第112話 職人の魂と、不屈の失敗作
岩肌をくり抜いた巨大な工房に、強烈に食欲をそそる香りが充満していた。
「……ふざけるな。俺は魔王の専属鍛冶師まで務めた男だぞ。たかが獣人の作ったスープごときで、俺の意志が揺らぐとでも……」
ガルドは忌々しげに木椀を睨みつけた。しかし、道中で仕留めた魔物の骨から徹底的にアクを抜き、深山の香草で臭みを消し去った濃厚な白湯スープの香りは、長年まともな食事をとらずに鉄ばかりを叩き続けてきた彼の本能を、容赦なく揺さぶっていた。
「冷める前にさっさと食え。料理ってのはな、一番美味い瞬間に腹に入れるのが作った奴への礼儀ってもんだ」
バクスは腕を組み、自信に満ちた笑みを浮かべてガルドを見上げている。
ガルドは渋面を作りながらも、抗いがたい香りに負け、木椀に口をつけた。
ズズッ、と音を立てて熱いスープを喉の奥へと流し込む。
その瞬間、ガルドの金色の眼光が大きく見開かれた。
濃厚でありながらも決してしつこくない魔物肉の強烈な旨味。それが、疲労しきった魔族の巨大な肉体の隅々にまで、まるで渇ききった大地に染み込む水のように浸透していく。硬いはずの肉は口の中でほろほろと崩れ、絶妙な塩加減と香辛料の刺激が、内側から爆発的な活力を呼び覚ました。
「……なんだ、これは」
ガルドの呟きは、もはや怒声ではなかった。ただ純粋な驚愕だけがそこにあった。
彼は憑かれたように椀を傾け、一心不乱にスープと肉を胃袋へと流し込んでいく。その食べっぷりに、ルミナが嬉しそうに小さく拍手をした。
「ふふっ、バクスさんの料理の虜になっちゃいましたね。どんなに頑固な人でも、バクスさんのご飯を食べたら一発で笑顔になっちゃうんですから」
あっという間に巨大な木椀を空にしたガルドは、手の甲で口元を乱暴に拭い、大きく息を吐き出した。
「美味かったか、おっさん」
バクスがニヤリと笑うと、ガルドは気まずそうに視線を逸らし、小さく、だが確かな声で答えた。
「……ああ。悪くない」
「だろ? 俺の料理は世界一だからな」
バクスは胸を張り、真剣な眼差しでガルドを見つめ返した。
「俺はな、人間からも他の種族からも、獣人ってだけで散々気味悪がられてきた。お前さんと同じように、世界を恨んだ時期もあったさ。でもな、俺が美味い飯を作って振る舞えば、人間だろうがエルフだろうが魔族だろうが、みんな同じように『美味い』って顔をするんだ。食い物ってのは、種族の壁も、偏見も、凝り固まった意地も全部ぶっ壊して、心を繋ぎ合わせてくれる最高の架け橋なのさ。俺はいつか、誰もが笑って飯を食える、世界一のレストランを創るって夢があるんだ」
獣人の料理人が語る真っ直ぐな夢。
その言葉に、ガルドは押し黙った。彼の視線は、バクスの後ろで静かに見守るヴァンたち一行へと向けられた。
人間、エルフ、ドワーフ、そして獣人。本来ならば相容れないはずの種族たちが、互いを全く疑うことなく、自然な様子で背中を預け合っている。魔族である自分に対しても、彼らの目には一切の偏見や恐怖が存在しなかった。
「……バルガン。てめえ、とんでもねえ連中とつるんでるようだな」
ガルドが低く唸ると、隻腕のドワーフは得意げに鼻を鳴らした。
「だから言っただろうが。こいつらは普通の連中じゃねえ。特に、そこの大将はな」
ガルドの視線が、再びヴァンへと戻る。
足元には、先ほどヴァンが放り投げたスラムの斬馬刀の残骸が転がっていた。魔物の素材を打ち据えて作られた分厚い鉄の塊が、内側から弾け飛ぶように崩壊した無残な姿。
「小僧。名前はなんという」
「ヴァンだ。ヴァン・アッシュクロフト」
「ヴァン。お前、なぜ戦う。これほどの絶望的な負荷を自らの肉体と武器に強いてまで、何を求めている。名声か。富か。それとも闘争の本能か」
ガルドの問いは、鍛冶師としての魂の底から発せられた、刃のような鋭さを持っていた。
「どれも違う」
ヴァンは一切の迷いなく、静かに答えた。
「俺は、仲間を護るために戦う。理不尽な暴力から彼らを護り、誰もが笑って飯を食える場所を創る。そのために振るう刃が、俺には必要なだけだ」
飾り気のない、実直すぎるほどの言葉。
その瞳の奥には、権力を誇示する虚栄心も、武器を芸術品として崇めるような浅はかな欲も存在しなかった。ただ純粋に、命を懸けた戦場において、己の全力を預けられる「相棒」を求めている戦士の目だった。
ガルドはゆっくりと天を仰ぎ、深く、重い溜息を吐き出した。
「……魔王の専属を外れて追放されて以来だ。こんな、馬鹿みたいに純粋な『戦士の目』を見たのはな」
ガルドは足元の鉄の骸を蹴りのけ、ヴァンに向かって凄絶な笑みを浮かべた。
「いいだろう。お前のその器、そして獣人の極上のスープに免じて、俺が最高の剣を打ってやる」
「本当か!」
バルガンが歓喜の声を上げるが、ガルドはすぐに鋭い手刀を切ってそれを制した。
「勘違いするな。お前さんの異常な筋力と、そのデタラメな魔力の圧力……到底、普通の鉄や魔物の素材で耐えられる次元じゃねえ。俺の技術をもってしても、素材そのものが弱ければ、また同じように内側から砕け散るだけだ」
「ならば、どうする」
「俺の最高の腕に見合う、最高の素材を持ってこい。この山脈のさらに奥深く、魔物すらも恐れて近づかない未踏の霊峰に、伝説級の化け物が棲みついている。『ミスリルドラゴン』だ」
ガルドの口にした名前に、ルミナが小さく悲鳴を上げた。
「ミ、ミスリルドラゴン!? それっておとぎ話の中だけの存在じゃ……全身が超高硬度のミスリル鉱石の鱗で覆われていて、魔法も物理攻撃も一切受け付けないっていう、あの災害級の竜ですか!?」
「その通りだ。奴の強大な魔力と年月をかけて極限まで圧縮されたミスリルの鱗、そしてその中枢にある極上のミスリル鉱石。それさえあれば、お前の異常な力に耐え、己の意志で持ち主の力に応える『究極の器』を打つことができる」
ガルドは腕を組み、ヴァンを見下ろした。
「だが、魔法も物理も通じねえ絶望的な硬さを誇る竜だ。今の丸腰のお前じゃ、鱗一枚傷つける前に消し炭にされるのがオチだろうな」
「だからといって、諦める理由にはならない」
ヴァンは静かに、しかし燃えるような意志を込めて言った。
その揺るぎない覚悟を見たガルドは、鼻を鳴らすと、工房の奥深くへと歩き出した。
薄暗い工房の最奥。埃を被った古い木箱の中から、ガルドは一本の布に巻かれた長大な刀を取り出してきた。
ガルドが布を解くと、そこには赤黒い波紋が浮かび上がる、異様なまでの重圧を放つ大太刀が姿を現した。
「これは……」
セリアがその刀から放たれるただならぬ気配に息を呑む。
「俺が過去に打った『失敗作』だ」
ガルドは忌々しげにその刀を睨みつけた。
「純度の高い魔鋼石を極限まで打ち鍛えすぎた結果、異常なまでの重量と硬度を持っちまった。普通の戦士じゃ持ち上げることすらできず、少しでも魔力の波長が合わねえと持ち主の腕を弾き返す、どうしようもねえじゃじゃ馬だ。結局、誰にも扱えずに打ち捨てていた」
ガルドはその大太刀を、ヴァンに向かって放り投げた。
凄まじい重量の鉄の塊が空を裂く。
ヴァンは一歩も引かず、飛来した大太刀の柄を片手でガッチリと掴み取った。
ズンッ! と、ヴァンの足元の石畳がその異常な重量によってひび割れる。
「重いな……。だが」
ヴァンは顔色一つ変えずに、その長大な失敗作の刀をゆっくりと頭上へと振り上げ、刃筋の通った完璧な素振りを一閃した。
ヒュンッ!!
ただの素振りにも関わらず、工房の空気が真っ二つに裂け、すさまじい突風が巻き起こって周囲の埃を吹き飛ばした。
「……へえ。この規格外の鉄屑を、片手で軽々と振り回すか」
ガルドの口角が、隠しきれない歓喜に吊り上がった。
「貸し与えてやる。失敗作とはいえ、並の名剣など遥かに凌駕する強度と切れ味だ。お前の力にどこまで耐えられるかは未知数だがな。……そのなまくらで、伝説のミスリルドラゴンを叩き斬ってこい」
「恩に着る。必ず持ち帰ろう」
ヴァンは失敗作の刀を背中に背負い、深く頭を下げた。
「バクス、ルミナ、バルガン。野営の準備と移動要塞の防衛システムを確認してくれ。セリア、山頂までのルート解析を頼む」
ヴァンの的確な指示に、仲間たちが一斉に動き出す。
愛刀を失った戦士は、偏屈なる幻の鍛冶師から託された不屈の刃を背負い、最強の相棒を生み出すための過酷な試練、伝説の竜が待つ霊峰の頂へと歩みを進めるのであった。




