第140話 焦土からの足音と、繋がる轍
鋼殻の移動要塞は、黄金の王都を背にしてから数日間、見渡す限りの荒野を静かに進んでいた。
車内は平穏を取り戻しつつあったが、王都で目にした亜人たちへの凄惨な差別と、人間の社会システムに対する重いしこりは、一行の胸の奥底に暗い影を落としたままであった。
「……おい、大将。後ろの砂煙を見てみろ。何か来るぞ」
操縦席から後方確認用の鏡を覗き込んでいたバルガンが、怪訝な声を上げた。
要塞が刻んだ轍の上を、土煙を上げながらゆっくりと近づいてくる小さな集団がある。魔物ではない。ボロボロの布切れを纏い、足を引きずりながら歩く者たちの群れだった。
「人……いや、亜人だ! みんな、ひどく消耗している!」
窓から双眼鏡で確認したルミナが叫んだ。
ヴァンは即座に要塞を停めるよう指示を出し、ハッチを蹴り開けて外へと飛び出した。バクスとセリアもそれに続く。
近づいてきた集団は、数十人ほどの獣人、ドワーフ、そしてエルフたちだった。
その先頭を歩いていた小さな影が、ヴァンの姿を視界に捉えた瞬間、安堵したように糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「おい、しっかりしろ!」
バクスが駆け寄り、その小さな身体を抱き起す。
泥と血にまみれた顔。それは、数日前に王都の裏通りで、商人の鞭からヴァンが庇った犬の獣人の少年だった。
「あんた……あの時の……」
バクスは少年の首元を見て息を呑んだ。魔力で彼らを縛り付けていたはずの分厚い鉄の首輪が、鍵を壊されたように外れかけていたのだ。他の者たちも同様だった。
「一体、何があったんだ。王都から逃げてきたのか?」
少年は乾いた唇を震わせながら、バクスの腕の中で途切れ途切れに語り始めた。
「……王都は、もうありません。黒くて、山みたいに大きな化け物が、突然地面から這い出てきて……」
その言葉に、要塞から降りてきたバルガンとルミナが絶句した。
少年の話によると、ヴァンたちが王都を去ったその日の午後、巨大な災害級魔物が突然王都の中心部に出現したのだという。
「兵隊や召喚師の人たちが、空が光るほどの魔法や魔獣をたくさん出したのに……化け物には傷一つ付きませんでした。貴族も、商人も、みんな泣き叫んで潰されていって……主人が死んだから、僕たちの首輪の魔法が解けたんです」
少年は恐怖を思い出したように身体を震わせた。
「街が燃え落ちる中、僕たちは必死に走りました。……助けてくれたあなたの、鉄の馬車の轍だけを頼りに……」
そこまで語ると、少年は完全に限界を迎え、気を失ってしまった。
「バクス、ルミナ。彼らを要塞の影に運べ。水と食事を与え、怪我の手当てをするんだ」
ヴァンの静かで素早い指示に、仲間たちはハッと我に返り、一斉に動き出した。
「任せな! 特製の薬草スープですぐに体力を戻してやる!」
バクスが厨房へ走り、大鍋に火をかける。
「バルガンさん、備蓄の毛布と包帯を出してください! 私が手当てに回ります!」
ルミナが救急箱を抱え、倒れ込んでいる亜人たちの間を駆け回る。セリアも治癒魔法こそ使えないが、ルミナの指示に従って傷口を清潔な布で拭い、包帯を巻く手伝いを黙々とこなした。
混乱の救護作業が一段落し、亜人たちが毛布に包まって温かいスープを飲み始めた頃。
ヴァンは一人、荒野の風に吹かれながら、地平線の彼方にあるはずの王都の方向を静かに見つめていた。彼の背中を覆う漆黒の鱗鎧が、午後の陽光を鈍く反射している。
「……自業自得だとはいえ、あの巨大な城壁に守られた大国が、たった一夜で地図から消えるなんてな」
後片付けを終えたバルガンが、ヴァンの隣に立ち、パイプに火をつけながら重い声で言った。
「召喚術って神の力に驕り、自分たち以外の種族を家畜以下に扱ってきた連中の末路だ。魔法が通じない物理的なバケモノを前にしちゃ、連中の権力も金も、何の役にも立たなかったってわけだ」
ヴァンは視線を外さず、淡々と口を開いた。
「魔力だけを絶対視し、己の足で立とうとしなかった国の必然だ。理不尽な暴力は、相手の身分や富を選んではくれない。その現実から目を背け、他者を搾取することでしか成り立たない社会は、いずれこうなる運命だった」
ヴァンの言葉には、驕り高ぶっていた貴族たちへの憐憫も、嘲笑もない。ただ、極めて冷徹な現実主義者としての事実の確認だけがあった。
「ヴァン」
セリアが歩み寄り、ヴァンの太い腕にそっと両手を添えた。
「彼ら……逃げてきた奴隷の人たちは、どうするの? 王都が消滅した今、彼らには帰る場所も、頼る国も存在しないわ」
セリアの紫色の瞳には、かつて孤独に苛まれていた自分自身の過去を彼らに重ねるような、深い憂いがあった。
ルミナも帳簿を抱えながら、不安そうに口を挟む。
「要塞の資金と食料の備蓄は十分にありますが、数十人もの人間を養いながら果てのない旅を続けるのは、いずれ限界が来ます。どこかの街で彼らを下ろしたとしても、また同じように差別の対象になってしまうかもしれません……」
仲間たちの視線が、一斉にヴァンへと注がれる。
魔物を討伐する小規模な傭兵団として生きてきた彼らにとって、これだけの数の弱者を保護することは、これまでの旅の次元を変える大きな決断を意味していた。
ヴァンはゆっくりと振り返り、不安そうに身を寄せ合っている亜人たちを見渡した。
そして、気絶から目を覚まし、バクスから受け取ったスープの椀を両手で握りしめている犬の獣人の少年と真っ直ぐに視線を交合わせた。
「俺たちが歩く道は、決して平坦ではない。これからも、命を脅かす化け物や、理不尽な悪意が立ち塞がるだろう」
ヴァンの声が、荒野の風に負けない力強さで響く。
「だが、それでも己の足で立ち、生き抜く意志があるなら……俺たちの後ろを歩け。俺はこの剣にかけて、俺の背中を追う者を決して見捨てはしない」
その言葉は、彼らを哀れな奴隷としてではなく、共に生きる者として迎え入れるという、戦士としての固い誓いであった。
獣人の少年の目から大粒の涙が溢れ落ち、彼は椀を持ったまま、ヴァンの黒曜の鎧に向かって深く、深く頭を下げた。他の亜人たちもまた、涙を流しながら無言で地面に額を擦り付けた。
「……へっ、大将がそう言うなら仕方ねえ。俺の作る飯は、さらに何十人増えようが味が落ちることはねえから安心しな!」
バクスが豪快に笑いながら、鍋を叩く。
「なら、俺はこいつらが安全に休めるように、牽引式の大型荷馬車を即席で組み上げねえとな。素材なら要塞の倉庫に腐るほどある。徹夜の作業になりそうだぜ」
バルガンも腕まくりをして、職人の顔つきになった。
「私も、皆さんの新しい服や必要な物資の調達計画を立て直しますね! 人数が増えた分、交渉のしがいがあります!」
ルミナが帳簿を開き、やる気に満ちた笑顔を見せる。
セリアは、仲間たちを頼もしく見渡すヴァンの横顔を見つめ、嬉しそうに目を細めた。
黄金の王都の崩壊と共に、一つの巨大な社会システムが終焉を迎えた。
しかしそれは同時に、ヴァンという戦士の周りに、種族の壁を超えた小さな「民」が集い始めた瞬間でもあった。
ただの追放者だった男が、その圧倒的な武力と決して揺るがない信念によって、徐々に人々を導くリーダーとしての重責を背負い始める。彼らが創り上げる新たな居場所への轍は、この焦土と化した荒野から、さらに太く、そして確かなものとなって続いていくのであった。




