第128話 凍てつく濁流と、白銀の鉤爪
鋼殻の移動要塞が平原を抜け、大陸の東西を分かつ巨大な水脈「セイレン大河」へと差し掛かっていた。
川幅が数キロにも及ぶこの大河には、対岸の都市へと続く長大な石造りの大橋が架けられており、物流の要所として常に多くの商人や旅人でごった返している。ヴァンたちもまた、西の都市群へと向かうためにこの大橋を渡ろうとしていた。
「すごい活気ですね。この橋を通る荷馬車の数は、リグナムの市場の入り口よりも多いかもしれません」
ルミナが窓から身を乗り出し、眼下を流れる雄大な大河と、橋を行き交う人々の波を見下ろしていた。
「だが、どうも嫌な臭いがするぜ。川の底から、とんでもなく生臭くて濃い魔力の気配が上がってきやがる」
厨房で仕込みをしていたバクスが、鋭い嗅覚で異変を察知し、窓の外を険しい顔で睨みつけた。
その直後だった。
ゴボァァァァァァッ!!
要塞の数百メートル前方、大橋の中央付近の川面が突如として爆発的に膨れ上がり、天を衝くような巨大な水柱が立ち上がった。
水柱の中から姿を現したのは、全長二百メートルを超える青黒い鱗に覆われた水竜、「暴食の激流竜」であった。四肢を持たず、長大な蛇のような胴体を持つその化け物は、大河の主として何百年も川底で眠っていたはずの災害級の魔物である。
「ギシュァァァァァァァッ!!」
激流竜が咆哮を上げると同時に、大河の水が意思を持ったように逆巻き、巨大な渦となって大橋の橋脚に激突した。
メキメキと嫌な音を立てて、頑強な石造りの橋がひしゃげ始める。
「大河の主が目覚めたぞ! 逃げろ、喰われる!」
橋の上にいた大勢の商人や旅人たちがパニックに陥り、荷馬車を捨てて逃げ惑う。警備に当たっていた人間の召喚師たちが慌てて炎や雷の魔獣を召喚して迎撃を試みるが、激流竜が周囲に展開する分厚い水の防壁に阻まれ、すべての攻撃が霧散してしまう。
「チィッ、あのデカブツ、このままじゃ橋ごと人間どもを飲み込む気だぞ!」
バルガンが要塞の操縦桿を乱暴に切り、ブレーキを踏み込んだ。
「大将、俺たちが橋の崩落を抑える! その間にあの水トカゲを黙らせてくれ!」
「分かった」
ヴァンは即座に要塞のタラップを蹴り開け、外へと飛び出した。
バルガンは自身の巨大な金属鞄から無数の鋼鉄ワイヤー付きのアンカーを射出し、崩れかけている橋脚と欄干に次々と打ち込んで強引に橋を固定する。
「ルミナの嬢ちゃん! 橋の上の連中をこっちへ誘導しろ!」
「はい! 皆さん、荷物は捨ててこちらの安全地帯へ走ってください!」
ルミナが声を張り上げ、混乱する群衆の逃走経路を的確に確保していく。
「水棲の化け物にはこれだ! 俺の特製、爆炎発火油!」
バクスが腕を振りかぶって投げた樽が、激流竜の顔面付近で砕け散る。水に触れると猛烈な勢いで燃え広がる特殊な油が、竜の視界を一時的に炎で塞ぎ、その動きを僅かに鈍らせた。
「セリア!」
大橋の欄干に飛び乗ったヴァンが、背後のタラップに立つセリアに向かって叫ぶ。
「ええ! 行くわよ、ヴァン!」
セリアは両手を胸の前で強く組み、極限の集中力でヴァンの肉体へと二つの極大な魂を流し込んだ。
「気配を絶ち急所を穿つ隠密の極意。そして、万物の分子運動を停止させる絶対零度の氷結。今、この器にて交わりたまえ。多重同化……伝説の暗殺者、絶対零度の氷晶竜!」
ヴァンの身体を、暗黒のオーラと、すべてを凍りつかせる青白い冷気のオーラが同時に包み込む。
その瞬間、ヴァンが腰から引き抜いた白銀の長剣が、持ち主に流れ込んだ魔力と魂の特性に共鳴し、眩い光を放ちながら水のように流動を始めた。
刀身が二つに分かれ、ヴァンの両腕を覆うように形状を変異させていく。現れたのは、巨大な魔物の鱗を引き剥がし、急所を確実に抉り取るための二対の「白銀の鉤爪」であった。
暗殺者の俊敏な体術を阻害せず、かつ氷晶竜の冷気を直接対象の内部に叩き込むための、最適化された近接暗器である。
「シィッ!」
鋭い呼気と共に、ヴァンは欄干から眼下の大河へと跳躍した。
ヴァンの足が水面に触れる直前、氷晶竜の絶対的な冷気が大河の水を一瞬にして凍結させる。ピキピキと凄まじい音を立てて、激流が渦巻いていた川面が、数百メートルにわたって分厚い氷の平原へと姿を変えた。地形そのものを書き換える、規格外の氷結能力。
「ギシュゥゥゥゥッ!?」
下半身を突然氷に閉ざされた激流竜が、怒り狂って身をよじらせる。
竜はその巨大な顎を開き、極限まで圧縮された水の刃「水断のブレス」をヴァンに向かって吐き出した。
ズババババババッ!!
高水圧の刃が、氷の平原をやすやすと切り裂き、そのまま対岸の巨大な岩山を真っ二つに両断する。地形を変えるほどの恐ろしい破壊力。
しかし、その射線上にすでにヴァンの姿はなかった。
伝説の暗殺者の魂を宿したヴァンは、完全に気配と殺気を絶ち、音もなく氷の平原を滑るように疾走していた。水断のブレスが次々と氷を砕き、周囲に巨大な水柱と氷の破片を撒き散らす中、ヴァンはその僅かな死角を縫うようにして、一切の無駄なく激流竜の懐へと肉薄していく。
「ギィェェェェェッ!」
足元に迫るちっぽけな人間に気づいた激流竜が、氷を砕いて強引に尾を引き抜き、巨大な質量による薙ぎ払いを放つ。
直撃すれば要塞の装甲すらひしゃげる一撃。
だが、ヴァンは跳躍力だけでその巨体を駆け上がり、暗殺者の体術でぬらりとした鱗の表面を垂直に走り始めた。
「そこだ」
ヴァンは激流竜の喉元、もっとも鱗の薄いエラの隙間を見定めた。
両腕の「白銀の鉤爪」を大きく振りかぶり、巨体の急所へと全力で突き立てる。
ガキンッ!!
ミスリル製の鋭利な鉤爪が、強靭な竜の肉を容易く貫き、その深奥へと到達した。
「喰らえ」
鉤爪を通して、ヴァンは絶対零度の氷晶竜の魔力を、竜の体内へと直接解放した。
「ギギャアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?」
激流竜が天を仰いで絶叫を上げる。
内部から直接叩き込まれた絶対零度の冷気は、巨大な竜の血液を瞬時に凍りつかせ、細胞の一つ一つを破壊しながら全身へと浸透していく。竜の巨体が苦痛にのたうち回り、大気を震わせるほどの衝撃波が周囲の氷を粉々に砕いていくが、鉤爪を深く突き立てたヴァンは決して振り落とされない。
やがて、激流竜の断末魔の叫びは凍りつき、その巨大な身体は完全に活動を停止した。
ピキィィィン……という美しい音と共に、全長二百メートルの暴食の激流竜は、大河のど真ん中で巨大な氷の彫像へと姿を変えたのであった。
ヴァンが両腕を引き抜くと、白銀の鉤爪は再び流動し、一振りの長剣へと元の姿に戻った。それを静かに鞘に収め、ヴァンは崩れかけた大橋へと軽やかに跳躍して戻った。
「す、すげえ……。あの大河の主を、一瞬で氷漬けにしちまった……」
バルガンのアンカーに支えられた橋の上で、腰を抜かしていた商人たちや人間の召喚師たちが、震える声で呟いた。
彼らの常識では、あれほどの災害級の魔物を討伐するには、国軍の精鋭を一部隊丸ごと投入しなければ不可能なはずだった。それを、魔力を持たない戦士が、奇妙な変形をする剣と体術だけで単独で成し遂げたのだ。
「怪我人がいたら、こっちへ連れてきな! 俺の薬草スープなら、骨折くらいすぐに痛みを散らしてやるぜ!」
バクスが鍋を片手に叫び、ルミナがテキパキと商人たちの荷物の回収を手伝っている。
バルガンはワイヤーを巻き取りながら、「大将の暴れっぷりには、まだまだこの要塞の装甲も強化が必要だな」と嬉しそうに髭を撫でていた。
「ありがとうございます……! あなた方は、命の恩人だ。この恩は、一生忘れません!」
商人たちが、ヴァンたち一行に向かって次々と地面に膝をつき、深い感謝を捧げる。
召喚師の力だけがすべてとされ、戦士や異種族が見下される世界。しかし、理不尽な暴力を前にして彼らの命を救ったのは、その迫害されていた者たちであった。
「気にすることはない。俺たちは、俺たちの道を通るだけだ」
ヴァンは短く答え、タラップを上がってセリアの隣へと歩み寄った。
セリアはヴァンの無事な姿を見てホッと息を吐き、その太い腕にそっと触れた。
「お疲れ様、ヴァン。新しい剣の形も、完璧に使いこなしていたわね」
「ああ。どんな姿に変わっても、俺の手に馴染む。最高の相棒だ」
大河を塞いでいた氷の巨竜の噂は、橋を渡った商人たちの口から口へと語り継がれ、瞬く間に西の都市群へと広がっていった。
凄まじい力を持つ戦士と、彼を支える異種族の集団。
その存在はもはやただの噂話の域を超え、既存の社会システムの中でくすぶる人々に、新たな時代の到来を予感させる希望の象徴となりつつあった。




