第103話 新たなる英雄の目覚めと没落の足音
重く閉ざされていたまぶたをゆっくりと押し上げると、真っ白な天井と、部屋の隅に飾られた見事な百合の花が視界に入った。
空気には微かな香が焚き込められており、肌に触れるシーツは驚くほど滑らかで柔らかい。少なくとも、雨風を凌ぐだけの野営地の硬い地面や、移動要塞の無骨な寝台ではないことだけは確かだった。
「……ヴァン? ヴァン、気がついたの!?」
すぐ傍から、ひどく掠れた声が響いた。
首を少しだけ巡らせると、ベッドの横で丸椅子に座り込んだまま、祈るように両手を組んでいたセリアが、弾かれたように立ち上がるのが見えた。彼女の美しい銀色の髪はひどく乱れ、目の下にはうっすらと隈ができている。その深い紫色の瞳からは、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出していた。
「……セリア。ここは?」
ヴァンがひび割れた声で尋ねながら身を起こそうとすると、全身の筋肉がミシミシと軋むような強烈な違和感を訴えた。痛覚を持たない彼にとって、それは「身体が激しく損傷し、現在も修復作業中である」という生々しい感覚のフィードバックだった。
「動かないで! まだ筋肉も骨も完全に繋がってないんだから!」
セリアが慌ててヴァンの肩を押し留める。
「ここは、城塞都市グリオンで一番上質な宿の、最上階の特別室よ。あなたが倒れた後、都市の治療師たちが総出で魔力を注ぎ込んでくれて、バクスの霊薬と一緒に何とかあなたの命を繋ぎ止めたの。……丸二日、ずっと眠りっぱなしだったのよ」
「丸二日か……」
ヴァンは短く息を吐いた。二つの強大な魂を同時に宿すという禁忌、多重同化の代償は想像以上に肉体を破壊していたらしい。
「ごめんなさい……私に、治癒の魔法さえ使えれば……。あなたの傷一つ治せない召喚師なんて……」
セリアが悔しそうに唇を噛み、ヴァンの大きな手を両手で包み込んで顔を伏せた。己の無力さを呪うその震える肩を、ヴァンは痛む腕を少しだけ動かして、不器用だが優しく撫でた。
「大将! 気がついたのか!」
「おお、ヴァンさん! よかった……本当によかったっす!」
バタンと勢いよく扉が開き、バクスとバルガン、そしてルミナが部屋へと雪崩れ込んできた。
バクスは手にした栄養満点の特製スープが入った鍋を危うくこぼしそうになりながら駆け寄り、バルガンは腕を組んで豪快に笑い、ルミナはほっとしたように胸を撫で下ろしている。
「まあ、外の騒ぎを聞いてみなさいよ。ヴァンさん」
ルミナが、窓際の分厚いベルベットのカーテンを少しだけ開けた。
開かれた窓の隙間から、凄まじい歓声と音楽、そして人々の熱狂的な声が波のように押し寄せてきた。
「無双の戦士に乾杯!」
「我らが都市の救世主に祝福を!」
「あの黒鋼の大剣使いこそ、本物の英雄だ!」
窓の下に広がる大通りには色とりどりの旗が掲げられ、昼間から盛大な宴が催されていた。誰もがヴァンの名を口にし、酒を酌み交わし、絶望の影から都市を救い出した孤独な戦士を讃えて狂喜乱舞している。
「都市の領主様からのご招待っすよ。この宿の最上階は全部俺たちの貸し切りで、費用は都市が全額負担。食事も酒も全部無料。まあ、あれだけのことしたんだから当然の報酬っすけどね」
ルミナが誇らしげに胸を張る。
かつては魔力を持たない無能な荷物持ちとして、この同じ都市の人間たちから石を投げられ、蔑まれた。
しかし今、無骨な大剣を背負う戦士ヴァン・アッシュクロフトの名は、真の英雄として都市の歴史に深く刻み込まれていた。魔法の有無や職業の貴賤など関係ない。己の命を削ってまで弱者を護り抜いたその気高き魂こそが、人々の心を打ち、世界の見方を変えたのだ。
だが、光が強ければ強いほど、そこに落ちる影もまた濃くなる。
熱狂に包まれる大通りから一本外れた、薄暗く湿った裏路地。
宴の喧騒が遠く響く生ゴミの臭いが立ち込めるその場所を、泥だらけのボロボロのローブを引きずりながら歩く三人の姿があった。
「クソッ……クソがッ! なんで俺たちが、こんな惨めな思いを……!」
地面の石ころを力任せに蹴り飛ばしたのは、かつて勇者ともてはやされた青年、レオンだった。
彼の身なりは見る影もなく汚れ、輝いていた金の髪は脂と泥で固まっている。隣を歩く戦術召喚師のキースも、精霊召喚師のリーゼも、空腹と疲労で頬がこけ、死人のようにうつむいていた。
彼らはダークエルフの罠に落ち、召喚獣と魔力を完全に奪い取られていた。
魔力こそが人間の価値であると信じて疑わなかった彼らにとって、それは文字通り「社会の底辺への転落」を意味していた。宿屋からは追い出され、その日のパン一つ買う金すらない。
「おい、見ろよ。あれ、逃げ出した勇者パーティーじゃないか?」
路地の入り口を通りかかった市民たちが、レオンたちを指差してヒソヒソと囁き合う。
「ああ、影の化け物が出た途端、泣き叫んで這いつくばってた連中だろ。偉そうにふんぞり返ってた癖に、魔力がなくなったらただのゴミじゃないか」
「無能な荷物持ち以下の存在だな。あんな奴らより、ヴァン様だよ。魔法なんて使えなくても、あの方こそが本物の勇者だ」
蔑みと嘲笑の視線が、かつての英雄たちに容赦なく突き刺さる。
「……見世物じゃないぞ! 失せろ下民ども!」
レオンが血走った目で怒鳴り散らすが、市民たちは冷たい鼻で笑い、そのまま大通りの宴へと戻っていった。
「どうして……どうしてこんなことになっちゃったの……」
リーゼが、汚れた壁に手をついてボロボロと涙を零した。
彼女の脳裏に浮かぶのは、圧倒的な力で空を駆け、絶望的な巨大な敵を真っ二つに両断したヴァンの姿だった。
かつて自分たちがゴミのように扱い、理不尽に追放した無能な戦士。
しかし、あの男は自分たちを見捨てることなく、この都市を、そしてこの国を救ってみせた。
リーゼは思い出した。勇者パーティーが危機に陥ったあの日、ヴァンが身を挺して自分の前に立ち塞がり、魔物の群れから護ってくれたあの広くて頼もしい背中を。気を失っていたため彼が逃げたのだと思い込んでいたが、本当は違ったのだ。彼はいつだって、誰よりも強く、そして自分を護ってくれていた。
(……ヴァン。あんなに強くて、今はみんなから英雄って呼ばれてる……)
リーゼの胸の奥で、後悔という感情が、次第に醜くも打算的な欲望へとすり替わっていった。
もし、あの時彼を追放していなければ。
もし、もう一度彼の傍に戻ることができれば。
魔力を失い、誰からも見下され、その日の食事にも困る今の惨めな生活から抜け出し、英雄の仲間として再び栄光の座に返り咲くことができるのではないか。
(ヴァンは、命懸けで私を庇ってくれた。……つまり、あいつは私のことが好きだったはずよ。私が少し涙を見せて謝れば、あの不器用でお人好しな戦士のことだから、絶対に許してくれるわ。そうすれば、私はあの最上階の部屋に戻れる。英雄の恋人として、もう一度贅沢な暮らしができるんだわ)
リーゼは、薄汚れた自分の顔を両手で拭いながら、熱狂に包まれる都市の最も高い建物――ヴァンが滞在している上質な宿の最上階のバルコニーを、ギラギラとした執着の籠もった目で見上げた。
没落した偽りの勇者たちと、真の強さを証明した孤独な戦士。
交わるはずのない彼らの運命の糸が、冷酷な決別の夜に向けて、再び引き寄せられようとしていた。




