第104話 泥に塗れた偽りと、氷のように冷たい眼差し
夜の帳が下りた城塞都市グリオン。
上空を覆っていた分厚い暗雲は消え去り、澄み切った夜空には満天の星が瞬いていた。大通りではダークエルフの脅威から解放された市民たちが、今なお酒を酌み交わし、新たな英雄の誕生を祝う盛大な宴を続けている。
その喧騒から少し離れた、都市で最も格式高い宿の最上階。
ヴァンは、特別室に備え付けられた広いバルコニーの手すりに寄りかかり、夜風を浴びていた。
都市の治療師たちとバクスの特製霊薬のおかげで、砕けていた骨や断裂した筋繊維は驚異的な速度で繋がりつつある。とはいえ、多重同化による限界突破の代償は重く、まだ激しい運動ができる状態ではない。分厚い包帯を巻かれた身体には、宿が用意してくれた肌触りの良いゆったりとした麻の衣服を羽織っていた。
「……静かだな」
ヴァンは夜空を見上げながら、短く息を吐いた。
部屋の中では、数日間の徹夜の看病でついに限界を迎えたセリアが、ふかふかのソファで丸くなってすやすやと寝息を立てている。その寝顔を起こさないよう、ヴァンは一人でバルコニーへと出てきたのだ。
長年、勇者パーティーの雑用係として、冷たい土の上で魔物の見張りをしながら過ごしてきた孤独な夜とは違う。ここには確かな安らぎがあり、背中を預けられる仲間がいた。
一方、その同じ夜空の下。
華やかな大通りから外れた、生ゴミの異臭が漂う薄暗い裏路地では、かつて英雄ともてはやされた者たちが、地を這うような惨めな現実を突きつけられていた。
「ふざけるな! 俺は勇者レオンだぞ! なぜ俺が、こんな残飯みたいな硬いパンしか食えないんだ!」
路地裏の木箱を蹴り飛ばし、レオンが血走った目で叫び声を上げた。
彼の黄金の髪は泥と脂で汚れきっている。かつて彼が誇らしげに身につけていた眩い『聖なる鎧』は、とうの昔に失われていた。魔力と召喚獣を失い、都市の底辺へと転落して逃げ惑う最中、柄の悪い追い剥ぎたちに襲われ、抵抗する力もなく身ぐるみ剥がされて強奪されてしまったのだ。
今の彼が身に纏っているのは、どこかのゴミ捨て場で拾い集めた、悪臭を放つボロボロの麻袋のような布切れだけであった。
「うるさいぞ、この詐欺師ども! 影の化け物が出た途端に尻餅をついて逃げ出した癖に、どの口が勇者だとほざく!」
路地に面した酒場の裏口から、恰幅の良い店主が冷や水を張った桶を持って現れ、レオンたちの頭上から容赦なくぶちまけた。
「冷たッ! き、貴様、平民の分際で勇者に向かって……!」
「勇者? 笑わせるな。魔力も金もないただの穀潰しが。さっさとこの路地から失せろ、腐った臭いが店まで漂ってくるんだよ!」
店主は冷酷に言い放つと、ゴミでも見るような目で彼らを一瞥し、乱暴に扉を閉めた。
「クソッ、クソッ、クソがあぁぁッ!!」
レオンは冷たい泥水に濡れたまま、地面を何度も殴りつけて発狂したように喚き散らす。その傍らでは、戦術召喚師であるキースが、店主が落としていった残飯のパンの欠片を泥ごと拾い集め、虚ろな目でガツガツとかじっていた。参謀として常に計算高く振る舞っていた彼の顔には、もはや知性の欠片も残っていない。ただ飢えを満たすだけの獣に成り下がっていた。
その惨状を路地の暗がりから冷ややかに見つめながら、リーゼはギリッと奥歯を噛み締めた。
精霊の加護を失い、美しいローブも破れて泥だらけになった彼女だが、その瞳の奥には未だに打算的で醜い欲望がギラギラと燃え盛っていた。
(……どうして。どうして私が、こんなゴミみたいな男たちと一緒に泥水を啜らなきゃいけないのよ)
リーゼは、大通りから見上げるほど高い、あの豪華な宿のバルコニーを睨みつけた。
そこには今、自分がかつて見下し、理不尽に追放した無能な荷物持ちがいる。しかし同時に、彼女は一つの「切り札」を確信していた。
勇者パーティーが危機に陥ったあの日。ヴァンは自らの命を投げ打って、魔物の群れからリーゼを庇い、血だらけになって倒れた。
(そうよ。あいつは私を庇って死にかけた。……あいつは私のことが好きだったんだわ。不器用でお人好しな戦士のことだから、私が優しく微笑みかけて、少し涙を流して同情を誘えば、絶対に私を許して受け入れるはずよ)
リーゼは、薄汚れた水たまりで自分の顔を洗い、破れた布切れの襟元を少しだけはだけさせ、弱々しくも魅力的に見えるように計算して身嗜みを整えた。
気が狂ったように喚くレオンと、残飯を漁るキースを路地裏に冷酷に見捨て、彼女は一人、ヴァンが滞在している最高級の宿へと向かった。
宿の入り口は防衛隊の兵士によって厳重に警備されていたが、リーゼは裏口の荷物搬入路の死角を抜け、従業員用の階段を忍び足で登っていった。かつて勇者パーティーとして様々な高級宿に泊まり歩いていた経験が、こんな形で役立つとは皮肉なことだった。
最上階。特別室へと続く広い共有テラス。
そこに、夜風に吹かれながら一人で夜空を見上げる、見覚えのある広い背中があった。
「……ヴァン」
リーゼは、計算し尽くした、甘く、そして震えるような弱々しい声で彼の名を呼んだ。
バルコニーの手すりに寄りかかっていたヴァンが、ゆっくりと振り返る。
「……リーゼか」
ヴァンの声には、驚きも、怒りも、一切の感情が含まれていなかった。ただ事実を口にしただけの、平坦な音。
その無反応さに一瞬たじろいだが、リーゼはすぐに悲劇のヒロインの仮面を被り、目に大粒の涙を浮かべてヴァンへと駆け寄った。
「ヴァン……っ、ごめんなさい! 私、ずっとあなたに謝りたかったの……!」
リーゼはヴァンの胸元にすがりつこうと両手を伸ばし、上目遣いで彼を見つめた。
「私、気を失っていて知らなかったの。あなたが命懸けで、魔物から私を庇ってくれていたなんて……! レオンが、あなたが逃げたって嘘をついたのよ。私、騙されていたの!」
嘘だった。彼女は追放の時、ヴァンが肉の盾として使い潰されることを容認し、彼を嘲笑うレオンたちと同調していた。しかし、そんな過去など自分の涙と色仕掛けでどうにでも上書きできると、彼女は本気で信じていた。
「私、魔力も失って、ひどい目に遭って……その時、ずっとあなたのことばかり考えていたわ。本当に私を大切にしてくれたのは、ヴァンだけだったって……。ねえ、ヴァン。もう一度、私と一緒に……」
リーゼが潤んだ瞳で、ヴァンの逞しい腕に触れようとした、その瞬間。
「……触るな」
夜の冷気よりも遥かに冷たい、絶対零度の声がテラスに響いた。
リーゼの動きが、ピタリと止まる。
彼女が見上げたヴァンの瞳。そこには、かつてのパーティーメンバーに対する情も、裏切られたことへの憎悪すらも、一切存在していなかった。
あるのはただ、路傍の石ころか、あるいは壁のシミを見るような、完全なる『無関心』と『冷徹』。
「な……ヴァン……?」
予想外の反応に、リーゼの作り物の涙が引っ込み、顔が醜くひきつった。
「俺は、お前たちを護るという契約を終えた。それ以上の関係はない」
ヴァンは、すがりつこうとするリーゼの存在を視界から完全に外すように、ゆっくりと背を向けた。
愛憎の反転すら起きていない。ヴァンにとって、今のリーゼはもはや、怒りを向ける価値すら無い全くの他人に過ぎなかったのだ。
「帰れ。お前たちの惨めな言い訳を聞くために、俺の貴重な休息を使う気はない」
かつて自分を熱烈に愛していると信じ込んでいた男から突きつけられた、情け容赦のない、氷のように冷酷な決別の言葉。
リーゼは伸ばした手を宙に浮かせたまま、その圧倒的な「温度差」の前に、ただ絶望的な寒気を覚えて立ち尽くすことしかできなかった。




