第102話 黎明の祈りと戦士の帰還
広場を包んでいた凄まじい紫電の嵐が完全に収束し、ダークエルフの王シュヴァルツの姿は光の塵となって空間から消え去った。
「王が……我らが絶対の神が討たれた……!」
「逃げろ! あの戦士は人間じゃない、次元が違いすぎる化身だ!」
王の死という絶対的な絶望を前に、建物の屋上や路地裏に潜んでいたダークエルフの残存兵たちは、完全に戦意を喪失していた。恐怖に顔を引き攣らせた彼らは武器を放り出し、我先にと路地の影や都市の外へと逃げ出していく。かつて人間の召喚師たちを一方的に虐殺し、恐怖のどん底に陥れた影の軍勢は、たった一人の戦士の圧倒的な力の前に完全に心を折られ、蜘蛛の子を散らすように自国の森へと撤退していった。
王の気配が完全に消え去ったことを、戦士の本能で悟ったのだろう。
カラン、と重厚な斬馬刀と使い込まれた小太刀が石畳に転がる乾いた音が、静寂を取り戻した広場に響いた。
二つの強大な魂を同時に宿す「多重同化」という禁忌の代償は、ヴァンの鋼の肉体を内側から完全に破壊し尽くしていた。雷獣と剣豪の魔力が抜け落ちた瞬間、超高圧の紫電によって強引に繋ぎ止められていた筋繊維は限界の悲鳴を上げ、砕けた骨が本来の重力に負けてひどく軋む。
血に染まった英雄の巨体が、まるで糸の切れた操り人形のように前方へと傾き、重い音を立てて石畳の上に崩れ落ちた。
「ヴァンッ!!」
シュヴァルツの死によって重力波から解放されていたセリアが、血の気の引いた顔で広場の中央へと駆け出した。
彼女の足が石畳を蹴る音だけが、息を呑んで見守る市民たちの間で響き渡る。
倒れ伏したヴァンの元へ辿り着いたセリアは、その惨状に息を詰まらせた。全身の毛穴から血の霧を噴き出し、右腕や両足は異様な方向に捻じ曲がり、呼吸すらも浅く途切れ途切れになっている。痛覚がないからこそ動けていただけで、常人であれば十度は死を迎えているほどの致命的な損壊状態だ。
「バカ、大バカよ……! ここまで自分を壊してまで、見ず知らずの他人のために戦う人間がいるもんですか……!」
セリアは大きな瞳から涙をボロボロと零しながら、ヴァンの血まみれの身体をそっと抱き起し、自らの衣服を引き裂いて作った布で、必死に首元や胸の致命傷を圧迫し止血を試みた。
「どうして……私の召喚術には、あなたを癒やす力が一つもないの……!」
治癒魔法を持たない異端の召喚師は、万物を平伏させる力を持ちながらも、ただ一人の大切な男の傷一つ塞げない己の無力さを呪い、声を震わせて泣きじゃくった。
「退きな、セリア嬢ちゃん! 俺の特製霊薬を飲ませる!」
広場の端に停められていた鋼殻の移動要塞から、バクスが血相を変えて飛び出してきた。その後ろからバルガンとルミナも続く。
「なんて無茶な真似をしやがる……! 痛覚がねえからって、自分の命まで使い捨てる気か!」
バクスが涙声で叫びながら、懐から最高級の回復薬を取り出し、震える手でヴァンの口元へ流し込む。バルガンはヴァンの周囲を警戒するように巨大な盾を構えて立ち塞がり、ルミナは祈るように両手を組んでその場にへたり込んだ。
その異様な光景を、防衛隊の兵士たちや避難していた市民たちは、ただ呆然と見つめていた。
彼らは、今ようやく真実を知ったのだ。
かつて自分たちが無能な底辺職だと蔑み、冷たい石を投げて都市から追放したこの戦士が、どれほどの苦痛と理不尽をその身一つで背負い込んできたのかを。
召喚獣の圧倒的な火力に溺れ、栄光と金ばかりを求めていた勇者レオンたちは、ダークエルフの罠に落ちた途端、都市と市民を見捨てて無惨に敗北した。
しかし、魔力を持たず、時代遅れだと嘲笑われたこの男は違った。誰に見返りを求めるわけでもなく、誰に称賛されるためでもなく。ただ、理不尽な暴力から弱者を護るためだけに、己の肉体が千切れ、骨が砕けようとも、最前線に立って剣を振るい続けたのだ。
圧倒的な敵を前にしても一歩も退かず、己の命すらも燃料として燃やし尽くすその気高い姿は、彼らが今まで信じてきた「強さ」の概念を根底から覆すものだった。
「……あの方が、無能な荷物持ちなはずがない」
血だらけになりながらヴァンを懸命に介抱するセリアたちを前に、一人の老兵が震える声で呟いた。
「己の命を削ってまで、我々のような愚かな人間を護ってくれた……あの方こそが、本物の、英雄じゃないか……ッ」
老兵がその場に崩れ落ちるように両膝をつき、深く頭を垂れた。
それに続くように、周囲の兵士たちが、そして広場にいたすべての市民たちが、次々と石畳の上に跪き始める。
都市の治療師たちも我に返ったように駆け寄り、セリアたちと共に治癒魔法の詠唱を重ね始めた。誰もが武器を置き、流れる涙を拭おうともせず、ただ血に染まった戦士の無事を祈り続ける。
それは、召喚師という絶対的な権威にすがりついてきたこの国の人間たちが、初めて「真の強さ」と「自己犠牲の尊さ」に対して、心からの敬意と謝罪を示した瞬間であった。
薄れゆく意識の深い底で、ヴァンは温かな光に包まれているのを感じていた。
(……傷を強く押さえる、セリアの震える手か……バクスの霊薬の匂いもする……)
視界は真っ暗で、身体は指一本動かすことができない。だが、自分を泣きながら呼ぶ仲間たちの必死な声と、それを囲む数え切れないほどの人々の祈りの声、そして自身の身体へ注ぎ込まれる都市の治療師たちの柔らかな魔力が、確かにヴァンの感覚に届いていた。
かつて、勇者パーティーで一人焚き火の番をしていた夜。彼は常に孤独だった。
どれほど身を挺して魔物の群れを食い止めても、帰ってくるのはレオンたちの嘲笑と罵倒だけ。それでも、背後にある命を護るために、彼は無感情な肉の盾であり続けることを選んだ。
だが、今は全く違う。
治癒魔法が使えなくとも、手を血に染めて自分の命を繋ぎ止めようとしてくれるセリアがいる。自分の不器用な生き方を肯定し、共に歩んでくれる仲間たちがいる。
(……ああ。俺は、戦士でよかった)
誰かを護るために剣を握る。その愚直で不器用な計算式は、間違っていなかったのだ。
ヴァンの口角が、微かに、本当に微かにだが、安堵の笑みの形に引き上げられた。
「ヴァン……! ヴァン、聞こえる!? 私を置いていったら、絶対に許さないんだから……!」
セリアの悲痛な声が遠くで響く。
(……死ぬつもりは、ない。まだ、お前たちと創る新しい国の景色を、見ていないからな……)
深い疲労と安堵の中へ、ヴァンの意識はゆっくりと沈んでいった。
しかしそれは、決して死へと向かう冷たい暗闇ではなく、確かな温もりと明日への希望に満ちた、穏やかで静かな眠りであった。
城塞都市グリオンの上空からは、分厚い暗雲が完全に消え去り、澄み渡るような青空が広がっている。
雲の切れ間から降り注ぐ眩い陽光が、傷ついた戦士と、彼を囲む仲間たち、そして祈りを捧げる数万の人々を暖かく照らし出していた。
かつて世界から不要とされ、底辺へと突き落とされた男は、理不尽な絶望を打ち砕き、万人の心を震わせる真の英雄へと昇華した。戦士ヴァン・アッシュクロフトの伝説は、この日、この都市から、新たな神話として世界中へと語り継がれていくことになる。




