第117話 氷晶の絶撃と、崩れ落ちる白銀の空
天空から降り注ぐ数千本のミスリルと氷の刃。それは、逃げ場のない死の豪雨となって霊峰の火口へと降り注いでいた。
しかし、その絶望的な雨に向かって、たった一人で跳躍した戦士の姿があった。
ヴァンの手にあるガルドの失敗作の刀は、直前までの赤熱状態から一転し、絶対零度の冷気を纏って真っ白に凍りついている。急激な温度変化により刀身の亀裂は限界まで広がり、ミシミシと金属が断末魔の悲鳴を上げていた。
「ハアアアアアアアッ!!」
空中でヴァンが大太刀を横薙ぎに一閃する。
その瞬間、刀身から放たれた絶対零度の冷気が、ドーム状の防壁となって空間そのものを凍結させた。
氷晶竜の極限の冷気は、ただ対象を凍らせるだけではない。あらゆる分子の運動を強制的に停止させる、絶対的な「静」の力である。
降り注いでいた数千の刃は、ヴァンの放った冷気の領域に触れた瞬間、その運動エネルギーを完全に奪われ、空中でピタリと静止した。そして、竜殺しの英雄の膂力から生み出された物理的な衝撃波が遅れて到達すると、もろくなった無数の刃は、まるでガラス細工のようにパチンッと甲高い音を立てて粉々に砕け散った。
キラキラとダイヤモンドダストのように輝く破片が空を舞う。
「す、すげえ……! あの化け物の範囲攻撃を、たった一振りで全部相殺しちまいやがった!」
地上で防壁を支えていたバルガンが、空から降る輝きを見上げて驚愕の声を漏らす。
「大将の力だけじゃねえ! セリアの嬢ちゃんが、一歩も引かずにあのデタラメな力を制御し続けてるからだ!」
バクスの言葉に、仲間たちの視線がバリケードの裏で祈るように両手を組むセリアへと向けられた。
彼女の顔面は蒼白を通り越し、透き通るような白さになっていた。唇を噛み破り、一筋の血が顎を伝い落ちている。二つの極大の魂をヴァンの肉体という一つの器に留め、なおかつ暴走させずに調和させる。それは、術者である彼女の精神と魂を文字通り削り落とすような絶望的な苦行であった。
それでも、セリアは絶対に膝を屈しない。彼女の紫色の瞳は、天空で命を燃やすただ一人の戦士の背中だけを、狂気的なまでの集中力で見つめ続けていた。
「グルァァァァァァッ!!」
己の放った刃の雨が粉砕されたことに、ミスリルドラゴンが信じられないものを見るように双眸を見開いた。
そして、そのまま空中に浮かぶヴァンを完全に噛み砕こうと、身の丈二十メートルを超える巨体をくねらせ、巨大な顎を大きく開いて突進してくる。
魔法も物理も受け付けない、超高硬度の白銀の鱗。
だが、ヴァンには勝機が見えていた。
(先ほどの巨人の一撃で、奴の首元の鱗は極限まで熱せられた。そこにこの絶対零度の刃を叩き込めば……!)
極端な高温から極端な低温への急激な変化。いかに無敵を誇るミスリルの鱗であろうと、分子構造そのものが悲鳴を上げる「熱衝撃」には耐えられないはずだ。
ヴァンは、迫り来る巨大な竜の顎を恐れることなく、空中で身体を捻り、最後の一撃を放つための体勢に入った。
痛覚のない肉体が、限界を超えて駆動する。
筋肉の繊維が千切れ、骨が軋む音が、ヴァン自身の耳の奥で鳴り響いていた。
手元の大太刀は、すでに限界を迎え、刀身の破片がポロポロと剥がれ落ち始めている。次の一撃が、この武器の、そしてヴァンの肉体の正真正銘の限界だった。
「これで、終わりだッ!!」
ヴァンは、竜殺しの英雄のすべての魔力と、氷晶竜の絶対零度を、崩壊しかけた刃に一点集中させた。
そして、ミスリルドラゴンがその巨大な牙でヴァンを捕らえようとしたその瞬間、ヴァンは神速の動きで顎を躱し、竜の首元、赤黒く変色していた鱗の隙間へと、真っ白に凍りついた大太刀を全力で突き立てた。
パキィィィィィィィィンッ!!
霊峰の空に、クリスタルが砕け散るような、美しくも残酷な音が響き渡った。
ヴァンの読み通りだった。超高温から絶対零度へと急激に冷やされたミスリルの鱗は、熱衝撃によってその絶対的な結合力を失い、竜殺しの英雄の膂力による物理的な衝撃に耐えきれず、ついに広範囲にわたって粉々に砕け散ったのだ。
「ギャアアアアアアアアアアアッ!?」
鱗という絶対の鎧を失った無防備な竜の血肉に、絶対零度の冷気が直接流れ込む。
巨竜の首元から、青白い氷の結晶が凄まじい勢いで浸食し始め、その巨大な胴体、翼、そして尻尾へと、瞬く間に凍結が広がっていく。
血流が凍りつき、心臓の鼓動が停止し、魔力の供給が完全に断たれる。伝説として語り継がれ、長きにわたって霊峰の頂に君臨し続けてきた絶対者が、ただの巨大な氷の彫像へと変貌していく。
そして。
パァァァンッ!!
竜の完全凍結と全く同時に、限界を超えた出力を放ち続けていたガルドの「失敗作の刀」が、空中で粉々に砕け散った。
名剣を凌駕する強度を持っていた魔鋼石の塊は、戦士の非常識な力と竜の硬さに最後まで耐え抜き、その役目を完璧に果たして塵となったのだ。
完全に凍りついたミスリルドラゴンの巨体が、重力に引かれて火口へと落下していく。
ズドォォォォォォォンッ!!
大地を揺るがす轟音と共に、巨大な氷の彫像となった竜が結晶化した岩盤に激突し、無数の白銀の破片となって火口中に散らばった。
静寂が、霊峰の頂に舞い降りる。
空中で同化を解除したヴァンは、重力に従って地上へと落下していく。
限界を超えた肉体はピクリとも動かず、ただ風を切る音だけが耳に届いていた。
「ヴァンッ!!」
地上から、血まみれの唇を震わせたセリアの声が響いた。
彼女の足元で、ルミナが素早く魔道具を放り投げる。
「風のクッション、起動!」
地面に展開された緑色の風の結界が、落下してきたヴァンの身体を柔らかく受け止めた。
「大将! 無事か!」
バルガンとバクスが、防壁を蹴り飛ばしてヴァンの元へと駆け寄る。
風の結界の上に横たわったヴァンは、全身傷だらけで、着ていた軽鎧もボロボロに引き裂かれていた。しかし、その呼吸は静かで、力強かった。
「……ああ。なんとか、な」
ヴァンがゆっくりと身を起こすと、仲間たちから安堵の深いため息が一斉に漏れた。
セリアがふらつく足取りで駆け寄り、ヴァンの胸に顔を押し付けるようにして抱きついた。彼女の肩が微かに震え、無言のまま、ただヴァンの体温を確かめるように強く、強く抱きしめている。
ヴァンは不器用な手つきで、彼女の銀色の髪を静かに撫でた。
「おい見ろよ、大将! 嬢ちゃん!」
バルガンが、興奮で声を上ずらせながら、砕け散った竜の残骸の中心を指差した。
氷とミスリルの破片が散乱する中、ひときわ眩い白銀の光を放つ、巨大な結晶が転がっていた。
それは、魔法も物理も受け付けない絶望的な硬度と、莫大な魔力を秘めた伝説の証。
幻の刀鍛冶ガルドが、ヴァンのために最高の武器を打つと約束した、究極の素材。
「ミスリル鉱石だ……! 本当に、あの化け物を討ち取りやがった……!」
バクスが天を仰いで大笑いし、ルミナが嬉し泣きしながらバルガンに抱きついた。
愛用の斬馬刀を失い、丸腰に近い状態で挑んだ絶望的な討伐戦。
しかし、痛覚を持たない戦士の狂気的な執念と、彼を信じ、共に死線を乗り越えた仲間たちの完璧な連携が、ついにおとぎ話の伝説を打ち砕いたのだ。
澄み切った青空の下、霊峰の頂に吹き抜ける冷たい風が、勝利の余韻を優しく撫でていく。
ヴァンは仲間たちの笑顔と、腕の中で微かに震えるセリアの温もりを感じながら、白銀に輝く究極の素材を静かに見つめていた。
新たな相棒を手に入れるための試練は、今ここに達成されたのである。




