第108話 栄光と泥濘、決別の夜明け
城塞都市グリオンの夜は、復興への希望と新たな英雄を讃える熱気に包まれていた。
都市で最も格式高い宿の最上階。広々とした特別室の大きなダイニングテーブルには、バクスが腕によりをかけて調理した巨大な魔物肉のローストが、食欲をそそる香ばしい湯気を立てていた。
「さあ、遠慮せずにどんどん食ってくれ大将! 領主様からいただいた極上の香辛料をふんだんに使った特製だ。怪我の回復を早める栄養素もたっぷり詰め込んであるからな!」
バクスが満面の笑みで巨大な肉を切り分け、ヴァンの皿へと次々に山盛りに盛りつけていく。
「ああ、いただく」
ヴァンは短く答え、フォークで分厚い肉を口に運んだ。噛み締めるほどに溢れ出す濃厚な肉汁と、複雑に絡み合う香辛料の風味が、疲労した肉体の隅々にまで活力を浸透させていく。
「ちょっとバクス、ヴァンはまだ内臓も本調子じゃないんだから、いきなりそんなに重いものを食べさせたら駄目よ!」
セリアが慌ててヴァンの横からお茶の入ったカップを差し出す。治癒魔法が使えない彼女は、こうしてヴァンの体調管理と食事のペースに目を光らせることで、少しでも彼の回復をサポートしようと必死だった。
「気にしすぎだぜ嬢ちゃん。大将の頑丈な胃袋なら、この程度の肉、飲み物みたいなもんだろ」
バルガンが豪快に笑いながら樽に入ったエールを煽り、その横でルミナが都市から支給された報酬の金貨をチャリンチャリンと鳴らしながら、嬉しそうに帳簿に書き込みをしている。
温かく、騒がしく、そして何よりも居心地の良い空間。
かつて勇者パーティーの底辺の雑用係として、冷え切った野営地で一人、残り物の硬いパンをかじりながら魔物の見張りをしていた孤独な夜は、もう過去のものだった。
ここには、損得勘定抜きで互いを信頼し、背中を預け合える本物の仲間がいる。魔力を持たない自分を無能だと嘲笑う者は、この部屋には一人もいない。
ヴァンは、騒ぎ合う仲間たちの姿を静かに見つめながら、微かに口角を引き上げた。
これが、自分が命を懸けてでも護り抜きたいと願った、大切な居場所だった。
しかし、光が眩いほど、その裏側に落ちる影は濃く、そして深い。
温かな光に包まれる特別室から遥か遠く、都市の最も暗く冷たい底辺では、かつて栄光の頂点に立つと信じて疑わなかった三人の若者たちが、完全なる破滅の泥濘へと沈み込んでいた。
スラム街の汚水が流れる裏路地。
冷たい夜風が吹きすさぶ中、リーゼは膝をつき、悪臭を放つ生ゴミの処理と石畳の清掃を強いられていた。
「ひっ……ううっ……」
寒さと疲労でガタガタと震えながら、彼女は泥だらけになった手で冷たい水をすくい、地面の汚れを洗い流していく。かつて精霊の加護を受け、美しい絹のローブを纏って周囲から羨望の眼差しを向けられていた可憐な少女の姿は、もはや見る影もない。
手入れの行き届いていた美しい金髪は泥と脂で固まり、白魚のようだった手には無数の肉刺とあかぎれが裂け、赤黒い血が滲んでいる。爪は割れ、顔は煤と涙で汚れきっていた。
水たまりに映る自分の醜い姿を見るたびに、彼女の胸は張り裂けそうな後悔に苛まれた。
自分が底辺だと見下し、笑いながら切り捨てたあの戦士は、今頃、暖かな部屋で仲間たちに囲まれ、英雄として最高の夜を過ごしているのだろう。もしあの時、彼を追放せず、彼の手を取っていれば。自分は今も、あの暖かな光の中にいられたはずなのだ。
しかし、いくら涙を流して過去を悔やんでも、ヴァンの氷のように冷酷な眼差しが突きつけた「絶対的な無関心」という現実が覆ることはない。彼女は一生、この泥の底で這いつくばり、届くことのない光を見上げながら生きていくしかないのだ。
都市の最下層、誰も近づかない重度の隔離施設。
窓一つない冷たい石室の中で、かつての参謀キースは薄汚れた襤褸切れを纏い、壁の隅にうずくまっていた。
「……計算……計算が、合わない……。僕の完璧な戦術が……こんなはずでは……」
焦点の合わない目を虚空に向け、口から涎を垂らしながら、彼は永遠に解けることのない数式をブツブツと呟き続けている。
己の狡猾な計算と召喚術の知識だけが世界の全てだった男は、自らの知略が全く通用しない絶望的な現実を受け入れることができず、精神が完全に崩壊してしまったのだ。彼に人間としての尊厳が戻る日は、二度と来ない。
そして、光の届かない地下深くの重罪人用の牢獄。
太い鉄格子に囲まれた、湿ってカビ臭い独房の中で、レオンは狂ったように壁を殴り続けていた。
「出せ! 俺を出せ! 俺は選ばれた勇者レオンだぞ! 貴様らのような下賤な平民が、俺をこんな薄汚い檻に閉じ込めるなど許されるはずがない!」
彼の黄金の髪は抜け落ち、頬は痩せこけ、その姿はもはや正気を失った獣のようだった。
商人の馬車を襲撃しようとした野盗として捕らえられた彼は、いかに自分が勇者であるかを叫び続けたが、魔力を持たないただのひ弱な狂人の言葉など、誰の耳にも届かなかった。
「うるさいぞ、この詐欺師が。夜も遅いんだ、静かにしないと今日の分の水も抜きにするぞ」
見回りに来た防衛隊の兵士が、鉄格子を警棒で乱暴に叩きながら冷酷に言い放つ。
「ふざけるな! 水を持てこい! 極上のワインと肉を持てこい! 俺は英雄だ、ヴァンを呼べ! あいつなら俺の凄さが分かっているはずだ!」
レオンが鉄格子にすがりつき、見苦しく鼻水を垂らしながら叫ぶ。
兵士は鼻で笑い、虫けらを見るような目でレオンを見下ろした。
「お前のような頭のおかしい浮浪者が、我らが都市の救世主であるヴァン様の名を気安く口にするな。あの方は今、領主様からの最高級の待遇を受け、都市の誰もがその名を讃えている本物の英雄だ。魔力もなく、剣も振れないお前とは住む世界が違うんだよ」
「……あ、あいつが……本物の……英雄、だと……?」
レオンは目を見開き、信じられないものを見るように後ずさった。
魔法も使えない、召喚もできない、ただの無能な肉の盾。自分がいなければ生きていけないはずだった底辺の雑用係。それが、自分を差し置いて全ての人々から賞賛され、光の頂点に立っている。
その事実が、レオンの肥大化したプライドを根底から粉々に叩き割った。
「ち、違う……俺が……俺が勇者なんだぁぁぁッ!! ヴァンがああああッ!!」
暗く冷たい地下牢に、レオンの断末魔のような絶叫が響き渡る。
しかし、どれだけ叫ぼうとも、どれだけ世界を呪おうとも、彼を助けに来る者は誰もいない。かつて自分がヴァンに対して行った理不尽で無慈悲な仕打ちが、今、全く逃げ場のない永遠の地獄となって自分自身に返ってきたのだ。
偽りの栄光に縋り、他者への敬意を忘れ、他人の痛みを踏み躙った者たちの末路。
かつて世界中から持て囃された勇者パーティーは、こうして完全に歴史の闇へと消え去り、その惨めな最期は誰の記憶に残ることもなかった。
翌朝。
澄み切った青空から降り注ぐ暁の光が、城塞都市グリオンを眩しく照らし出していた。
宿のバルコニーに立ち、暖かな朝陽を全身に浴びるヴァンの背中には、一切の迷いがない。己の命を削ってでも護りたいと思える本物の仲間たちと共に、彼はこれからも理不尽な世界と戦い続けるだろう。
新たなる英雄の誕生と、冷酷な決別の夜が明け、戦士ヴァン・アッシュクロフトの次なる過酷な旅の幕が、静かに開こうとしていた。




