第144話 崩壊の跫音と、己の足で立つ者たち
鋼殻の移動要塞と木造の大型荷馬車は、人間の支配領域を完全に抜け、荒涼とした岩山が連なる「無人峡谷」へと足を踏み入れていた。
周囲に人間の気配は一切ない。あるのは乾いた風の音と、要塞が踏み砕く岩の音だけだった。
荷馬車の中では、王都から逃げ延びた亜人たちが、これまでにない穏やかな時間を過ごしていた。
「ゆっくり噛んで食えよ。人間の街じゃろくなもんを食わせてもらってなかったんだ。急に胃に入れると驚いちまうからな」
バクスが干し肉を柔らかく煮込んだスープを配って回る。
受け取る彼らの手はまだ少し震えていたが、その瞳からは、かつてのような底なしの絶望と恐怖は薄れつつあった。
荷台の隅で、片目を潰された年老いたドワーフが、自分の節くれだった手をじっと見つめていた。
バルガンが隣に腰を下ろし、火のついていないパイプを咥えながら声をかける。
「どうした、爺さん。手首の鎖の擦り傷が痛むか?」
「……いや。この手が、自分の意志で動かせるのが、なんだか信じられなくてな」
老ドワーフは自嘲気味に笑った。
「王都では、石を切り出し、城壁を積むためだけの道具だった。人間どもは『召喚術こそが至高であり、お前たちの手仕事は泥臭くて下等な労働だ』と嘲笑いながら、俺たちをムチで打った。……俺たちは誇り高き山の民だったはずなのに、いつの間にか自分たちでも、自分をただの石っころだと思うようになっていたんだ」
バルガンは深く頷き、自らの左腕の精巧な義手を撫でた。
「俺も昔、東の王都で同じ目を見た。手先が器用だってだけで、奴隷みたいに城壁を作らされた。誇りも技術も、全部あいつらの虚栄心のために搾取されたんだ。……だがな、爺さん。俺たちは道具じゃねえ。この手で何かを創り出せるってのは、魔法なんかよりよっぽど尊い力だ」
バルガンの言葉に、老ドワーフはわずかに目頭を熱くし、何度も頷いた。
一方、要塞の居住区画では、ルミナが情報ギルドの隠し回線から受信した最新の報告書を読み上げ、重い溜息を吐いていた。
「……人間の国々は、私たちが想像していた以上に早く自壊を始めているようです」
ルミナが地図の上に報告書を広げる。
「王都が滅び、数万の亜人奴隷が解放された影響は、周辺諸国に致命的な打撃を与えています。これまで農作業、建築、インフラの維持のすべてを奴隷に押し付けていたため、人間の社会は完全に機能不全に陥りました」
セリアが静かに紅茶のカップを置いた。
「召喚師たちは、魔法で生活を維持できないの?」
「ええ。彼らの召喚術は強力な兵器にはなりますが、繊細な日常の労働や、継続的なインフラ管理には不向きです。それに、高位の召喚師は『下等な労働など誇り高き自分たちのやることではない』と労働を拒否しています。結果として、各国は魔力を持たない下層の人間たちを新たな『奴隷』として強制労働させ始めました」
ルミナの言葉に、車内に重い沈黙が落ちた。
異種族を差別し、搾取し尽くした末に、今度は同じ人間同士で鎖を繋ぎ合い、暴動と反乱が各地で頻発しているというのだ。
召喚術を絶対視し、強者が弱者を踏みにじることを正当化し続けた社会の、あまりにも無惨で醜悪な末路だった。
ヴァンは壁にもたれかかり、窓の外の荒野を静かに見つめていた。
彼の横顔には、崩壊していく人間の国々に対する嘲笑や歓喜は一切ない。ただ、理不尽なシステムがもたらした必然の結末に対する、静かで底知れぬ怒りと冷徹な現実主義だけがあった。
「腐った土台の上にどれだけ立派な城を建てても、いずれ崩れ落ちる。彼らは自らの傲慢さで自らの首を絞めただけだ」
ヴァンは淡々とそう言い捨てた。もはや人間の社会は、彼にとって完全に決別した過去のものだった。
その時、要塞が急ブレーキをかけて停止した。
「おい、大将。前方の峡谷の道が、土砂崩れで完全に塞がってやがるぞ」
操縦席のバルガンが声を上げる。
ヴァンがタラップを降りて確認すると、数百トンはあろうかという巨大な岩と土砂が、狭い一本道を完全に埋め尽していた。
「私が風の魂を喚ぼうか? ヴァンの剣なら、あの岩山ごと吹き飛ばせるはずよ」
タラップを降りてきたセリアが提案するが、ヴァンは首を横に振った。
「いや、これだけ地盤が緩んでいる場所で極大の斬撃を放てば、さらなる土砂崩れを誘発して馬車が巻き込まれる危険がある。手作業で通れるだけの道を切り開く」
ヴァンはそう言うと、要塞の工具箱から巨大なツルハシと鉄の棒を取り出し、一人で土砂の山へと向かおうとした。
その時だった。
「お、お待ちください……!」
荷馬車の方から、犬の獣人の少年と、先ほどの老ドワーフをはじめとする数十人の亜人たちが、ぞろぞろと降りてきたのだ。
彼らの手には、それぞれ要塞の予備のスコップや、手頃な岩などが握られている。
「俺たちにも、手伝わせてください」
老ドワーフが一歩前に出て、真っ直ぐにヴァンを見上げて言った。
「人間どもに命令されて石を退けるんじゃない。俺たちの意志で、俺たちの進む道を拓きたいんだ」
獣人の少年も、小さなスコップを強く握りしめて力強く頷いている。
召喚師がすべてを支配する国では、魔力を持たない者は無能とされ、命令されなければ動くことすら許されなかった。
しかし今、彼らは誰の鎖にも繋がれず、ムチの恐怖に怯えることもなく、自らの足で立ち、自らの意志で道を切り開こうとしている。
バクスとバルガンは、同胞たちのその姿に言葉を失い、目頭を押さえた。
ヴァンは静かに彼らを見渡し、そして、ほんのわずかだけ口角を上げた。
「怪我だけはするなよ」
その短い一言に、亜人たちの顔にパッと明るい希望の光が宿った。
「よし、野郎ども! 腕の力と石の扱いなら、人間の魔法なんかに負けやしねえってところを見せてやろうぜ!」
バルガンの号令とともに、亜人たちが一斉に土砂崩れの現場へと向かう。
ドワーフたちが岩の目利きをして砕くポイントを指示し、獣人たちが持ち前の腕力で巨大な岩を次々と転がしていく。
ヴァンもまた、彼らの間に混ざり、誰よりも巨大な岩を黙々と運び続けていた。
高貴な人間たちは決して自分の手を汚そうとしない。
しかし、圧倒的な力を持つはずの漆黒の鎧の戦士は、泥だらけになりながら、最も弱い者たちと共に汗を流している。
その光景は、亜人たちの心に残っていた最後の「身分」や「種族」という壁を、完全に打ち砕いていた。
数時間の後、土砂の山は見事に切り拓かれ、要塞と荷馬車が通れるだけの立派な道が完成した。
泥だらけになった亜人たちは、疲労困憊しながらも、互いの顔を見て清々しい笑い声を上げている。彼らの瞳には、もはや奴隷の面影は微塵もなかった。
「お疲れ様です、皆さん! バクスさんが冷たい果実水を用意してくれましたよ!」
ルミナとセリアが笑顔で駆け寄り、皆に飲み物を配って回る。
ヴァンは切り拓かれた道の先に広がる、どこまでも続く未開の荒野を見据えた。
彼らが自らの手で拓いた道。それは、旧時代の腐敗したシステムを完全に過去のものとし、誰もが平等に生きられる新しい国へと続く、確かな第一歩であった。




