第152話 絶海の岸辺と、出航前夜の誓い
地鳴りのような重低音が、未開の荒野に響き渡っていた。
巨大な車輪が大地を削り、そびえ立つ木々を薙ぎ倒しながら進むのは、全長百メートルを超える超大型要塞船、すなわち新大陸を目指すための「方舟」であった。
「ひははははっ! どうだ、この安定感! 金剛樹の竜骨は、これだけの巨体を陸上で走らせても軋み一つ上げねえぞ!」
操舵室で無数のレバーと舵輪を操りながら、バルガンが義手を鳴らして豪快に笑う。
元々ヴァンたちが使っていた鋼殻の移動要塞を中枢部とし、そこに巨大な木造の外殻と魔力駆動の外輪を取り付けたこの船は、海に出る前段階として、まずは陸路で海岸線へと向けてその巨体を前進させていた。
甲板や船内では、数千人に及ぶ隠れ里の住人たちや難民たちが、振り落とされないように身を寄せ合いながらも、誰もが興奮と希望に満ちた顔で外の景色を眺めていた。
「おい、そこの荷箱の固定が甘いぞ! ロープを二重に回せ!」
ローランの側近である魔族のガロが、大きな声を張り上げながら荷崩れを防ぐために走り回る。
「わかった、ガロの兄貴! こっちは俺たちに任せてくれ!」
かつては魔族を恐れていたはずの人間の職人や獣人の若者たちが、今や種族の壁など一切感じさせない笑顔でガロの指示に応え、共に汗を流している。
その光景は、旧大陸の腐敗した人間の国では決して見ることのできない、美しい連帯の姿だった。
やがて、荒野を抜けた方舟の眼前に、視界を覆い尽くすほどの巨大な灰色の壁が現れた。
いや、それは壁ではない。分厚い雨雲の下、荒れ狂う暴風によって家屋ほどの高さにまで隆起し、白波を立てて砕け散る狂乱の海。
いかなる船も飲み込み、新大陸への道を阻み続けてきた死の海峡、「絶海」であった。
「……これが、絶海。噂には聞いていたけれど、恐ろしい海ね」
甲板の先端で風に銀髪を揺らしながら、セリアが思わず息を呑む。
轟音と共に岸壁に打ち付ける波の威力は、ただの自然現象というよりも、海そのものが巨大な魔物として生きているかのような錯覚すら覚えさせた。
「機関停止! 陸上走行モード解除! ここで一度錨を下ろすぞ!」
バルガンの号令とともに、方舟は絶海に面した広大な海岸線でその巨体を静止させた。巨大な鉄の錨が砂浜に打ち込まれ、船体がしっかりと固定される。
すぐにルミナが分厚い帳簿を開き、甲板の船員たちに指示を出し始めた。
「皆さん、ここが旧大陸の最西端です! 出航は明日の朝。それまでに、船体の最終的な防水チェックと、海岸付近での真水および塩の最終補給を行います! 物資の漏れがないよう、各班ごとに報告を徹底してください!」
商人としてのルミナの的確な指示のもと、数千人の民が整然と動き始める。
その横では、バクスが巨大な寸胴鍋をいくつも並べ、獣人の料理人たちを束ねて腕を振るい始めていた。
「おうおう、明日はついに死の海に漕ぎ出すんだ! 今夜は景気づけに、ありったけの美味い肉と酒を振る舞ってやる! 腹が減ってちゃ嵐は乗り越えられねえからな、とびきりの出航前夜の宴にしてやるぜ!」
活気に満ちた海岸の野営地を見下ろす少し高い崖の上に、黒曜の鱗鎧を纏ったヴァンが静かに立っていた。
荒れ狂う絶海の潮風が彼を打ち据えるが、その無駄のない引き締まった肉体は微動だにしない。
「良い風だ。過去をすべて洗い流してくれそうなほどのな」
背後から足音が近づき、流麗な軽鎧を着たローランがヴァンの隣に並び立った。
彼の頭部に生えた白銀の角が、暗い雲間から差し込む微かな光を反射している。
「旧大陸との決別は済んだか、ヴァン」
ローランが、荒波を見つめながら静かに尋ねた。
「ああ。未練など最初から微塵もない」
ヴァンが短く答えると、ローランは満足げに頷いた。
「王都が消滅し、人間たちの社会は今頃、残されたわずかな土地と食料を巡って醜い殺し合いを始めているだろう。召喚術という力に驕り、他者を見下し搾取し続けた末路だ。……私たちは、あの腐敗した歴史から完全に抜け出す」
ローランの竜の瞳孔が、絶海の彼方、まだ見ぬ新天地へと真っ直ぐに向けられる。
「この恐ろしい海を越えれば、誰も足を踏み入れたことのない白紙の大地がある。そこでなら、私たちは本当に一から、誰もが平等に笑い合える国を創れるはずだ」
ローランの言葉には、虐げられた者たちを背負い続けてきたリーダーとしての深い祈りと、揺るぎない覚悟が込められていた。
「越えるさ」
ヴァンは腰に帯びた白銀の長剣の柄にそっと手を添え、極めて冷徹に、しかし確かな熱を込めて言った。
「海が荒れようが、未知の化け物が潜んでいようが関係ない。俺がすべてこの剣で断ち斬り、道を拓く。お前たちは、ただ俺の背中についてくればいい」
その背中を見るローランの瞳には、深い敬意と信頼が宿っていた。
魔力を持たないこの人間の戦士が、どれほど純粋で、どれほど強大な魂を持っているか。共に剣を交え、共に金剛樹を切り出したローランは、誰よりもそれを理解している。
「頼もしいことだ。今夜は、宴の席でバクスの飯を食いながら、我々の創る新しい国についてじっくりと語り合おうではないか。新大陸でのそれぞれの夢をな」
ローランが嬉しそうに微笑み、ヴァンもわずかに口角を上げた。
「悪くないな。酒の準備をしておけ」
背後では、バクスの厨房から食欲をそそる香ばしい匂いが漂い始め、民衆たちの明るい笑い声が風に乗って聞こえてくる。
方舟の出航は明日の夜明け。
旧世界を捨て、真の自由と平等を手に入れるための壮大な航海を前に、一行は絶海の岸辺で、希望に満ちた最後の夜を迎えようとしていた。




