとって歴史的な第一歩の証明だった。
ローランは足元の砂を両手ですくい上げ、その温かさを確かめるように目を閉じた。
「我らが同胞よ。降り立つがいい。ここが、我々の新しい故郷だ」
ローランの声に促され、数千の亜人や魔族、人間の難民たちが次々とタラップを駆け下りていく。
砂浜に倒れ込み、大地にキスをする者。声を上げて号泣しながら抱き合う者。
種族の壁などなく、誰もが同じように新大陸の土の感触に涙していた。
「さあ、見せてやろう。我々の新しい旗印を!」
ローランが振り返り、ガロに合図を送る。
ガロたち魔族の戦士が、方舟の最も高いマストに、一枚の巨大な旗を掲げた。
それは、漆黒の背景に、銀色の長剣が重い鉄の鎖を砕き割る意匠。そして、その周囲を歯車と羅針盤の模様が取り囲んでいる、美しくも力強いエンブレムだった。
漆黒と銀はヴァンを、鎖を砕く剣は解放を、そして歯車と羅針盤はバルガンの技術と新世界への開拓を象徴している。
「過去の鎖は完全に砕け散った! 我々はこの未知の大地で、誰からも縛られない自由と平等の多民族国家を建国する! この旗の下に、すべての種族が手を取り合うのだ!」
ローランの宣言に、新大陸の空を震わせるほどの大歓声が沸き起こった。
その歓声の中、バクスがすでに周囲の植物や岩場を物色し始めていた。
「おいおい、見たこともない果実やキノコが山ほど生えてるぞ! 海にも新種の魚がいそうだ! こりゃあ、国一番のレストランのメニュー開発が追いつかねえぜ!」
「ひはははっ! 地盤も最高に固くて安定してる! これなら、山を切り崩さずとも最高の都市の土台が組めそうだぞ!」
バルガンも義手で地面を叩きながら、すでに建築家の目つきになっている。
ルミナは周囲の鉱石や植物の分布を素早く帳簿に書き留め、「これなら、自給自足だけでなく、新しい特産品がいくらでも作れます」と瞳を輝かせていた。
彼らの夢が、今まさに現実のものとして動き出そうとしていた。
「いい顔をしているわね、みんな」
セリアが微笑みながら、ヴァンの隣に立つ。
「ああ。だが、ここは未開の大地だ。旧世界の人間がいない代わりに、どんな災害級の化け物が潜んでいるかわからない。国を興す前に、まずは安全な領地を確保し、拠点を作らなければならない」
ヴァンは決して気を緩めることなく、周囲の深い森へと鋭い視線を向けた。
「ええ。でも、もう一人で戦う必要はないわ。あなたには私たちが、そしてこの国のみんながついているもの」
セリアの言葉に、ヴァンは少しだけ表情を和らげた。
「ヴァン」
ローランが歩み寄り、真っ直ぐにヴァンを見つめた。
「あなたの剣がなければ、我々は決してここまで辿り着けなかった。改めて礼を言わせてほしい。ありがとう」
「礼には及ばない。俺は俺の仲間と、お前たちの夢を護りたかっただけだ」
ローランは微笑み、腰の剣に手を添えた。
「さあ、開拓を始めよう。私たちの国を創るために」
「ああ。邪魔をするものがいるなら、俺がすべて切り伏せる」
新大陸の風が、彼らの掲げた漆黒と銀の旗を力強くはためかせる。
腐敗した旧大陸のシステムを捨て去り、何もない白紙の大地で一から国を創り上げる。
戦士ヴァンと竜人ローラン、そして虐げられた者たちの、新たなる建国神話が、ついにこの大地で幕を開けたのである。




