第106話 崩壊する偽りの絆と、狂気への単独行
生ゴミの臭いが立ち込める薄暗い路地裏で、かつての勇者パーティーは完全にその命脈を絶とうとしていた。
「金だ……馬車を襲って金を奪う。そうすれば俺はまた勇者になれる……!」
泥にまみれた地面に這いつくばりながら、血走った目でブツブツと狂気を孕んだ言葉を紡ぐレオン。
その傍らで、かつては冷静な参謀を気取っていたキースは、完全に焦点の合わない目を宙に泳がせ、石畳に落ちた硬いパンの欠片を泥ごと口に押し込んで咀嚼し続けていた。もはや彼に、現状を打開しようとする意志も、人間としての最低限の尊厳も残されていない。ただ飢えを満たす本能だけが残った廃人と化していた。
リーゼは、冷たい泥水の中に座り込んだまま、その二人の姿を絶望的な目で見つめていた。
彼女が頼りにしていた「光の勇者」は、平民の馬車を襲うという下劣な犯罪に手を染めようとする狂人に成り下がり、理知的な「参謀」は残飯を漁る獣へと姿を変えた。
そして彼女自身は、唯一の希望であったヴァンから氷のような無関心を突きつけられ、完全に心が折れていた。
「……もう、終わりね」
リーゼは虚ろな声で呟くと、ふらふらと立ち上がった。
破れて泥だらけになったローブを引きずりながら、彼女はレオンとキースに背を向ける。
「おい、どこへ行くんだリーゼ! お前も馬車を襲う手伝いをしろ! 勇者の命令だぞ!」
レオンが背後から金切り声を上げるが、リーゼは振り返らなかった。
魔力も絆も失った彼らと一緒にいても、待っているのは犯罪者として牢獄に繋がれるか、路地裏で野垂れ死ぬかのどちらかだ。彼女にはもう、二人を支える気力も、運命を共にする覚悟もなかった。
リーゼは当てもなく、ただフラフラと都市の暗がりへと姿を消していった。その足取りは重く、二度と彼らの前に姿を現すことはなかった。
「……チッ、逃げやがって。どいつもこいつも、俺の価値を理解できない愚か者どもめ」
レオンは去っていくリーゼを引き留めることもなく、忌々しげに地面に唾を吐いた。
キースに至っては、リーゼが立ち去ったことにすら気がついていない。
「いいさ、俺一人で十分だ。俺は光の勇者レオンだ。この程度の試練、金さえ手に入ればすぐに覆せる……!」
レオンは路地裏のゴミ捨て場から、刃こぼれだらけの錆びたナイフを一本拾い上げた。かつて伝説の聖剣を召喚して振るっていた彼が手にした、あまりにも惨めで滑稽な武器。
彼はそのナイフを震える手で握りしめ、翌日の夜に都市を出発するという商人の馬車を狙うため、暗がりの中で一人、狂気に満ちた笑みを浮かべていた。
一夜明け、城塞都市グリオンは美しい朝陽に包まれていた。
都市で最も格式高い宿の最上階。特別室のバルコニーからは、活気を取り戻した都市の全景と、遠くに広がる緑豊かな森が見渡せた。
「大将、朝飯できたぜ。今日は都市の領主様からの差し入れで、最高級の食材が揃ってたからな。腕によりをかけた特製スタミナプレートだ」
バクスがワゴンに載せて運んできたのは、分厚く切り分けられた香ばしい肉のステーキと、ふっくらと焼き上げられた黄金色のパン、そして新鮮な野菜がたっぷりと入った温かいスープだった。
「いつもすまないな、バクス」
ヴァンはベッドから身を起こし、テーブルについた。
同化の代償による肉体の損傷はまだ残っているが、バクスの料理が放つ強烈なバフ効果と栄養素が、驚異的な速度でヴァンの細胞を修復していく。痛覚がないからといって無理をさせないよう、セリアが隣に座ってヴァンの食事のペースをじっと見守っていた。
「焦って食べちゃ駄目よ。まだ内臓への負担も残っているんだから」
「分かっている。……セリア、お前もクマができているぞ。少し休んだらどうだ」
「私は大丈夫よ。あなたが倒れた時に、何もできなかったんだから……せめて、しっかり治るまでは見張らせてもらうわ」
セリアが少しだけ唇を尖らせながらも、優しく微笑む。バルガンとルミナも呆れたように笑いながら、和やかな朝食の時間が過ぎていった。
彼らの間には、計算や打算のない、心からの信頼と温かな絆が確かに存在していた。
その同じ日の夕刻。
都市の裏門から、他国へ向けて一台の商人の馬車が出発しようとしていた。ダークエルフの脅威が去り、ようやく安全に交易ができるようになった商人たちは、安堵の表情で荷台の確認を行っている。
その時だった。
「動くな! 荷台にある金目のものを全て出せ!!」
裏門の死角から、ボロ布を纏った泥だらけの男が、錆びたナイフを振りかざして飛び出してきた。レオンだ。
彼は自分が勇者であるという狂気に突き動かされ、力任せに御者を脅しつけようとした。
しかし、現実はあまりにも非情であった。
「なんだこの薄汚い浮浪者は!」
商人が雇っていた護衛の傭兵が、レオンの弱々しい突進を鼻で笑い、無造作に足を引っ掛けた。
「グワッ!?」
魔力を失い、元々ひ弱な体質であったレオンは、たったそれだけで盛大に地面に転倒し、錆びたナイフを手放してしまった。
「ふ、ふざけるな……! 俺を誰だと……俺は、勇者レオンだぞォォッ!」
レオンが泥水の中で泣き喚きながら起き上がろうとするが、護衛の傭兵は容赦なくその背中を踏みつけ、両腕を後ろ手に捻り上げた。
「ぎゃあああッ! 痛い、腕が、腕が折れるゥゥッ!」
「勇者だと? 笑わせるな。こんなガリガリのヒョロ虫が勇者なわけがあるか。最近この辺りをうろついている質の悪い野盗だな」
騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた都市の防衛隊によって、レオンはあっけなく拘束された。
かつては彼を英雄として讃え、歓呼の声で迎えた同じ兵士たちが、今は彼をただの薄汚い犯罪者として冷酷に引き立てていく。
「離せ! 俺は勇者だ! お前たち平民が俺を裁くなど許されない! ヴァン! ヴァンを呼べ! あいつなら俺の価値を分かっているはずだ!」
レオンは見苦しく鼻水を垂らしながら、すでに自分を見捨てた男の名を絶叫し続けた。しかし、その声が誰の心に届くこともなく、冷たい石造りの地下牢へと引きずり込まれていった。
窓一つない、冷たく湿った牢獄。
鉄格子の向こう側で、レオンは一生出ることのできない暗闇の中で、己の犯した罪と傲慢さを悔いることもなく、ただひたすらに世界を呪う不気味な怨嗟の声を響かせ続けることとなる。
偽りの栄光に縋り、仲間を見捨て、自己の価値を見誤った者たちの末路。
かつて勇者パーティーと呼ばれた彼らは、こうして完全に歴史の闇へと消え去り、二度と陽の当たる場所へ戻ることはなかったのである。




