第142話 追従する悪意と、揺るがぬ境界線
西の未開領域へと続く荒れ地を、鋼殻の移動要塞とそれに連結された大型の木造荷馬車が、重々しい轍を刻みながら進んでいた。
王都の崩壊から逃れ、ヴァンの背中を追ってきた数十人の亜人たちは、荷馬車の中で身を寄せ合い、怯えた獣のように周囲の気配を窺い続けていた。
「どうだ、少しは休めそうか?」
荷馬車の見回りに来たバクスが、毛布を配りながら優しく声をかける。しかし、亜人たちはビクッと肩を震わせ、無意識に首をすくめてしまう。長年、人間の貴族たちに植え付けられた恐怖は、そう簡単に拭い去れるものではなかった。
「……無理もねえさ。俺だって、昔は人間の街を歩くたびに、いつ石が飛んでくるかとビクビクしてたからな」
バクスは寂しそうに笑い、彼らを安心させるように少し離れた場所で護衛の立ち位置についた。
要塞の操縦席では、バルガンが険しい顔で前方の荒野を睨みつけていた。
「……おい、大将。どうやら人間のしつこさを舐めていたらしい。前方の丘の向こうから、武装した騎馬隊が近づいてきやがる。数は五十……いや、百近い。旗印は、王都の隣にあったルクセン領のものだ」
その報告に、居住区画で剣の手入れをしていたヴァンが静かに立ち上がった。
土煙を上げて接近してきた騎馬隊は、要塞の進路を完全に塞ぐようにして半円状に展開した。
立派な鎧を着込んだ騎士たちと、その後方に控える数十人の召喚師たち。そして、その中央から進み出てきたのは、金糸の刺繍が施された豪奢な外套を羽織る、ルクセン領主の使いである子爵だった。
要塞が停車し、タラップが下りる。
ヴァンが先頭に立ち、その後ろにセリア、ルミナ、そしてバクスとバルガンが続く。
「おお、あなたが噂に名高い戦士、ヴァン殿ですね! お初にお目にかかります。私はルクセン辺境伯の名代として参った、子爵のベルナールと申します」
ベルナール子爵は馬の上から愛想よく笑いかけ、大げさな身振りで挨拶をした。しかし、その視線がヴァンの背後に立つバクスやバルガンに向けられた瞬間、彼の顔に露骨な嫌悪と侮蔑の表情が浮かんだ。
「……それにしても、酷い悪臭だ。英雄ともあろうお方が、なぜこのような汚らわしい獣を侍らせているのですか? そこの醜いドワーフも、本来なら暗い地下で石を這いずり回るしか能のない出来損ないの分際で、人間と同じ空気を吸うなど図々しいにも程がある」
子爵の容赦のない言葉に、バクスはギリッと牙を噛み鳴らし、バルガンは深く帽子を被り直して拳を握りしめた。
さらに子爵の視線は、要塞の後部に連結された荷馬車へと向けられた。
「それに、そちらの汚い馬車に乗っているのは、王都から逃げ出した『所有物』たちですね。王都が消滅した今、あの土地とそこに残された資産は、最も近くに領地を持つ我がルクセン辺境伯が管理する正当な権利を有しております。さあ、その脱走した奴隷どもをこちらへ引き渡しなさい。逃げた罰として、まずはその獣の足を切り落とし、ドワーフの目を潰して従順さを教え込まねばなりませんからな」
荷馬車の中から、絶望に満ちた小さな悲鳴が漏れた。
亜人たちが身を寄せ合い、ガタガタと震えている。せっかく解けかけた彼らの心の鎖を、人間の貴族は再び暴力と恐怖で縛り付けようとしていた。
「お待ちください、子爵様」
ルミナが一歩前に出て、冷静な声で交渉を試みた。
「王都は災害によって滅びました。彼らを縛っていた契約の魔法もすでに消失しています。彼らはもはや誰の所有物でもありません。それを力ずくで連れ去ろうというのであれば、それは単なる山賊行為です」
「黙れ、薄汚いハーフエルフが!」
子爵が顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
「人間の血を穢す忌まわしい混血の分際で、高貴なる私に口答えをするか! 所詮は獣やエルフなど、我々召喚の力を持つ人間に奉仕するための道具に過ぎん! 道具に自由などあるものか!」
子爵は再びヴァンへと向き直り、ひどく歪んだ笑みを浮かべた。
「ヴァン殿。我が主君は、あなたのその圧倒的な武力を高く評価しておいでです。こんなゴミ屑のような亜人どもなど捨てて、我がルクセン領の軍団長としてお迎えしたい。そうすれば、金も、地位も、美しく躾けられた真新しい人間のメイドも思いのままだ。……どうです? 賢明なあなたなら、どちらを選ぶべきかお分かりでしょう?」
それは、黄金の王都で聞いたものと全く同じ、人間の傲慢さと腐敗が煮詰まったような醜悪な誘いだった。
怪物を倒し、人々を救っても、この社会システムが続く限り、弱者は永遠に搾取され、見下され続ける。バクスやバルガンがどれほど技術を持っていようと、どれほど優しい心を持っていようと、彼らはただ「種族」というだけで石を投げられるのだ。
「……ヴァン殿?」
沈黙を続けるヴァンに対し、子爵がいぶかしげに声をかけた。
ヴァンは静かに、ただ静かに一歩を踏み出した。
その顔には激しい怒りも、憎悪も浮かんでいない。極めて冷徹で、感情の抜け落ちた氷のような無表情。
しかし、その全身から立ち上る「死の気配」は、かつて討伐してきたどの災害級魔物よりも重く、鋭かった。
「ひっ……!」
ヴァンの放つ純粋な殺気に当てられ、子爵が乗っていた軍馬がパニックを起こして前脚を跳ね上げた。子爵は無様に落馬し、泥だらけの荒野を転がる。
周囲の騎士たちや召喚師たちも、目に見えない巨大な岩に押し潰されたように呼吸を乱し、武器を構えることすらできずに後ずさった。
魔力を一切持たない男が放つ、究極の身体能力と死線を潜り抜けてきた経験から来る、絶対的な圧力。
ヴァンは泥だらけになって震える子爵を見下ろし、腰の白銀の長剣をゆっくりと引き抜いた。
「大将……!」
バクスが息を呑む。
ヴァンはそのまま剣を上段に構え、子爵の背後、騎馬隊が展開している荒野の地面に向かって、一切の魔力を持たない純粋な物理的斬撃を振り下ろした。
シィッ、という鋭い呼気と共に放たれた一撃。
刃が空気を切り裂く凄まじい風圧と、ヴァンの人外の膂力が生み出した衝撃波が、荒野の硬い岩盤を一直線に叩き割った。
ズガァァァァァァァンッ!!
砂煙が舞い上がり、大地が悲鳴を上げる。
土煙が晴れた後、そこには子爵と騎馬隊の間を完全に分断する、長さ数十メートル、深さ数メートルにも及ぶ巨大な亀裂が刻み込まれていた。
召喚術も魔法も使わず、ただ剣を振るった風圧だけで地形を変えてしまったのだ。
「こ、ひぃぃぃぃっ!」
子爵は腰を抜かし、ガチガチと歯を鳴らして後ずさる。
「この線が境界だ」
ヴァンは白銀の剣を静かに鞘に収め、低く、地を這うような声で告げた。
「俺の仲間に、そして俺の背中を追う者たちに、二度と貴様らの汚い理屈を近づけるな。この線を一歩でも越えれば、次は貴様らの首が落ちる」
それは交渉ではなく、絶対者の宣告だった。
「ひ、退け! 退けぇぇっ! バケモノだ、あいつは人間の皮を被ったバケモノだ!」
子爵は這いつくばるようにして兵士たちの元へ逃げ帰り、百近い騎馬隊はヴァン一人に完全に戦意を喪失し、我先にと土煙を上げて逃げ去っていった。
静寂が戻った荒野で、ヴァンは静かに振り返った。
バクスとバルガンは、自分たちを侮辱した相手をただ力でねじ伏せるだけでなく、明確に「仲間」として護り抜いてくれたヴァンの姿に、言葉にならない感謝と熱いものを瞳に浮かべていた。
そして、荷馬車の影からその光景を見ていた亜人たちは、恐怖ではなく、畏敬の念を持ってその漆黒の鎧の戦士を見つめていた。
どんな強大な貴族よりも、どんな魔法よりも強い力で、自分たちを「物」ではなく「護るべき者」として扱ってくれた男。
彼らの心にこびりついていた差別の鎖が、ヴァンの放った一撃によって、今度こそ完全に断ち切られた瞬間だった。
セリアが静かに歩み寄り、ヴァンの太い腕にそっと触れる。
「行きましょう、ヴァン。私たちの国を創るための、新しい土地へ」
「ああ」
ヴァンは短く応え、再び要塞へと歩き出した。
人間の社会がどれほど腐敗していようとも、彼が護るべき境界線は決して揺らがない。凄まじい力を持つ戦士と、彼を信じる者たちの長い旅は、人間の支配が届かない未踏の荒野へと、さらに深く進んでいくのであった。




