第107話 泥に沈む栄光と、取り返しのつかない後悔
城塞都市グリオンの華やかな復興と、新たな英雄の誕生に沸き立つ大通りの喧騒から遠く離れた、薄暗く湿ったスラム街の片隅。
そこでは、かつて栄光を約束されていたはずの少女が、泥にまみれて這いつくばっていた。
「おい、手が止まってるぞ! さっさと運べ、このグズが!」
現場の監督役の男から容赦ない罵声が飛び、リーゼの背中を鞭の柄が乱暴に叩いた。
「ひっ……! ご、ごめんなさい……すぐ、やります……っ」
リーゼは涙声で謝罪しながら、自分の体重ほどもある石炭が詰まった重い木箱を必死に持ち上げようとした。
日雇いの過酷な肉体労働。魔力を失った彼女には、もはや冒険者として安全で高給な依頼を受ける資格はない。ただその日の硬い黒パンと、底の透けて見えるような薄いスープを得るために、かつて自分が見下していた泥臭い労働をするしかなかったのだ。
かつて精霊の加護を受け、美しい絹のローブを纏っていた可憐な少女の面影は、今の彼女には微塵もない。
手入れの行き届いていた美しい金髪は泥と汗で固まり、白魚のようだった手には無数の肉刺が潰れ、赤黒い血が滲んでいる。爪は割れ、顔は煤で汚れきっていた。全身の筋肉が経験したことのない激痛を訴え、足がもつれて木箱を取り落としてしまう。中から転がり出た黒い石炭が、彼女の裸足を容赦なく打ち据えた。
(痛い……苦しい……ヴァンは、毎日こんな重い荷物を背負って、私たちのために働いてくれていたの……?)
今になってようやく、彼女はヴァンの背負っていた痛みを物理的に理解した。自分たちがいかに彼の献身に甘え、それをさも当然の権利であるかのように傲慢に振る舞っていたかを。
荷物持ちとして彼に押し付けていた野営の準備や、重い装備の運搬。痛覚がないとはいえ、彼の肉体には確実にこの激しい疲労と負担が蓄積していたはずだ。それでも彼は、一度として文句を言わず、自分たちを魔物から護り続けてくれていた。
ふと顔を上げると、遠くの大通りの方から、風に乗って歓声が聞こえてきた。都市を絶望から救い出した真の英雄、ヴァン・アッシュクロフトを讃える熱狂的な声だ。
リーゼの目から、取り返しのつかない後悔と自己嫌悪の涙が、真っ黒な泥に混じってボロボロと零れ落ちた。
その横のぬかるんだ通りを、一台の粗末な荷馬車が通り過ぎていく。
荷台には、完全に正気を失い、ただ口から涎を垂らして虚空を見つめるキースが、他の行き倒れた浮浪者たちと一緒に乱雑に放り込まれていた。都市の景観を保つため、スラムのさらに奥深く、誰も寄り付かないような隔離施設へと運ばれていくのだ。
彼もまた、己の狡猾な計算が全て無に帰した現実を受け入れられず、完全に心が壊れてしまっていた。
勇者、参謀、精霊召喚師。
かつて世界中から賞賛を浴び、栄光を約束されていたはずの若者たちは、己の傲慢さと他者への敬意の欠如によって全てを失い、こうして誰の記憶にも残ることなく、冷たい泥の底へと完全に沈んでいったのである。
一方、都市で最も上質な宿の最上階。
ヴァンは数日間の十分な休息と、バクスが腕によりをかけて作った栄養満点の魔物料理、そして都市の治療師たちによる手厚い処置のおかげで、ようやく一人で歩き回れる程度にまで回復していた。
「まったく、少し歩けるようになったからって、すぐに武器の手入れを始めようとするんだから。痛覚がないからって、無理は禁物よ」
セリアが呆れたようにため息をつきながら、ヴァンの傍らで温かいハーブティーを淹れている。
彼女は同化召喚師であり、治癒魔法を使うことは一切できない。その分、こうして身の回りの世話を焼き、ヴァンの体調変化や些細な動作の違和感を誰よりも鋭く観察することで、彼を支えようとしていた。
「俺は戦士だ。己の命を預ける武器の状態を把握しておくのは、当然の義務だろう」
ヴァンは静かに答えながら、愛用している刃渡り二メートル近い斬馬刀の刀身を、布で丁寧に磨き上げていた。
スラムの鍛冶屋にありったけの金属を打ち直して作らせた、魔力を持たない純粋な物理武器。ダークエルフの王シュヴァルツとの凄まじい死闘を共に潜り抜けたこの大剣には、無数の小さな傷が刻み込まれていた。
「大将! 領主様から極上の香辛料をもらったぜ! 今夜はこいつを使って、特製の巨大肉のローストだ!」
扉が勢いよく開き、バクスが満面の笑みで巨大な肉の塊を抱えて飛び込んできた。その後ろからは、新しい図面を丸めたバルガンと、帳簿を手にしたルミナが楽しげに笑いながら続いてくる。
「やったわねバクス! 最近スープばかりだったから、お肉が食べたかったのよ!」
セリアが顔をほころばせ、ヴァンもまた、騒がしくも温かい仲間たちの姿に、微かに口角を引き上げた。
魔力も地位もない彼らが、ただひたすらに互いを信じ、支え合いながら勝ち取った穏やかな時間。
かつて冷酷な言葉と共に追放された孤独な戦士は今、最も信頼できる仲間たちと共に、明るく光り輝く未来の真っ只中に立っていたのである。




