第139話 崩落する黄金と、解放の轍
鋼殻の移動要塞は、背後にそびえる黄金の城壁から遠ざかるように、力強い轍を平原に刻みながら進んでいた。
王都を出立してから数時間が経過しても、車内には重く沈んだ空気が漂っていた。
「……胸くその悪い街だった。あんな場所が人間の国の頂点だなんて、虫唾が走るぜ」
バクスが厨房のカウンターに両手をつき、吐き捨てるように言った。
王都の裏通りで目にした、同胞である獣人たちが首輪をつけられ、ゴミのように扱われる光景。ドワーフがムチ打たれ、エルフが慰み者にされる現実。それらが脳裏に焼き付いて離れないのだ。
「ああ。金と権力、そして召喚術ってやつが、あいつらの目を完全に曇らせちまってる。自分たち以外の種族は道具だと、本気で信じ込んでやがるんだ」
バルガンも操縦桿を握りながら、ギリッと歯を鳴らした。
ルミナは悲しそうに目を伏せ、セリアは沈黙したまま、居住区画の隅で静かに外を眺めるヴァンの背中を見つめていた。
アーガイルの手によって完成した「黒曜の鱗鎧」を身に纏うヴァンは、振り返ることなく窓の向こうの地平線を見据えていた。
王都で理不尽な暴力を振るう貴族の腕をへし折ることは、彼にとって容易いことだった。あの場で宰相を斬り捨てることもできたはずだ。しかし、それをしたところで社会の仕組みは何も変わらず、ただ新しい権力者が別の鎖を用意するだけだと、現実主義のヴァンは理解していた。
「……大将、すまねえ。あんたがあの腐った貴族どもの誘いを蹴ってくれたのは嬉しかった。だが、俺たちを庇ってくれたせいで、あんたはこの世界で一番でかい後ろ盾を得るチャンスを逃しちまったんだ」
バクスが絞り出すような声で言うと、ヴァンはゆっくりと振り返り、静かに首を横に振った。
「後ろ盾など必要ない。俺の背中を預けるのは、お前たちだけで十分だ」
ヴァンの言葉には、一片の迷いも後悔もなかった。
「あんな腐敗した玉座の下で、お前たちを蔑む者たちに囲まれて生きることに、何の価値もない。俺は、俺の剣が護るべきものを自分で決める。いつか……誰もが鎖を繋がれず、お前たちが胸を張って笑える場所を、必ず俺たちの手で創り上げる」
それは、激昂でも虚勢でもない。ただ静かに燃え続ける、戦士としての揺るぎない決意であった。
バクスとバルガンは目頭を押さえ、ルミナは涙を拭って力強く頷いた。セリアはヴァンの隣に並び立ち、その太い腕にそっと自身の腕を絡めた。
彼らはもう、二度とあの黄金の王都を振り返ることはなかった。
しかし、彼らが去った後のグランゼル王都では、人間の傲慢さが極みに達していた。
「ふん、愚かな戦士め。せっかくこの私が直々に拾い上げてやろうと言ったものを。所詮は知性を持たぬ野蛮人か」
王城の最上階、豪奢なバルコニーで、宰相バルバロッサは最高級のワインを揺らしながら冷笑を浮かべていた。
傍らに控えるダリウス侯爵も、卑屈な笑みを浮かべて同意する。
「左様でございますな、閣下。魔力を持たぬ者がどれだけ腕力に優れていようと、我々には最強の召喚師団と、この絶対不抜の黄金の城壁がございます。あのような小汚い亜人どもと荒野を這いずり回るのがお似合いですぞ」
バルバロッサはバルコニーから、眼下に広がる美しい王都と、そこで這いつくばって働く奴隷たちを見下ろした。
「我々人間こそが、神に選ばれし召喚の術を持つ絶対の支配者なのだ。逆らう者はすべて、この街の礎となるのが世界の理というものよ」
だが、その傲慢な言葉が空に溶けるよりも早く、絶望は唐突に訪れた。
ゴゴゴゴゴゴォォォォォンッ!!
突然、王都全体が跳ね上がるような未曾有の大地震に見舞われた。
グラスが砕け、美しい大理石の彫刻が次々と崩れ落ちる。
「な、なんだ!? 何が起きている!」
バルバロッサが手すりにしがみつきながら悲鳴を上げた直後、王都の北側の平原が内側から爆発的に吹き飛び、天を覆い尽くすほどの巨大な黒い影が姿を現した。
それは、これまでにヴァンたちが遭遇してきたどの化け物よりも巨大で、禍々しい存在だった。
全長三百メートルを超える、四つ足の山脈のような巨躯。全身を覆うのはあらゆる魔法を吸収する「絶魔の黒鱗」であり、その背中には無数の不気味な触手が蠢いている。
災害級を遥かに凌駕する、伝説の災魔獣「滅国の黒王獣」であった。新大陸の魔界の扉が開きかけた影響により、地中深くに封印されていた古代の絶望が、地上へと這い出してきたのだ。
「オオォォォォォォォォォッ!!」
黒王獣が咆哮を上げると、それだけで大気が震え、強固な黄金の城壁に巨大な亀裂が走った。
「ひぃぃっ! ば、馬鹿な! あんな規格外の化け物がどうして!」
バルバロッサは腰を抜かし、ダリウス侯爵は恐怖で失禁しながら後ずさった。
「迎撃だ! 防衛騎士団、特級召喚師部隊を出せ! なんとしても王都を護り抜け!」
宰相の絶叫に応じ、王都が誇る数百人のエリート召喚師たちが城壁の上に立ち並んだ。
「出でよ、裁きの天使! 焼き尽くせ、極炎の魔神!」
数万の魔力が練り上げられ、空を埋め尽くすほどの高位召喚獣たちが顕現し、黒王獣へと一斉に襲いかかった。炎、雷、光の極大魔法が雨あられと降り注ぐ。
しかし、そのすべての魔法は、黒王獣の「絶魔の黒鱗」に触れた瞬間、何事もなかったかのように霧散して吸収されてしまった。
「なっ……我々の魔法が、召喚獣が、全く通じないだと!?」
召喚師たちが驚愕に顔を歪めた直後、黒王獣の背中から伸びた無数の触手が鞭のように振るわれた。
ズドォォォォォンッ!!
高位の召喚獣たちが、まるで羽虫のように一撃で粉砕され、消滅していく。
魔力だけを絶対視し、それを防がれた時の物理的な対処法を一切持たない彼らは、圧倒的な質量の暴力の前にあまりにも無力だった。
「ひ、ひぃぃぃぃっ! 助けてくれ!」
「金ならある! 領地もやる! だから私を食わないでくれぇぇっ!」
黒王獣が城壁を踏み潰し、王都の内部へと侵入を果たすと、そこは完全な地獄と化した。
今まで優雅に奴隷を鞭打っていた貴族たちは、顔を泥だらけにして泣き叫びながら逃げ惑い、持っていた金貨や宝石を化け物に向かって投げつけて命乞いをした。
しかし、大自然の災害である魔物にとって、人間の富や地位など路傍の石以下の価値しかない。
巨大な足が振り下ろされるたびに、豪華な屋敷が潰れ、傲慢だった貴族たちが無惨にも蹂躙されていく。召喚術という神の力に驕り、他者を見下していた者たちの末路は、あまりにも情けなく、そしてあっけないものだった。
その地獄の混乱の中、奇跡的に生き延びた者たちがいた。
王都の裏路地で鎖に繋がれていた亜人の奴隷たちである。
主である貴族や召喚師たちが死に絶え、彼らを縛っていた魔力制御の首輪から、次々とカチャリと音がして鍵が外れていったのだ。
「……首輪が、外れた」
荷車を引かされていた犬の獣人の少年が、自らの首元に触れて震える声で呟いた。
周囲にいたドワーフたちも、エルフの少女たちも、自分たちを縛っていた理不尽な鎖が解け落ちたことを悟った。
「逃げるぞ! 街の外へ!」
炎上し、崩壊していく黄金の王都を背に、彼らは一斉に走り出した。
もはや、彼らを止める人間は誰もいない。
城門の瓦礫を越え、平原へと飛び出した獣人の少年は、ふと足元の地面に視線を落とした。
そこには、あの日の朝、自分を鞭から庇ってくれた、恐ろしくも温かい手をした黒曜鎧の戦士が乗っていた「鉄の馬車」の轍が、地平線の彼方へと真っ直ぐに続いているのが見えた。
「……あっちだ」
少年は轍を指差した。
「あの人が行った方へ行けば、きっと……」
行き場を失った奴隷たちは、燃え落ちる王都を振り返ることなく、確かな希望の痕跡である轍を追いかけて走り始めた。
召喚師絶対主義という歪な天秤が完全にへし折られ、栄華を極めた大国が一夜にして地図から消滅した日。それは同時に、ヴァンという一人の戦士が切り拓く新たな時代へ向けた、名もなき者たちの解放の始まりでもあった。




