第149話 旧世界の限界と、海を隔てた新天地
隠れ里に夜明けの陽光が差し込む頃。昨夜の宴の熱気を残しつつも、里の住人たちと王都から逃げ延びた亜人たちは、すでに新たな生活に向けて活き活きと動き始めていた。
「この木材は防壁の補修に回してくれ。そっちの若い衆は、バクスの旦那の厨房の拡張を手伝ってやってくれ!」
バルガンの義手が朝日を反射して輝き、里のドワーフや獣人たちが活気のある返事と共に駆け回る。かつて人間に鞭打たれていた彼らの顔には、自らの居場所を創り上げるという誇りと希望が満ちていた。
その光景を、小高い丘の上に建てられた長の屋敷から、ヴァンとローランが並んで見下ろしていた。
「……素晴らしい光景だ。人間たちに虐げられ、うつむいていた彼らが、今あのように生き生きと動いている」
ローランが感嘆の息を吐く。しかし、その知性を宿した竜の瞳孔には、微かな憂いの色が混じっていた。
屋敷の奥の広間では、ルミナが分厚い地図をいくつも広げ、深刻な顔で羽ペンを走らせていた。ヴァンとローランが中へ入ると、彼女は静かに口を開いた。
「ヴァンさん、ローラン様。今後の建国計画についてですが……やはり、この大陸内に新たな領土を切り拓くのは、あまりにも現実的ではありません」
ルミナは大陸の地図を指し示した。
「人間の国が崩壊を始めたとはいえ、各地にはまだ私兵を抱えた貴族の残党や、傭兵団、そして他の亜人や魔族の勢力が無数にひしめき合っています。もし私たちがここに数万の民を抱える『国』を創れば、水源や豊かな土地を巡って、必ず凄惨な領土戦争が起きます。血を流し、奪い合う歴史は、旧時代の人間たちのやり方と何も変わらなくなってしまいます」
その言葉に、ローランは深く頷いた。
「私も同じ危惧を抱いていた。この大陸には、過去の怨念と差別という鎖が染み付きすぎている。どこに国を創ろうとも、過去のしがらみが必ず我々の足枷となるだろう」
ヴァンは腕を組み、広げられた地図の「白紙」となっている端の部分を静かに見つめた。
「腐った過去の理屈が届かない、完全に新しい土台が必要ということだな」
「ええ」
ローランは表情を引き締め、書物庫の奥から大切そうに抱えてきた、ひどく古い羊皮紙の筒を取り出した。それは、竜人の血脈にのみ口伝として受け継がれてきた、古代の海図だった。
ローランはそれをルミナの地図の隣に広げた。
「この大陸の西の果てには、『絶海』と呼ばれる常に嵐が吹き荒れる海峡がある。いかなる船も飲み込む死の海だ。しかし……竜の伝承によれば、その狂い咲く海を越えた先に、いかなる人間の国も、旧世界の勢力も足を踏み入れたことのない処女地が存在するという」
ローランは海図の空白地帯を真っ直ぐに指差した。
「『新大陸』。召喚術の歴史にも記されていない、全くの未開の大地。そこには王侯貴族も、種族の差別も、古い権力闘争も一切存在しない。誰もが過去に縛られることなく、自由と平等を掲げて一から国を創るには、そこしかない」
ルミナが息を呑み、セリアも驚きに目を丸くした。
しかし、ローランは厳しい声で続けた。
「だが、絶海を越えるのは自殺行為に等しい。海を割るような大嵐と、山ほどもある海竜や巨大魔物がうろついている。さらに新大陸の環境も未知数だ。我々が知るどんな原生モンスターよりも恐ろしい化け物がいるかもしれない。だからこそ、これまで誰も挑まなかったのだ」
部屋に重い沈黙が落ちた。旧世界を捨てる代償は、あまりにも巨大な自然の脅威だった。
しかし、その沈黙を破ったのは、豪快な笑い声だった。
「ひははははっ! 面白えじゃねえか!」
入り口の柱にもたれかかっていたバルガンが、義手を鳴らしながらニヤリと笑った。
「巨大な海竜に、船を沈める大嵐? 上等だ。俺の職人魂がこれほど疼く挑戦はねえぞ。あの鋼殻の要塞を徹底的に解体し、里のドワーフどもの力も借りて、絶対に沈まねえ水陸両用の『超大型要塞船』に魔改造してやる。大将がその気なら、船のことはこの俺に任せな!」
バルガンの言葉に、ルミナもハッと顔を上げ、商人の顔つきになった。
「要塞を船にするなら、数千人の民と数ヶ月分の物資を積載できる巨大なものになりますね。旧大陸中の港から物資を買い占める必要があります。……途方もない計画ですが、やれないことはありません!」
皆の視線が、ヴァンへと注がれる。
ヴァンは海図の新大陸を静かに見据え、腰に帯びた白銀の長剣の柄にそっと手を添えた。
「古い玉座を奪い合うだけの世界に、俺たちの居場所はない。誰もが己の足で立ち、汗を流し、互いを等しく認め合う国。……それを創るには、誰も踏み入れたことのない土地を開拓するしかない」
ヴァンの声は静かだったが、そこには揺るぎない覚悟と、途方もない未来を切り拓く戦士の意志が宿っていた。
彼は振り返り、ローランと仲間たちを真っ直ぐに見つめた。
「新大陸を目指す。迫り来る大嵐も、未知の化け物も、俺の剣で前を拓く。……共に来るか、ローラン」
その決断に、ローランの竜の瞳孔が熱く揺れた。
虐げられた者たちを背負い、この狭い谷底でひっそりと生きるしかなかった彼に、ヴァンは「海を越え、全く新しい世界を創る」という、途方もなく巨大で眩しい希望を提示したのだ。
「……もちろんだ、ヴァン! 私の剣も、この里の民の命も、すべてその新天地への航海に懸けよう!」
ローランが力強く頷き、ヴァンと固い握手を交わす。
こうして、隠れ里の小さな長屋で、世界の歴史を根本から覆す壮大な計画が産声を上げた。
旧大陸の腐敗した国々が泥沼の争いを続ける中、凄まじい力を持つ戦士と彼を信じる者たちは、完全に彼らを置き去りにし、誰も知らない自由と開拓の新天地を目指すための、巨大な方舟の建造へと動き出すのであった。




