第137話 傲慢の街と、交わらない視線
グランゼル王都の目抜き通りは、まるで御伽話の挿絵のように美しかった。
白大理石で舗装された広い街道の両脇には、精巧な彫刻が施された噴水や、色鮮やかな花々が咲き乱れる空中庭園が立ち並んでいる。行き交う人々は皆、最高級の絹やベルベットで仕立てられた衣服を身に纏い、優雅な足取りで王都の繁栄を謳歌していた。
しかし、その美しい景色の足元には、目を背けたくなるような醜悪な現実がへばりついている。
ヴァンたち一行が指定された工房区画へと歩を進める道中、彼らの視界には絶え間なく「奴隷」たちの姿が映り込んでいた。
豪奢な馬車を引かされているのは、馬ではなく首輪をつけられた筋骨隆々の獣人たちだった。
建物の修繕を行っているドワーフたちは、少しでも手が止まると人間の現場監督から容赦なく鞭を振るわれている。
そして、貴族の婦人たちの後ろを歩くエルフやハーフエルフの少女たちは、まるで着せ替え人形のように見世物めいた服を着せられ、虚ろな瞳でただ主人の影を踏むことだけを強要されていた。
「……息が詰まりそうだぜ。この街の空気は、どんな瘴気の沼よりも腐ってやがる」
バクスがギリッと牙を噛み鳴らし、怒りを押し殺した低い声で呟いた。
「見ないようにしろ、バクス。俺たちがここで騒ぎを起こせば、一番迷惑を被るのは大将とルミナの嬢ちゃんだ」
バルガンがバクスの背中を叩き、自らも深く帽子を被り直して視線を落とした。
王都の人間たちにとって、召喚術を持たない異種族は「便利な道具」か「愛玩動物」でしかない。
そのため、堂々と胸を張って人間であるヴァンやセリアの隣を歩くバクスとバルガンの姿は、王都の住人たちの目にひどく異質で、不愉快なものとして映っていた。
「おい、そこの平民。なぜ自分の獣に鎖をつけていない。王都の規律を知らないのか」
すれ違いざまに、けばけばしい装飾の杖を持った若い貴族の男が、ハンカチで鼻を覆いながら立ち止まった。その後ろには、武装した私兵が数人控えている。
貴族の男はバクスを虫けらでも見るような目で見下し、持っていた杖の先でバクスの肩を小突こうとした。
「薄汚い毛が私の服に触れたらどうするつもりだ。躾がなっていない獣は、その場で殺処分しても構わない法になっているんだぞ」
私兵たちが剣の柄に手をかけ、薄ら笑いを浮かべる。
バクスは拳を強く握りしめ、必死に怒りを堪えてうつむこうとした。自分のせいで、ヴァンたちを王都の厄介事に巻き込むわけにはいかないからだ。
だが、貴族の杖がバクスの肩に触れるより早く、横から伸びてきた無骨な手がその杖を無造作に掴み取った。
「な、なんだ貴様は!」
「俺の仲間に触れるな」
ヴァンだった。
一切の感情を読み取らせない、氷のように冷たく静かな瞳。
ヴァンが掴んだ杖の柄が、ギリギリと嫌な音を立てる。魔力を一切使わない、彼自身の純粋な握力だけで、宝石が埋め込まれた頑丈な杖にピキピキと亀裂が走り始めた。
「ひっ……!」
ヴァンの瞳の奥底にある、本物の戦場を知る者特有の絶対的な死の気配。それに当てられた若い貴族は、情けない悲鳴を上げて杖から手を離し、尻餅をついた。
「ひ、引け! たかが平民の分際で、後でどうなるか覚えておけよ!」
貴族は私兵たちに両脇を抱えられながら、逃げるようにその場を立ち去っていった。
「……すまねえ、大将。俺のせいで、いらねえ敵を作っちまった」
バクスが申し訳なさそうに頭を下げる。
「気にするな。虫を払っただけだ」
ヴァンは砕けた杖を路肩に捨て、何事もなかったかのように再び歩き出した。その背中を見つめながら、セリアは痛ましそうに目を伏せ、ルミナもまた悔しそうに唇を噛んでいた。
やがて一行は、華やかな表通りから少し離れた、重厚な金属の打撃音が響く職人街へとたどり着いた。
その一番奥にある、ひと際大きく煤けた工房。そこが、王都最高の鎧鍛冶と呼ばれる男、アーガイルの工房であった。
「頼もう。ダリウス侯爵からの紹介で来た、ヴァンだ」
ヴァンが重い木の扉を開けると、凄まじい熱気と鉄の匂いが押し寄せてきた。
工房の奥で真っ赤に焼けた鉄を打っていた筋骨隆々の初老の男が、ハンマーを止めて振り返る。無数の火傷の痕が刻まれた太い腕と、鋭い鷹のような目。彼がアーガイルだった。
「あんたが、各地で災害級の化け物を叩き切ってるっていう噂の戦士かい。なるほど、いい体躯をしてる。……だが、俺は貴族の紹介状なんて紙切れは信用しねえぞ。持ち込んだ素材と、あんたの覚悟次第で仕事を受けるか決める」
アーガイルはぶっきらぼうに言い放ち、手拭いで汗を拭った。
バルガンが背負っていた巨大な金属鞄から、これまでに討伐した魔物の素材を取り出し、作業台の上に並べていく。
熔岩の大巨獣から剥ぎ取った黒曜石の甲殻、大地の百足の超硬質外殻、そして裂空の巨鎌螳螂の緑黒い鋼鉄殻。
「なっ……こいつは……!」
アーガイルの目の色が完全に変わった。彼は震える手で黒曜石の甲殻に触れ、その尋常ではない密度と魔力の残滓に息を呑んだ。
「本物だ。おとぎ話の中だけで語られるような、災害級魔物の素材……。これを、あんたが一人で狩ったっていうのか」
「ああ。俺の戦いに耐えられる、最高の軽鎧を作ってほしい。強度はもちろんだが、動きを阻害しないことが絶対条件だ」
ヴァンの実直な言葉に、アーガイルは大きく頷いた。
「……見事だ。こんな極上の素材を前にして、断る職人がいるわけねえ。俺の職人人生のすべてを懸けて、あんたの命を預かる最高の鎧を打ってやる」
アーガイルはそこで初めて、素材を並べたバルガンの手際と、彼の左腕にある精巧な義手に気づいた。
「おい、あんた。ドワーフのようだが、その義手と素材の解体技術……ただの素人じゃねえな」
「へっ、俺はバルガン。ただのしがない罠師さ。大将の要塞の面倒を見させてもらってる」
バルガンがニヤリと笑うと、アーガイルは驚愕に目を見開いた。
「バルガンだと!? あの、東の王都の城壁を設計したという伝説の……! 馬鹿な、なぜあんたほどの男がこんなところに!」
「色々とあってな。だが、今は最高の仲間と最高の居場所を見つけた。それだけだ」
バルガンの言葉に、アーガイルは深く息を吐き、そして深々と頭を下げた。
「……失礼した。王都の腐った連中とは違い、あんたが本物の職人だってことは一目でわかる。あんたが認めた戦士なら、俺も全力で応えよう」
職人と職人の間に、種族の壁を超えた確かな敬意が交わされた瞬間だった。
素材の選定と寸法の計測を終え、鎧の完成を待つことになった一行の元へ、その日の夕刻、再びダリウス侯爵の使いが訪れた。
「ヴァン殿。我が国の宰相閣下が、あなた方をご自身の屋敷での晩餐会にご招待したいとのことです。是非ともお越しください」
断る理由もなく、また王都での滞在許可を円滑にするため、ヴァンたちは宰相の屋敷へと向かった。
案内されたのは、目眩がするほど豪華なシャンデリアが輝く大広間だった。長いテーブルには山海の後珍が並べられ、高位の貴族たちがグラスを片手に談笑している。
しかし、大広間の壁際に控えているのは、やはり首輪をつけられた亜人の奴隷たちだった。
「おお、よく来てくれたね、英雄殿」
恰幅の良い、絹のローブを纏った初老の男が、特等席からヴァンに向かってグラスを掲げた。彼がグランゼル王国の宰相、バルバロッサ公爵であった。
「あなたの活躍は聞き及んでいるよ。魔力を持たない戦士でありながら、それほどの力を持つとは。どうだろう、我が国の将軍として迎え入れたいのだが。地位も名誉も、そして莫大な富も思いのままだ」
宰相はそう言うと、チラリとヴァンの後ろに控えるバクスたちに視線をやり、薄ら笑いを浮かべた。
「もちろん、あなたにふさわしい新しい従者も用意しよう。そのような薄汚い獣や小人を連れ歩く必要はもうない。若くて美しいエルフの奴隷や、よく躾けられたドワーフの荷持ちを、王室の金で何十人もあてがってあげようじゃないか。その者たちは、すぐにでも処分してしまえばいい」
その言葉が響いた瞬間、大広間の空気がピキリと凍りついた。
貴族たちにとっては日常の会話の延長でしかない、あまりにも無自覚で残酷な差別。バクスは俯いて歯を食いしばり、バルガンは拳から血が滲むほど強く握りしめていた。
「……恐れ入りますが、宰相閣下」
張り詰めた空気の中、一歩前に出たのはルミナだった。彼女は商人の完璧な笑みを顔に貼り付け、淀みない口調で言い放った。
「私たちは一つの独立した傭兵団のようなものです。特定の国家に属する意志はございません。また、彼らは代わりの利かない私たちの家族であり、重要なビジネスパートナーでもあります。お誘いは大変光栄ですが、謹んで辞退させていただきます」
ルミナの毅然とした態度に、宰相は不快そうに眉をひそめた。
「ハーフエルフの小娘が、口を挟むな。私は戦士であるヴァン殿に聞いているのだ。どうだ、ヴァン殿。こんな連中と荒野を這いずり回るより、人間の頂点で生きる方がずっと賢い選択だとは思わないか?」
宰相がニタニタと笑いながらヴァンの顔を覗き込む。
ヴァンは無言のまま、テーブルの上に置かれていたワインの入った純銀のゴブレットを手に取った。
そして、それをゆっくりと、しかし尋常ではない力で握りつぶした。
グシャリ。
銀のゴブレットが紙くずのようにひしゃげ、真っ赤なワインが血のようにテーブルへと滴り落ちる。
大広間が水を打ったように静まり返った。
「……貴様らの用意する玉座より、俺はこいつらと食う泥水を選ぶ」
ヴァンの低く、地を這うような声が広間に響いた。
激昂しているわけではない。しかし、その底知れぬ静かな怒りと、絶対的な拒絶の意思は、周囲の貴族たちを恐怖で硬直させるのに十分すぎる威圧感を放っていた。
「交わることはない。俺たちは鎧ができ次第、この国を出る」
ヴァンはひしゃげたゴブレットをテーブルに放り投げると、踵を返して大広間の扉へと向かって歩き出した。
セリアが静かにその後を追い、ルミナ、バクス、バルガンも堂々と胸を張って彼に続く。
黄金に輝く王都の裏に隠された、人間の社会システムの底なしの腐敗。
魔物を倒す力だけではどうにもならない巨大な暗闇を前に、ヴァンは自らの信念を曲げることなく、彼らとの決別を静かに、そして明確に突きつけたのであった。




