第119話 響き続ける槌音と、静かなる癒やしの時間
カァン、カァン、カァン。
澄み切った、しかし腹の底を震わせるような重厚な槌音が、昼夜を問わず深山の谷に響き渡っていた。
伝説のミスリルドラゴンを討伐し、極上のミスリル鉱石をガルドの工房へと持ち帰ってから三日が経過していた。その間、岩肌をくり抜いた工房の煙突からは絶え間なく黒煙が噴き上がり、灼熱の炎の明かりが夜の闇を赤々と照らし出し続けている。
鋼殻の移動要塞の居住区画。
静かに揺れる魔石ランプの灯りの中、ヴァンは清潔なシーツの敷かれたベッドに横たわっていた。
痛覚を持たない彼であっても、竜殺しの英雄と絶対零度の氷晶竜という二つの極大な魂を連続で宿し、さらには急激な魔力の入れ替えを行った肉体への負担は、筆舌に尽くしがたいものだった。全身の筋繊維はズタズタに引き裂かれ、皮膚の至る所に深い紫色の内出血が広がっている。今はただ、極限まで消耗した生命力を、眠りによって少しずつ回復させるしかなかった。
「……」
ベッドの傍らには、丸椅子に腰掛けたセリアが静かに寄り添っていた。
彼女は冷たい水で絞った清潔な布を手に取り、ヴァンの額に浮かぶ脂汗を優しく拭い去る。さらに、包帯の隙間から滲み出た血の跡を見つけると、手早く、しかし極めて慎重な手つきで新しいガーゼへと交換していく。
その動作には一切の無駄がなく、彼女の紫色の瞳は、ただひたすらにヴァンの静かな寝顔を見つめ続けていた。彼女の指先がヴァンの分厚い手に触れ、その無骨な指をそっと握りしめる。温かい脈拍が伝わってくることに、セリアは小さく安堵の吐息を漏らした。
「失礼するわよ、セリア」
居住区画の扉が静かに開き、ルミナが顔を出した。彼女の両手には、湯気を立てる木製の大きなお盆が抱えられている。その後ろから、バクスとバルガンも静かに足を踏み入れた。
「ヴァンさんの様子はどうですか?」
ルミナが小声で尋ねながら、ベッド脇のサイドテーブルにお盆を置く。
「ええ、呼吸は安定しているわ。筋肉の断裂も、バクスの薬のおかげで少しずつ塞がり始めている」
セリアが振り返り、静かに答えた。
「そいつは良かった。さあ大将、目が覚めてるなら腹に入れな。俺の特製、滋養強壮の極みスープだ」
バクスの声に反応するように、ヴァンはゆっくりと重い瞼を開いた。
「……すまない、バクス。いい匂いだ」
ヴァンが身体を起こそうとすると、セリアがすかさず背中に柔らかいクッションを挟み込み、彼の上体を支えた。
バクスが木椀を手渡す。中には、数種類の薬草と、魔物の骨髄を三日三晩煮込んだという、黄金色に澄み切ったスープが注がれていた。
ヴァンが一口喉に流し込むと、五臓六腑に染み渡るような強烈な旨味と、内側からカッと燃え上がるような熱が全身を駆け巡った。傷ついた細胞の一つ一つが、強引に叩き起こされて活力を取り戻していくような感覚だった。
「美味い。身体の奥から力が湧いてくるようだ」
「へっ、当然だ。今のお前さんの身体は、魔力の暴走で空っぽのスポンジみたいになってるからな。栄養を吸収する速度も桁違いだ。残さず全部食って、早く元の頑丈な身体に戻りな」
バクスは腕を組み、満足げに鼻を鳴らした。
「それにしても……ガルドの親父さん、本当に三日間ぶっ通しで鉄を打ち続けてますね。倒れちゃわないか心配です」
ルミナが、要塞の窓の外、工房から響き続ける槌音を聞きながら不安そうに呟いた。
バルガンが隻腕で自身の顎髭を撫でながら、窓の外の赤々と燃える煙突を見上げた。
「心配はいらねえよ。あいつは今、水を得た魚どころか、炎を得た竜みたいなもんだ。……だが、ミスリルを打つってのは、ただ硬い金属を叩くのとは訳が違う」
バルガンの声には、同じ職人としての深い畏敬の念が込められていた。
「魔法も物理も受け付けねえ絶対的な硬さを持つ鉱石だ。普通の炉の火や、普通のハンマーの衝撃じゃ、形を変えることすらできねえ。ミスリルを鍛えるには、鍛冶師自身の魂と魔力、そして命そのものを炎に焚べ、鉱石の意志と直接対話しながらねじ伏せるしかねえんだ」
カァン、カァン、という音が、再び重く響く。
「あいつは今、自分の寿命を削りながら、大将の力に耐えうる究極の器を生み出しようとしている。魔王の専属だった頃でさえ、あそこまで狂気じみた執念は燃やしていなかったはずだ。……大将、お前さんが命懸けで持ち帰った素材と、その不屈の意志が、完全にあの偏屈親父の心を溶かしたんだ」
バルガンの言葉に、ヴァンは自分の掌を見つめた。
勇者パーティーを追放され、すべてを奪われたあの日。彼は地位も名誉も、そして戦士としての魂の象徴であった愛剣すらも理不尽に奪い取られ、丸腰のまま社会の底辺へと放り出された。
そこから這い上がるために、セリアの同化によって手に入れた力で倒した強力な魔物の素材を使い、スラムの鍛冶屋に打たせた斬馬刀。その大切な相棒も、シュヴァルツとの死闘における過酷な多重同化の負荷に耐えきれず、砕け散った。
そして、ガルドから借り受けた失敗作の刀もまた、絶望的な硬度を持つ伝説の竜との戦いで、その役目を全うして塵となった。
戦士にとって、武器を失うことは死を意味する。
しかし今のヴァンには、武器の喪失による絶望感は微塵もなかった。
なぜなら、彼の周りには、己の命を懸けて背中を預けられる仲間たちがいるからだ。極限の魔力制御で己の身体を繋ぎ止めてくれるセリア。絶品の料理で命の火を燃やしてくれるバクス。鉄壁の防衛と知恵で道を切り拓くバルガン。物資の管理と的確なサポートで窮地を救うルミナ。
誰一人として欠けてはならない。既存の世界では不要とされ、迫害され、居場所を奪われた者たち。
だが、彼らが集い、それぞれの力を結集させた時、おとぎ話の伝説すらも打ち砕く絶対的な力が生まれる。
「……俺は、運がいい」
ヴァンがぽつりと呟いた言葉に、仲間たちが不思議そうな顔を向ける。
「俺は魔力を持たない、時代遅れの戦士だ。一人では何も生み出せず、傷を癒すこともできない。だが、お前たちがいてくれるおかげで、俺は立ち上がり、前へ進むことができる。そして今、最高の職人が俺のために剣を打ってくれている。これ以上の幸福はない」
寡黙なヴァンの、飾ることのない真っ直ぐな本心。
その言葉に、ルミナは顔を真っ赤にして両手で頬を押さえ、バクスは照れ隠しのようにそっぽを向いて鼻の頭を掻いた。バルガンは嬉しそうに豪快な笑い声を上げている。
セリアは何も言わず、ただ嬉しそうに目を細め、ヴァンの手を握る手にきゅっと力を込めた。
カァン、カァン、カァン。
響き続ける槌音は、まるで新しい世界の誕生を告げる産声のように、力強く、そして温かく谷間に響き渡っている。
「もう少しだ、大将。あいつの槌音が、いよいよ最終段階に入った音に変わってきた」
バルガンが窓辺から耳を澄ませて言った。
最強の相棒が、産声を上げようとしている。
傷ついた戦士の肉体もまた、仲間たちの絆という最高の霊薬によって、次なる戦いへ向けた静かなる闘志を取り戻しつつあった。




