第145話 崩れゆく砂の城と、名もなき大地
無人峡谷を抜けた鋼殻の移動要塞は、人間の手による地図が完全に白紙となる領域、すなわち「未踏の荒野」の入り口に広がる小高い丘の上に停車していた。
背後には、彼らが決別してきた人間の支配領域が、遠く霞んで見えている。
要塞の居住区画では、ルミナが各国の情報ギルドから傍受した最後の通信記録をテーブルに広げ、深く、暗い溜息を吐いていた。
「……これが、人間の国々に関する最後の報告になると思います。情報網そのものが、完全に機能停止しました」
ルミナの声は酷く冷えていた。
「グランゼル王都の消滅は、周辺諸国に致命的な連鎖崩壊を引き起こしました。王都跡地に居座った災害級魔物を討伐しようと、隣国の領主たちが自慢の特級召喚師団を派遣したそうですが……結果は全滅。魔法が一切通じない絶対的な暴力を前に、召喚術という力に依存しきっていた彼らは、防御も撤退もできずに蹂躙されたようです」
バルガンが腕を組み、火のついていないパイプを奥歯で強く噛み締めた。
「召喚獣がやられれば、ただのひ弱な人間に成り下がる。自分自身の足で立ち、武器を振るうことを野蛮だと切り捨ててきた連中の末路だな」
「ええ。ですが、真の地獄はその後です」
ルミナは羽ペンを置き、軽蔑を隠しきれない瞳で報告書を見つめた。
「軍事力を喪失し、亜人の奴隷という労働力も失った貴族たちは、ついに自国の魔力を持たない平民たちに牙を剥きました。食料を独占し、平民たちに強制労働の首輪をはめようとしたのです。当然、各地で大規模な反乱が起き、国境線は意味を成さなくなりました。……栄華を極めた人間たちの社会システムは、外部からの侵略ではなく、彼ら自身の傲慢さと腐敗によって、内側から完全に崩壊したんです」
その凄惨な末路を聞き、バクスは厨房の入り口でギリッと牙を噛み鳴らした。
「……自業自得だ。俺たち獣人やドワーフを、自分たちの優越感を満たすための道具としてしか見ていなかった連中だ。俺は人間の街で、何度も石を投げられ、泥水を飲まされてきた。バルガンだって、どれだけ素晴らしい技術を持っていようと、地下牢に繋がれて人間たちの手柄にされてきたんだ。……他人の尊厳を踏みにじって積み上げた砂の城が、いつまでも保つわけがねえんだよ」
バクスの言葉には、長年受けてきた理不尽な差別に対する深い悲しみと、それがようやく終わったという静かな安堵が入り交じっていた。
ヴァンは壁にもたれかかり、無言のまま彼らの言葉を聞いていた。
その顔に、崩壊していく人間の国々に対する嘲笑や歓喜は一切ない。
人間社会の頂点に君臨していた王族や大貴族たちが、金や地位で自分を買収しようとしたあの醜悪な晩餐会の光景。彼らは自分たちの安全な箱庭が永遠に続くと信じて疑わなかった。だが、現実の脅威を前にして、その箱庭はあまりにも脆く、無惨に砕け散った。
「見切りをつけて正解だったな」
ヴァンは極めて淡々と、ただ事実だけを口にした。
「あのまま国に取り込まれていれば、俺たちもまた、あの泥沼のような権力闘争と搾取の連鎖に巻き込まれていた。俺の剣は、腐った玉座を守るためのものではない」
ヴァンの言葉に、セリアが静かに頷いた。
「ええ。私たちは私たちの足で立ち、私たちの意志で生きる。それだけでいいわ」
要塞の外に目を向けると、丘の斜面では、王都から逃げ延びた数十人の亜人たちが、思い思いに野営の準備を進めていた。
数日前まで、彼らは主人の命令がなければ息をすることすら怯える奴隷だった。しかし今は違う。
「そこの若い衆! その木材はこっちに運んでくれ! 要塞の装甲の補強に使う!」
バルガンが窓から顔を出し、義手を振り上げながら指示を飛ばす。
「おう、任せてくれバルガンの旦那!」
獣人の若者たちが、かつては鞭の恐怖で運んでいた重い資材を、今は自分たちの居場所を護るために、汗を輝かせながら力強く運んでいる。
少し離れた場所では、あの犬の獣人の少年とエルフの少女たちが、バクスから教わった方法で、近くの森で採れた野草や果実の仕分けを行っていた。
「バクスさん、この赤い実はシチューに入れてもいいですか?」
「おお、そいつは酸味が肉の臭みを消してくれるんだ。よく見つけたな!」
バクスに頭を撫でられ、少年は尻尾をちぎれんばかりに振って喜んでいる。
その光景は、召喚師絶対主義の人間の国では決して見ることのできない、種族の壁を超えた温かな連帯の姿だった。
ヴァンは静かにタラップを下り、丘の風に吹かれながら、広大な未踏の荒野を見渡した。
西に沈みゆく太陽が、彼の身を包む黒曜の鱗鎧を鈍く、力強く照らし出している。
「ヴァン」
背後から足音が近づき、セリアがヴァンの隣に立った。
彼女の長い銀髪が風に揺れ、神秘的な紫色の瞳が、ヴァンと同じように地平線の彼方を見つめている。
「これから、どうするの? ここから先は、ルミナの地図にも載っていない、本物の未開の地よ。人間の国以上に、恐ろしい原生モンスターがうろついているかもしれないわ」
ヴァンは視線を外さず、腰に帯びた白銀の長剣の柄にそっと手を添えた。
「どうもしない。ただ、進むだけだ」
ヴァンの声は、どこまでも静かで、重く、そして確かな熱を持っていた。
「人間たちは自分たちの力に驕り、他者を差別することでしか己の価値を証明できなかった。その結果が、あの燃え落ちた国々だ。……俺は、同じ過ちは繰り返さない」
ヴァンは振り返り、野営地で笑い合うバクス、バルガン、ルミナ、そして解放された亜人たちの姿を見つめた。
「魔法が使えなくても、種族が違っても、関係ない。自らの足で立ち、共に汗を流し、互いの背中を預けられる者。俺はそういう奴らと共に生きる。迫り来る理不尽な暴力があれば、俺がすべてこの剣で断ち斬り、道を拓く」
それは、激昂でも、理想論でもない。
理不尽に満ちた世界を、純粋な己の力だけで生き抜いてきた極めて現実主義な戦士が下した、最も重く、揺るぎない覚悟だった。
「俺たちが歩いた轍の後に、誰もが鎖を繋がれることなく、胸を張って笑える場所を創る。それが、俺たちの新しい国だ」
ヴァンの静かな、しかし強烈な意志が込められた言葉に、セリアは目を細め、誇らしげに微笑んだ。
かつて、同化召喚師という異端の力を持っていたがゆえに、誰からも理解されず孤独だった彼女。しかし今は、この絶対的な強さと信念を持つ戦士の隣こそが、彼女の存在する唯一の場所だった。
「ええ。あなたの創る国を、私も一番近くで見届けるわ。どんな恐ろしい化け物が立ち塞がろうとも、私が最高の魂をあなたに宿してみせる」
野営の焚き火が次々と灯り始め、荒野の夜が静かに降りてくる。
人間たちの腐敗した社会システムは背後で完全に音を立てて崩れ去り、驕り高ぶった貴族たちは歴史の闇へと消えていった。
召喚術という絶対的な基準に縛られ、価値がないと追放された戦士は、今や数十人の民を率い、人間社会の枠組みそのものを完全に置き去りにしてしまった。
翌朝。
鋼殻の移動要塞の重低音が、新しい一日の始まりを告げるように鳴り響いた。
バクスが厨房で豪快に笑い、バルガンが操縦席で舵輪を握る。ルミナが新しい白紙の地図を広げ、亜人たちが希望に満ちた瞳で荷馬車に乗り込む。
そして、その先頭で、黒曜の鱗鎧を纏ったヴァンが、白銀の剣と共に静かに前を見据えていた。
彼らの進む先には、道など存在しない。
だが、彼らが踏みしめ、進んだ場所こそが、新たな時代の地図となるのだ。
凄まじい力を持つ戦士と、彼を信じ、自らの足で立ち上がった者たちの旅は、あらゆる差別と腐敗の鎖を断ち切り、未開の大地へと力強くその轍を刻み始めたのであった。




