第105話 届かないすがり手と、決定的な温度差
「……帰れ。お前たちの惨めな言い訳を聞くために、俺の貴重な休息を使う気はない」
夜の冷気よりも冷たい、絶対零度の拒絶。
ヴァンのその言葉は、怒りに任せた罵倒でもなく、過去の恨みを晴らすための復讐の言葉でもなかった。ただ、目の前にいる女が自分にとって『一ミリの価値もない赤の他人である』という、冷酷なまでの事実の提示であった。
リーゼは、空中に伸ばした自分の手が小刻みに震えていることに気がついた。
(嘘よ。こんなの、嘘……)
彼女の計算では、ヴァンは少し戸惑いながらも、最後には照れたように不器用な手で自分の涙を拭ってくれるはずだった。彼はずっと自分に片思いをしていて、命を懸けて自分を護ってくれたのだから。そう信じて疑わなかった。
「ま、待ってよヴァン! 嘘でしょう!?」
リーゼはパニックに陥り、背を向けて立ち去ろうとするヴァンの麻の衣服の袖を、すがりつくように強く掴んだ。
「私よ!? あなたが命懸けで守ってくれたリーゼよ! あの時、あなたが血だらけになって倒れた姿を見て、私、心が張り裂けそうだった……! だから今度こそ、私があなたの傍で……」
「離せ」
振り返ったヴァンの瞳に、リーゼは息を呑んで言葉を失った。
そこにあったのは、かつての仲間に対する未練や情熱ではない。裏切られたことへの怒りや憎悪ですらなかった。
それは、路傍に転がる石ころか、あるいはただの汚れた壁のシミを見るような、完璧なまでの『無関心』だった。怒りを向けられるよりも遥かに残酷な、お前という存在は俺の世界にもう存在していないという絶対的な宣告。
「俺が魔物の群れからお前を庇ったのは、それが俺に課せられた『盾としての仕事』だったからだ。それ以上でも、それ以下でもない」
ヴァンは、自分の袖を掴む泥だらけのリーゼの手を、感情の全くこもっていない視線で見下ろした。
「俺は契約を果たし、お前たちは俺を追放した。そこで全て終わっている」
「そ、そんな……だって、あなたは私を……」
「もう一度言う。離せ。今の俺には、護るべき本物の仲間がいる。過去の残骸に構っている暇はない」
ヴァンの低い声が、リーゼの胸に決定的な絶望として突き刺さる。
彼女はやっと理解したのだ。この男は、自分に少しでも未練を残しているわけではない。本当に、心の底から、自分たち勇者パーティーのことなどどうでもいいと思っているのだと。
自分たちが魔力を失い、泥水を啜るような惨めな生活を送っていようが、彼にとっては道端の雑草が枯れる程度の興味しか湧かないのだ。
ヴァンは少しだけ腕を振り、リーゼの手を容易く振り払った。
そのまま、振り返ることもなく特別室の重厚なガラス戸を開け、中へと入っていく。
「あ……ヴァン……待って、行かないで……!」
リーゼがすがりつくようにガラス戸に手を伸ばしたが、ピシャリと容赦なく扉は閉められ、内側から鍵がかけられた。
ガラス越しの暖かな部屋の中。
ふかふかのソファで眠っていたセリアが、目を擦りながら身を起こすのが見えた。
『ヴァン? どうしたの、こんな夜中に……』
ガラス越しに微かに聞こえるセリアの声。それに対するヴァンの表情を見て、リーゼは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けた。
自分に向けられていた氷のような無表情が嘘のように溶け、ヴァンが、呆れたような、しかしどこまでも優しく温かい微笑みを浮かべていたのだ。
『いや、何でもない。ただの冷たい夜風だ』
ヴァンはそう言って、セリアの頭を乱暴に、けれど慈しむように撫でた。セリアは治癒魔法が使えない無力感から泣きはらした目を細め、ヴァンの大きな手に頬をすり寄せている。
そこにあるのは、強固な信頼と、互いを心から大切に想い合う本物の絆の姿だった。
(あそこは……私がいるはずの場所だったのに……っ!)
リーゼは、特別室のガラス戸に手をついたまま、今度こそ本物の涙をボロボロと零した。
自分がどれほど愚かな選択をしたのか。底辺だと見下し、笑いながら切り捨てた男が、本当はどれほど大きな器と優しさを持っていたのか。
しかし、後悔したところでもう遅い。ガラス一枚隔てたその空間は、彼女にとって永遠に手の届かない、決定的な断絶の世界であった。
光り輝く最上階のテラスから、従業員用の暗い階段を逃げるように降り、リーゼは再び生ゴミの臭いが立ち込める裏路地へと戻ってきた。
そこには、絶望と飢えで完全に正気を失いかけている、かつての勇者と参謀の姿があった。
「……金だ。金さえあれば、俺はまた這い上がれる……」
レオンが泥まみれの地面に座り込み、虚ろな黄金の瞳を見開いてブツブツと呟いている。
「そうだ、明日の夜、この都市を出る商人の馬車があるはずだ。あいつらはダークエルフがいなくなったと安心しきっている。……そこを襲えば、金目のものが手に入る。金さえあれば、魔法道具でも何でも買って、俺はまた勇者に返り咲けるんだ……!」
「レオン……あなた、自分が何を言っているのか分かってるの……?」
リーゼが震える声で尋ねる。
かつては正義を語り、魔物を討伐して人々から歓声を浴びていた光の勇者。それが今や、何の罪もない商人の馬車を襲って金を奪おうなどと、薄汚い野盗以下の犯罪を企てているのだ。
「うるさいッ! これは正当な徴収だ! 俺は勇者なんだぞ、俺が再び立ち上がるための資金を平民どもが提供するのは当然の義務だろうが!」
レオンが狂ったように叫び、リーゼに泥を投げつけた。
その横では、キースが焦点の合わない目で薄汚れたパンの欠片を咀嚼し続け、レオンの狂気的な計画に肯定も否定もせず、ただ首を揺らしている。
完全に、終わっていた。
彼らにはもはや、過去の栄光を取り戻す力も、現実を直視する知性も、一からやり直すだけの気概も残されていない。あるのは、肥大化したプライドと、自分たちをこんな目に遭わせた世界への醜い逆恨みだけ。
(私たちは……ここから落ちていくしかないんだわ……)
リーゼは泥水の中にへたり込み、冷たい石畳の上で声を殺して泣き崩れた。
都市中が新たな英雄の誕生に沸き立つ輝かしい黎明の夜。かつて偽りの栄光を貪った勇者パーティーは、誰に知られることもなく、完全なる破滅と没落への道を、転げ落ちるように歩み始めていた。




