第141話 染み付いた鎖と、隣国の冷笑
バルガンの徹夜の作業により、鋼殻の移動要塞の後部には、頑丈な牽引式の大型荷馬車が連結されていた。
木材と要塞の予備装甲を組み合わせて作られたその即席の馬車は、見た目こそ無骨だが、数十人の亜人たちが雨風をしのぎ、足を伸ばして眠るには十分な広さと強度を備えていた。
荒野に日が沈み、冷たい風が吹き始める頃。一行は岩山を背にした開けた場所で野営の準備を始めていた。
「さあ、遠慮せずに腹いっぱい食いな! 今日は特大の猪肉と、身体が芯から温まる根菜のシチューだぞ!」
要塞の厨房から、バクスが湯気を立てる巨大な鍋を両手で抱えて降りてきた。
香ばしい肉の匂いと、優しいスープの香りが野営地に広がる。何日もまともな食事をとっていなかったであろう亜人たちの喉が、一斉にゴクリと鳴った。
だが、誰もその鍋に近づこうとしない。
獣人たちは身を寄せ合い、ドワーフたちはうつむいて視線を逸らし、エルフの少女たちは怯えたように互いの手を握りしめている。
彼らの瞳に浮かんでいるのは、強烈な恐怖と戸惑いだった。
「……どうした? 口に合わなそうか?」
バクスが不思議そうに首を傾げると、群れの中から、あの犬の獣人の少年がおずおずと前に進み出た。
「あ、あの……。僕たちのような奴隷が、ご主人様たちより先に食事をいただくなんて、そんなこと……。それに、こんな温かくて美味しそうなものは、僕たちが口にしていいものじゃありません。残飯か、家畜の餌で十分ですから……」
少年の震える言葉に、バクスは言葉を失い、持っていたお玉を取り落としそうになった。
バルガンもまた、パイプを握る手を小刻みに震わせている。
王都は消滅し、首輪の魔法は解けた。しかし、人間たちから長年にわたって受け続けた「お前たちは物であり、家畜である」という洗脳にも似た差別の記憶は、彼らの心に見えない鎖として深く、深く食い込んでいたのだ。
少しでも人間より前に出れば、容赦のない鞭が飛んでくる。その恐怖が、彼らの本能を縛り付けていた。
その重苦しい空気を破ったのは、ヴァンだった。
彼は無言のままバクスの持つ鍋に近づき、木でできた粗末な椀にシチューをたっぷりと注いだ。
そして、亜人たちが固まる地面のど真ん中、少年のすぐ目の前の土の上にどっかりと胡座をかいて座り込んだ。
「ヴァン……?」
セリアが驚いたように目を丸くする。
ヴァンは周囲の視線を気にすることなく、木のスプーンでシチューを掬い、一口食べた。
「美味いな、バクス」
「あ、ああ……! 腕によりをかけたからな!」
ヴァンは少年の顔を真っ直ぐに見据え、手にした椀を差し出した。
「俺の仲間が作った飯だ。残飯でも家畜の餌でもない。これを食わないなら、俺の後ろを歩く資格はない」
その声は決して怒鳴っているわけではないが、戦士としての静かな威厳と、有無を言わせぬ説得力があった。
少年は恐る恐る椀を受け取り、一口だけスープを口に含んだ。
その瞬間、少年の大きな瞳からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。温かい食事が、冷え切っていた彼の心と身体を内側から溶かしていく。
「……おいしい、です。すごく……」
少年が泣きながらシチューをかき込み始めると、それを見た他の亜人たちも、堰を切ったようにバクスの鍋へと群がり始めた。
セリアも微笑みながら彼らに椀を手渡し、ルミナも優しく声をかけながらパンを配って回る。
その温かな光景を、ヴァンは少し離れた場所から静かに見守っていた。
しかし、彼の心の中には、人間の社会システムに対する冷たく重い怒りが静かに渦巻いていた。これほどまでに他者の尊厳を踏みにじり、心を壊す仕組みが、この世界の「当たり前」としてまかり通っている事実。
やがて、近くの国境の街へ情報収集と物資の買い出しに出ていたルミナが、馬車を飛ばして野営地へと戻ってきた。
彼女の表情は、いつもの明るい商人のそれではなく、強い怒りと嫌悪に歪んでいた。
「……ひどいものです。人間の貴族という生き物は、どこまで腐りきっているのか」
ルミナは要塞の居住区画にヴァンたちを集め、テーブルに地図を広げながら吐き捨てるように言った。
「王都が災害級魔物によって完全に消滅したという情報は、すでに隣接する人間の領主や貴族たちにも伝わっています。しかし、彼らは王都からの避難民を救助する軍を一切出していません。国境を完全に封鎖し、難民の受け入れを拒否しています」
「なんだと? 自分の国の民が路頭に迷ってるってのに、見殺しにする気か?」
バルガンが信じられないというように声を荒げた。
「それどころではありません」
ルミナはギリッと唇を噛んだ。
「隣国の領主たちは、グランゼル王室が消滅したこの隙に、王都の領地や残された資源をどうやって自分たちのものにするか、水面下で醜い領土交渉を始めているんです。魔物がいなくなれば、あの土地は誰のものになるのかと。さらに……」
ルミナは窓の外、野営地で眠りについた亜人たちへと視線を向けた。
「領主たちは、逃げ出した『奴隷』たちを捕らえるための賞金稼ぎを大量に放ちました。王都の富が消えた今、生き残った異種族の奴隷たちは、彼らにとって喉から手が出るほど欲しい『高価な動産』なんです。保護するどころか、自分たちの新しい労働力としてかき集める命令を出しています」
その言葉を聞いた瞬間、バクスが怒りでテーブルを強く叩いた。
「ふざけんな! 王都が滅んでも、人間のやり方は何も変わってねえ! どこまでも俺たちを道具としてしゃぶり尽くす気か!」
王都一つが地図から消えても、召喚術を絶対視し、異種族を搾取する社会の根幹は全く揺らいでいない。
むしろ、巨大な権力が崩壊したことで、周囲の貴族たちの貪欲さと傲慢さがより露悪的な形で噴出し始めているのだ。
ヴァンは腕を組み、壁にもたれかかったまま、静かに目を閉じていた。
激昂して暴れ回ることはない。しかし、その全身から立ち上る冷たい気迫は、要塞内の空気を凍りつかせるほどに重く、鋭かった。
「……交渉の余地はないな」
ヴァンがゆっくりと目を開き、地図上の人間の都市群を見据えた。
「連中にとって、俺たちはもはや目障りな異端者であり、高価な獲物を連れ去った賊でしかない。このまま人間の領土を正規の街道で進めば、賞金稼ぎや領主の軍隊と無用な血を流し続けることになる」
「なら、どうするんだい大将。この数の人間を連れて、街道を外れるってのは……」
バルガンが不安そうに尋ねる。
「西だ」
ヴァンは地図の端、人間の国々の支配が及ばない、広大な未開の荒野と険しい山脈が連なる方向を指差した。
「人間の理屈が通用しない場所へ向かう。どれだけ過酷な道のりになろうと、追手が来れば俺がすべて叩き斬る」
それは、既存の腐敗した国家システムからの完全な決別宣言であった。
彼らはもはや、人間の社会に居場所を求めることをやめた。自分たちを縛る鎖を断ち切り、自分たちの足で新たな大地を切り拓くことを選んだのだ。
「……ええ。どこまでもついて行くわ、ヴァン」
セリアが迷いのない瞳で頷く。
ルミナも帳簿を強く抱きしめ、「未知のルートの物資管理、腕が鳴りますね」と力強く笑った。
バクスとバルガンも、腹を括ったように深く頷き合う。
理不尽な差別の傷を負った民を背負い、漆黒の鎧を纏った戦士は、人間の醜悪な欲望が渦巻く国々に静かな怒りと共に背を向けた。
彼らの進む先には、地図すら存在しない未知の領域が広がっている。しかし、その前途にどれほどの困難が待ち受けていようと、ヴァンの背中が揺らぐことは決してない。




