第12話 拒絶の銀髪と剥奪された誇り
鉛のガーゴイルが放つ重力抑圧によって、部屋の床板がミシミシと悲鳴を上げ続ける中、奥の寝室へと続く重厚な扉が静かに開いた。
現れたのは、精霊召喚師のリーゼだった。彼女はすでに治療院の清潔な水で身体を清められ、最高級の絹で織られた純白の寝衣に身を包んでいる。銀色の長い髪は丁寧に梳かされ、美しい光沢を取り戻していた。まだ少し顔色は蒼白いものの、死の淵を彷徨っていた昨夜の姿とは打って変わり、高貴な召喚師としての威厳を完全に取り戻している。
「リーゼ、起きて大丈夫なのかい?」
レオンが声音を甘く変え、駆け寄って彼女の肩を優しく抱いた。リーゼはレオンに小さく頷き、そして部屋の中央で重力に耐えながら立ち尽くすヴァンの姿を捉えた。
その瞬間、彼女の美しい紫色の瞳に、明らかな嫌悪と軽蔑の色が浮かんだ。
「……こんな不潔なものを、私の部屋に入れないで」
氷のように冷たく、微塵の感情も込められていない声。
ヴァンは血の滲む唇を閉じ、ただ静かに彼女を見つめ返した。昨夜、暗闇の洞穴で彼女の細い四肢を擦り続け、自らの体温でその命を繋ぎ止めた時の感覚が、ヴァンの両手にはまだ生々しく残っている。しかし、今の彼女の目に映っているのは、泥と血と悪臭にまみれた、最底辺の無能な戦士の姿でしかない。
「リーゼ、こいつは君に謝罪しなければならないことがあるそうだ。聞いてやってくれないか」
レオンがわざとらしく芝居がかった口調で促した。キースがわずかに杖を動かすと、ヴァンを押さえつけていた重力が一段階強くなり、ヴァンの膝が限界を超えてガクンと床に沈み込みそうになる。だが、ヴァンは強靭な意志の力でそれを堪え、背筋を伸ばしたまま口を開いた。
「俺は、お前を誘拐などしていない。結界から締め出されたお前を助け出し、森の洞穴で瘴気の毒を抜いた。それだけだ」
淡々とした、しかし揺るぎない事実の提示。だが、その言葉はリーゼの心には一欠片も届かなかった。
「……嘘つき」
リーゼは忌々しげに吐き捨てた。
「私が瘴気に当てられて倒れた時、あなたが真っ先に逃げ出したのを私はこの目で見たわ。その後、意識を取り戻した私がどれほど恐ろしい思いをしたか。暗くて、冷たい泥の中で、化け物の息遣いを感じながら……。でも、レオンが助けに来てくれた。彼の光と温もりが、私を包み込んでくれたのよ」
彼女の記憶は、レオンの都合の良い嘘と、彼女自身の「高貴なレオンが助けてくれるはずだ」という願望によって完全に上書きされ、歪められていた。暗闇の洞穴で彼女を温め続けた泥臭い腕の感触を、彼女はレオンの魔法の温もりだと錯覚しているのだ。
「戦士なんて、やっぱり野蛮で卑怯な生き物ね。自分の命を惜しんで仲間を盾にするなんて。あなたに触れられたかもしれないと思うだけで、肌が粟立つわ」
リーゼの冷酷な言葉が、鋭い刃となってヴァンの胸に突き刺さる。
しかし、ヴァンの表情に悲壮感はなかった。ただ、これが召喚師という生き物の本質であり、力なき者が直面する絶対的な現実なのだと、冷徹な脳が事実として処理しているだけだ。弁明は無意味。彼らの作られた真実の世界において、泥にまみれた事実など何の価値も持たない。
「聞いたな、ヴァン。これがリーゼの、そして世界が出した答えだ」
レオンが勝ち誇ったような笑みを浮かべ、ヴァンの前へと歩み寄った。
「お前は本日をもって、僕の勇者パーティーから永久追放とする。ギルドにも手配して、今後一切のまともな依頼を受けられないようにしてやる。せいぜい、スラムのどぶさらいでもして日銭を稼ぐんだな。……ああ、そうだ」
レオンの目が、陰湿な光を帯びて細められた。
「お前が身につけているその装備品。それは全て、僕たち勇者パーティーの資金で揃えたり、手入れをしたりしたものだ。追放される無能に、それを持ち去る権利はない」
レオンの言葉は完全な言いがかりだった。ヴァンが着ている軽鎧も、背中に負った大剣も、全てヴァン自身が日々の僅かな報酬を切り詰めて買い揃え、何年にもわたって自分の手で血と汗を流して磨き上げ、手入れを続けてきた彼自身の魂そのものだ。
「この剣は、俺の個人的な持ち物だ。パーティーの資金など一銭も入っていない」
ヴァンが低く反論するが、キースが冷たく鼻で笑った。
「証明できるのかい? 僕たちの帳簿には、荷物持ちの備品代として多額の経費が計上されている。お前が勝手に横領したと言えば、衛兵はどう判断するかな。大人しく置いていくなら、命だけは助けてやろうと言っているんだ」
権力を傘にきた、完全な強奪。彼らはヴァンの持つ剣が欲しいわけではない。ただ、戦士から唯一の誇りである武器を奪い取り、惨めな姿で街に放り出すという精神的な屈辱を与えたいだけなのだ。
重力悪魔の放つ漆黒の眼光が、ヴァンの全身をギリギリと締め付ける。折れた肋骨が完全に限界を迎え、内臓を突き刺すような激痛が脳を支配した。このまま抵抗すれば、キースの重力魔法によって本当に骨を砕かれ、二度と立ち上がれない身体にされるだろう。
ヴァンはゆっくりと息を吐き出すと、血にまみれた手で背中の革帯を解いた。
ガシャン、という重い金属音が部屋に響き、ヴァンが長年命を預けてきた両手剣が、美しい真紅の絨毯の上に無造作に投げ出された。さらに、ひしゃげた軽鎧の留め具を外し、それも床に落とす。残ったのは、泥と酸でボロボロになった薄汚い麻の内着一枚だけだ。
「……これで満足か」
ヴァンの声には、怒りも絶望もこもっていなかった。ただ、無駄なものを削ぎ落としたような、底知れぬ静けさだけがあった。
「ふん、物分かりのいい犬だ。さっさと出て行け。二度と僕たちの視界に入るな」
レオンが顎をしゃくると、キースが杖を振り、重力悪魔と強烈な圧迫感が一瞬にして消え去った。
急激に解放された身体は、反動で強烈な目眩を引き起こした。ヴァンはふらつく足取りを必死に制御し、床に落ちた自分の剣に最後の一瞥をくれることもなく、静かにきびすを返した。
背後から、レオンとリーゼの楽しげな笑い声が聞こえてくる。
重厚なオーク材の扉が閉まるその瞬間まで、ヴァンは一度も振り返らなかった。与えられた役割を果たし、そして用済みとして捨てられた。ただそれだけのことだ。
豪奢な宿屋の廊下に一人放り出されたヴァンは、裸同然の薄着のまま、傷だらけの足を引きずり、冷たい石の階段をゆっくりと下り始めた。窓の外では、いつの間にか激しい雨が降り出し、城塞都市の街並みを灰色に染め上げている。
全てを失った戦士の、当てのない孤独な歩みが、今ここから始まろうとしていた。




