第120話 黎明の槌音と、終幕の誓い
深い山里を包み込んでいた夜の闇が、東の空から白み始めていた。
岩肌をくり抜いた工房から響く重厚な槌音は、三日三晩、ただの一度も途切れることなく谷間に木霊し続けている。カァン、カァンという甲高くも力強い響きは、まるで世界そのものの鼓動のように、夜明けの冷たい空気を震わせていた。
その頃、はるか遠く離れた人間の王都。
光の届かない地下深くの冷たい牢獄の中で、かつて「勇者」と持て囃された男は、泥と汚物に塗れてうずくまっていた。
「……ヴァン……許さない……俺からすべてを奪った、あの無能の雑用係め……!」
レオンの落ちくぼんだ目には、もはやかつての傲慢な光はない。ただ醜い逆恨みと、狂気だけが宿っていた。
ヴァンの愛剣を理不尽に奪い取り、丸腰で追放した彼らは、ダークエルフの罠にかかって一切の魔力と召喚術を喪失した。社会の底辺へと転落した後も己の非を認めることはなく、落ちぶれたレオンは目先の金欲しさに商人の馬車を襲撃するという凶行に走り、あっけなく捕縛された。
一生出ることのできない暗闇の中。彼を助けに来る者は誰もいない。リーゼもキースも、すでに互いを罵り合いながらバラバラに離散し、二度と交わることのない破滅の道を歩んでいた。生まれ持った魔力だけを絶対の価値と信じ、他者を見下し続けた者たちの、あまりにも惨めで孤独な末路であった。
一方、希望の槌音が響く深山の谷。
ヴァンは、仲間たちの手厚い看護のおかげで、自らの足で歩けるまでに肉体を回復させていた。
「……ヴァン、外はまだ冷えるわ。無理はしないで」
移動要塞のタラップを降りようとするヴァンの背中に、セリアがふわりと厚手の外套を掛けた。彼女の紫色の瞳には、傷だらけの相棒を気遣う深い愛情が満ちている。
「ありがとう、セリア。だが、どうしても自分の目で見ておきたくてな」
ヴァンがゆっくりと大地に降り立つと、そこにはすでにバクス、バルガン、ルミナの三人が、温かいお茶を入れた木杯を手に、工房の煙突から立ち上る煙を見上げていた。
「おはようございます、ヴァンさん! 顔色、だいぶ良くなりましたね!」
ルミナが駆け寄り、ホッと胸をなでおろす。
「ああ。バクスの飯と薬、バルガンの防壁、ルミナの結界、そしてセリアの命懸けの制御。……お前たちがいてくれなければ、俺はあの霊峰の雪に埋もれていた」
ヴァンの実直な言葉に、バクスは照れくさそうに笑い、バルガンは隻腕で自分の髭を誇らしげに撫でた。
その時、三日間閉ざされ続けていた工房の重厚な鉄扉が、ギギギ……と重い音を立てて開かれた。
中から姿を現したのは、全身を煤で真っ黒に汚し、無数の火傷を負った魔族の鍛冶師、ガルドだった。
彼の息は荒く、肉体は極限まで疲労しきっているはずだが、その金色の眼光は、これまで誰も見たことがないほどに爛々と燃え盛っていた。
「……ガルド」
ヴァンが歩み寄ると、ガルドは巨大なやっとこで挟み込んだ「それ」を、無言で朝日に向かって掲げた。
それは、まだ剣の形をしていなかった。
魔法も物理も受け付けない絶望的な硬度を誇った、純度百パーセントのミスリル鉱石。それが今、ガルドの狂気じみた執念と、魂を燃やした炎によって完全にねじ伏せられ、真っ赤に熱を帯びた「極上の鋼」へと姿を変えていたのだ。
「見ろ、小僧」
ガルドの声はしゃがれていたが、深い歓喜に打ち震えていた。
「魔界で魔王の剣を打っていた頃ですら、俺はこれほどの素材に出会ったことはねえ。お前たちが命懸けで持ち帰ったこいつは、間違いなく世界最強の『器』になる」
ガルドがやっとこを動かすたびに、赤熱したミスリルの塊から、まるで星の瞬きのような白銀の火花が散る。
まだ完成ではない。ここからさらに叩き、鍛え、持ち主の魔力と魂を乗せるための微細な調整が始まるのだ。しかし、その圧倒的な質量と威圧感は、すでに伝説の誕生を確信させるに十分であった。
ヴァンは、赤々と燃える究極の素材を見つめながら、静かに目を閉じた。
勇者パーティーを追放され、セリアと出会った日のこと。
どん底から這い上がるために、同化の力で倒した魔物の素材を集め、スラムの鍛冶屋で打たせた分厚い斬馬刀。共に死線を潜り抜け、シュヴァルツとの激闘の果てに砕け散った、かけがえのない最初の相棒。
そして、ガルドから託され、霊峰の竜の硬い鱗と共に砕け散った失敗作の大太刀。
数々の喪失と引き換えに、彼は今、最強の武器を手に入れるための素材を目の前にしている。
そして何より、彼の背後には、種族の壁を越え、互いの命を預け合える無二の仲間たちが立っているのだ。
「頼む、ガルド。俺たちの未来を切り拓くための、最強の刃を」
「ああ、任せておけ! 出来上がるまで、首を洗って待ってな!」
ガルドは獰猛な笑みを浮かべると、赤熱したミスリルの塊を手に、再び工房の奥へと姿を消した。
直後、先ほどよりもさらに重く、さらに力強い槌音が、夜明けの空へと高らかに響き渡り始める。
「さあて、最高の武器が出来上がるまでに、俺たちも旅の準備を整えておかないとな」
バルガンが要塞の装甲を軽く叩く。
「新しい武器を手に入れたら、いよいよ国境を越えて、もっと広い世界へ行くんでしょ? 私、どんな商機があるか今からワクワクしてます!」
ルミナが目を輝かせ、バクスが大きく背伸びをした。
「どんな新しい食材に出会えるか、俺も腕が鳴るぜ。大将、どこまでもついて行くからな」
仲間たちの頼もしい言葉に、ヴァンは静かに頷き、東の空から昇る眩い朝日を見つめた。
召喚術だけがすべてを支配する理不尽な世界で、不要とされた戦士は、規格外の力と仲間を手に入れた。
すべての種族が笑い合える場所を創るという、途方もない夢の始まり。
最強の武器を手に入れるための素材を掲げ、彼らの眼前に広がる未踏の未来は、希望の光に満ち溢れていた。




