第156話 絶海の洗礼と、紫電の雷獣
方舟が絶海へと漕ぎ出してから、すでに三日が経過していた。
太陽の光を完全に遮る分厚い鉛色の雲と、止むことのない暴風雨。新大陸への道を阻む死の海域は、その名に違わぬ狂乱の様相を呈していた。家屋を軽々と飲み込むほどの巨大なうねりが絶え間なく方舟に衝突し、甲板に立つだけでも吹き飛ばされそうなほどの暴風が吹き荒れている。
「ひははははっ! どうした、波の高さが足りねえぞ! この方舟の金剛樹の竜骨は、こんなそよ風じゃピクリとも軋まねえ!」
操舵室では、ずぶ濡れになったバルガンが義手で舵輪を強引に回しながら、狂気じみた笑い声を上げていた。彼の計算し尽くされた設計と、ヒュドラの魔石から供給される無尽蔵の動力が、方舟をただひたすらに前へと押し進めている。
船内では、数千人の民衆たちが激しい揺れに耐えながら息を潜めていた。
しかし、彼らの顔に絶望の色はない。ルミナが指揮を執り、船内の物資を完璧に管理し、バクスが揺れる厨房で熱いスープを絶え間なく作り続けている。温かい食事と、絶対に沈まないという船への信頼が、彼らの心を確かに支えていた。
「皆、持ち場を離れるな! ロープの結び目をもう一度確認しろ!」
甲板では、ローランの側近であるガロたち魔族が、荒れ狂う波飛沫を浴びながら必死に帆の調整を行っていた。
その時、船首で見張りに立っていたエルフの若者が、恐怖に引き攣った声を上げた。
「前方の海面が……盛り上がってきます! 何かが来る!」
その報告と同時だった。
方舟の進行方向、数百メートル先の海面が不自然に大きく膨れ上がり、凄まじい水柱とともに巨大な影が海中からその姿を現した。
「ギィィャァァァァァァァァァッ!!」
鼓膜を突き破るような咆哮。それは、全長数十メートルに及ぶ巨大な海蛇のような魔物だった。全身を青黒い鋼のような鱗で覆い、背中には鋭いヒレが連なっている。周囲の海水を吸い込み、大渦を巻き起こす絶海の固有種、「深淵の渦潮竜」であった。
「巨大海竜だと……! 旧大陸の近海には絶対に現れないバケモノだぞ!」
ガロが目を見開く。
渦潮竜はその巨大な顎を大きく開き、周囲の海水を極限まで圧縮し始めた。水を超高圧のレーザーのように撃ち出し、標的を粉砕する「水砲」の構えだ。あの質量が方舟に直撃すれば、いくら金剛樹の竜骨でも無事では済まない。
「方舟には、傷一つ付けさせない!」
誰よりも早く動いたのは、ローランだった。
彼は流麗な軽鎧から青白い竜のオーラを爆発させ、甲板から海面へと向かって跳躍した。海に落ちる寸前、彼は自身の魔力を足の裏に集中させ、荒れ狂う波の表面を蹴って空中へと飛び上がる。
「シィッ!」
渦潮竜が圧縮した水砲を放とうとした瞬間、ローランの長剣が一閃された。竜の魔力を限界まで込めた斬撃波が空を裂き、渦潮竜の下顎を正確に切り裂く。
「ギャアアアッ!?」
顎の軌道が大きく逸れ、放たれた超高圧の水砲は方舟の真横を通り過ぎ、遥か後方の海面を爆発させた。
「見事な一撃だ、ローラン!」
甲板からその攻防を見届けていたヴァンが、背負っていた白銀の長剣を引き抜きながら叫んだ。
「俺も行く! セリア、水場に強い最高のやつを頼む!」
「ええ、任せてヴァン!」
セリアが極限の集中力で詠唱を紡ぎ出す。
「雷雲を統べ、万物を炭化させる破壊の権化。紫色の閃光となりて、今、この器にて交わりたまえ。同化召喚……紫電の雷獣!」
詠唱が完了した瞬間、ヴァンの肉体をバチバチと音を立てる紫色の超高圧電流が包み込んだ。
チャキィィィィンッ!
白銀の長剣が、雷獣の魂に共鳴して激しく流動する。刀身が幅広で無骨なギザギザの刃を持つ「巨大な雷鋸剣」へと変異した。刃の隙間からは、触れるものすべてを炭化させる紫電が絶え間なく噴き出している。
「ハァッ!」
ヴァンは甲板を強く蹴り出し、紫電の雷獣がもたらす超音速の機動力で空中に飛び出した。
彼の動きはもはや目で追うことすら不可能な紫色の閃光と化していた。空中を舞う雨粒や、弾け飛ぶ波飛沫を物理的な足場として蹴り渡り、一瞬にして渦潮竜の頭上へと到達する。
「ギチィィィッ!?」
突如として頭上に現れたヴァンに対し、渦潮竜は驚愕の声を上げながらも、その鋼のように硬い尻尾を猛烈な速度で振り上げ迎撃を試みる。
「遅い」
ヴァンは空中で身を捻り、大木のような尻尾の攻撃を紙一重で躱す。
そして、雷獣の紫電を極限まで帯びた巨大な雷鋸剣を、渦潮竜の強靭な背中へと全力で振り下ろした。
ドガァァァァァァァァァァァンッ!!!
凄まじい轟音とともに、紫電の爆発が絶海の海面を明るく照らし出した。
ヴァンの絶大な物理的な筋力によって叩きつけられたギザギザの刃が、渦潮竜の鋼の鱗を強引に引き裂き、そこから超高圧の紫電が魔物の体内に直接流し込まれる。
海水に濡れた魔物の肉体は最高の導電体となり、紫色の雷光が渦潮竜の全身を駆け巡った。
「ギュラァァァァァァァァァァァッ!!!」
断末魔の叫びを上げ、渦潮竜の巨体が内部から完全に炭化し、機能を停止する。
力なく崩れ落ちる魔物の巨体。ヴァンは落下する海竜の頭を蹴り、その反動を利用して軽やかに方舟の甲板へと舞い戻った。
同化を解き、静かに剣を背中に収めるヴァン。
そこへ、波の表面を蹴って戻ってきたローランが、興奮冷めやらぬ笑顔で歩み寄った。
「素晴らしい連撃だった、ヴァン。私の斬撃で作った隙に、あなたが超音速で飛び込んでくるとは。……まるでお互いの思考が手に取るようにわかった」
「お前が確実に顎を逸らすと信じていたからな。あの水砲が直撃していれば、いくら俺でも足場を失っていた」
ヴァンが短く応えると、二人の戦士は互いの武の冴えを称え合うように、固い握手を交わした。
「おおおおおおおっ!!」
甲板の船員たちから、割れんばかりの歓声が沸き起こる。
絶海に潜む未知の化け物でさえ、彼らのリーダーたちの前ではもはや脅威ではないのだ。
「おいおいおい! 沈んでいくぞ! 沈む前に早くあのデカブツを網で引き上げろ!」
歓声に混じって、バクスの切羽詰まった大声が響いた。
見れば、バクスが巨大な包丁を振り回しながら、絶命して海に沈みかけている渦潮竜を指差して涎を垂らしている。
「あんな極上の海竜の肉、旧大陸じゃ絶対に手に入らねえ幻の食材だぞ! 雷でいい具合に表面が焼けてやがる! 今夜のメインディッシュは海竜の極上ステーキだぁっ!」
その言葉に、ガロをはじめとする魔族や獣人たちが「肉だ!」「飯だ!」と目の色を変え、巨大な網を海へと投げ込み始めた。
つい数分前までの死の恐怖など微塵も感じさせない、あまりにも逞しい光景だった。
「ふふっ。本当に、この船に乗っていると退屈しないわね」
セリアが呆れたように笑いながら、ヴァンの隣に並ぶ。
「ああ。だが、悪くない」
ヴァンは再び前を向き、荒れ狂う絶海の彼方を見据えた。
方舟は、海竜という大自然の試練を打ち砕き、なおも力強く進み続ける。彼らの目指す新大陸への道は、誰もが背中を預け合える仲間たちと共に、確実に切り拓かれようとしていた。




