第138話 歪な天秤と、黒曜の鱗鎧
宰相バルバロッサの晩餐会を辞去した翌朝。
王都の特別区画に停泊している鋼殻の移動要塞の周囲には、昨日まではいなかった王室の近衛兵たちが、監視するように等間隔で配置されていた。
居住区画のテーブルに座るルミナの表情は、いつになく険しかった。
「……完全に包囲されていますね。それに、今朝ほど市場へ物資の買い出しに行こうとしたのですが、どの商人も私を見た途端に店を閉めてしまいました。宰相の息がかかったギルドから、私たちとの取引を一切禁じる通達が回っているようです」
「なるほどな。力ずくで俺たちを捕らえれば、災害級の魔物を単独で倒す大将と真正面から殺し合うことになる。だから、兵糧攻めと嫌がらせで屈服させようって魂胆か。腐った連中の常套手段だ」
バルガンが忌々しそうにパイプを咥え、火をつけずに噛み締めた。
「俺たちが市場を歩けば、石を投げられる始末だ。大将、本当にすまねえ。俺やバルガンが人間の国でどれだけ嫌われているか、わかっていたはずなのに……俺たちがいるせいで、あんたまでこの国で厄介者扱いされちまった」
バクスが太い腕に顔を埋め、深く息を吐き出した。
昨晩からずっと、非戦闘員である仲間たちは、ヴァンに理不尽な不利益を背負わせているという重い罪悪感に苛まれていた。
ヴァンは静かに立ち上がり、バクスの肩にそっと手を置いた。
「勘違いするな。俺が連中の誘いを断ったのは、お前たちのせいじゃない。俺自身が、あの腐った玉座の近くで息をするのが耐えられなかっただけだ。俺の居場所は、ここにある」
ヴァンの淡々とした、しかし絶対的な信頼が込められた言葉に、バクスは僅かに肩を震わせ、顔を上げて力強く頷いた。セリアもまた、ヴァンの隣に立ち、彼の実直な決意を支えるように微笑んだ。
「アーガイルの工房へ行く。鎧が完成次第、この街を出るぞ」
ヴァンが短く告げると、一行は要塞を降り、近衛兵たちの刺すような視線を無視して職人街へと歩き出した。
王都の朝は、相変わらず美しい嘘で塗り固められていた。
眩しい陽光が白亜の建物を照らし、優雅な音楽がどこからか聞こえてくる。しかし、その影で地べたを這いずり回っているのは、首輪をつけられた亜人の奴隷たちだ。
通りの中央で、突然パリーンという鋭い音が響いた。
見ると、裕福そうな商人が、荷車から落ちて割れた高価な陶器を見下ろして激昂していた。その足元には、荷車を引かされていた痩せこけた犬の獣人の少年が、恐怖で震えながらうずくまっている。
「この欠陥品が! お前のような獣を買い取るのにいくら金がかかったと思っている! 私の美しい陶器を割った代償、その薄汚い命で支払え!」
商人が怒りのままに、太い革の鞭を振り上げた。
周囲を歩く市民たちは、可哀想にと同情するどころか、「躾のなっていない獣だ」「早く通りを掃除してほしい」と、まるで壊れた道具を見るような冷ややかな目を向けているだけだった。
鞭が少年の背中に振り下ろされる直前。
空気を裂くような音と共に、商人の腕が空中でピタリと止まった。
ヴァンが、振り下ろされる鞭を素手で掴み取っていた。
「な、なんだ貴様は! 離せ、それは私の所有物だぞ!」
商人が顔を真っ赤にして喚くが、ヴァンは無言のまま鞭を軽く手前に引いた。それだけで商人は体勢を崩し、無様な悲鳴を上げて石畳に転がった。
「所有物だと」
ヴァンは冷たく見下ろし、低い声で呟いた。
「周囲の段差も確認できず、荷を過剰に積んだのはお前の責任だ。それを力のない子供に押し付け、鞭で打つのがこの街の躾か」
一切の感情を排した、純粋な戦士の瞳。魔力を帯びていないにも関わらず、その場にいる全員が死神に喉元を突きつけられたような錯覚に陥った。
商人は腰を抜かし、ガチガチと歯を鳴らして後ずさりしていく。
ヴァンはうずくまる獣人の少年の前にしゃがみ込み、その頭にそっと手を置いた。
「立てるか」
少年が怯えながらも頷くと、ヴァンは立ち上がり、バクスたちを振り返った。
「行くぞ」
その背中を見つめながら、バクスは悔しさに唇を噛み切らんばかりにしていた。
ヴァンが商人を脅して少年を助けたところで、結局この国にいる限り、少年の奴隷という身分が変わるわけではない。商人が後でさらに酷い折檻をする可能性だってある。
怪物を倒し、街を救うことができても、社会そのものに深く根を下ろした「差別」という名の病魔は、剣で切り裂くことができないのだ。
その絶対的な理不尽と無力感が、ヴァンたちの胸に重く、暗くのしかかっていた。
重苦しい空気のまま、一行はアーガイルの工房へとたどり着いた。
扉を開けると、そこには徹夜で作業を続けていたであろうアーガイルが、満足げな笑みを浮かべて彼らを待ち受けていた。
「遅かったじゃねえか。最高の相棒が仕上がってるぜ」
アーガイルが作業台の上にかけていた分厚い布をバサリと取り払う。
そこに現れたのは、息を呑むほどに美しく、そして禍々しいまでの威圧感を放つ漆黒の軽鎧であった。
熔岩の大巨獣から得た黒曜石の甲殻を極限まで薄く削り出し、大地の百足の柔軟な節の構造を取り入れて幾重にも重ね合わせた鱗鎧。そして、各所の継ぎ目には、裂空の巨鎌螳螂の緑黒い鋼鉄殻が装甲として配置されている。
一切の無駄な装飾を排し、ただ「生存」と「機動」のためだけに究極の最適化を施された、職人の魂の結晶であった。
「黒曜の鱗鎧だ」
アーガイルが誇らしげに胸を張る。
「魔法の炎や氷は黒曜石の鱗が完全に弾き返し、物理的な打撃は百足の構造が衝撃を分散する。おまけに、これだけ強固でありながら、重さはあんたが今まで着ていた安い軽鎧の半分以下だ。あんたの異常な身体能力を、コンマ一秒たりとも邪魔しねえように調整してある」
ヴァンは鎧に触れ、その滑らかな感触と、指先から伝わってくる信じられないほどの軽さに目を細めた。
「……素晴らしい。これほどのものを、たった一晩で仕上げるとは」
「へっ、最高の素材と、あんたみたいな本物の戦士の寸法を見ちまったら、職人の血が騒いで寝てなんかいられねえのさ」
ヴァンはその場で古い鎧を脱ぎ、新しい黒曜の鱗鎧を身に纏った。
全身に吸い付くように馴染み、関節の動きに一切の抵抗がない。腰にヴァンの剣を帯びると、漆黒の鎧と白銀の長剣が、まるで最初から一つの生き物であったかのような完璧な調和を見せた。
「似合っているわ、ヴァン」
セリアが少しだけ頬を染めながら微笑む。
「おうとも。だが、この街の連中には、その鎧の本当の価値は一生わからねえだろうな」
アーガイルはそう言って、工房の窓から見える王都の華やかな街並みを忌々しそうに睨みつけた。
「俺は、戦士が要らなくなったこの時代を恨んでる。命を懸けて戦う者のために打った武具が、安全な場所にいる貴族たちの権力争いや、自慢の道具に成り下がるのが我慢ならなかった。だから、俺は王族からの専属依頼を蹴って、この薄暗い工房に引きこもったんだ。……あんたたちを見て、少しだけ昔の熱意を思い出させてもらったよ」
アーガイルはヴァンに向かって、深々と頭を下げた。
「代金は要らねえ。その代わり、その鎧で、この腐った世界に風穴を開けてくれ。いつか、あんたたちみたいな奴らが、本当に笑って暮らせる場所ができることを祈ってるぜ」
職人の熱い言葉に、ヴァンは静かに頷いた。
「俺たちの居場所は、俺たち自身で切り拓く。あんたの魂、確かに預かった」
工房を出たヴァンたちは、迷うことなく移動要塞へと足を進めた。
もはや、この黄金の王都に未練は一つもない。人間社会の頂点に君臨する大国の姿は、差別と搾取の上に成り立つ、ひどく脆くて醜悪な砂の城であった。
要塞のエンジンが轟音を立てて起動し、周囲を監視していた近衛兵たちが慌てて武器を構える。
「止まれ! 宰相閣下からの許可なく、王都を離れることは許さん!」
兵士たちが道を塞ごうとするが、ヴァンは要塞の屋上に立ち、ただ静かに、その漆黒の鎧姿で彼らを見下ろした。
言葉は発しない。しかし、全身から放たれる戦士としての圧倒的な死のプレッシャーが、近衛兵たちの足を完全にすくませた。
魔法の力など借りずとも、その眼差し一つで軍隊を黙らせる。誰も、その鋼鉄の馬車の前に立ち塞がることはできなかった。
かくして、凄まじい力を持つ戦士と異種族の集団は、大国からのあらゆる富と権力の誘惑を完全に拒絶し、黄金の王都に背を向けた。
彼らの胸の中には、いつか必ず、種族の壁など存在しない「本当の居場所」を創り上げるという、静かで熱い決意の火種が、確かな輪郭を持って宿り始めていた。




