第100話 崩壊する肉体と二天の雷神
シュヴァルツの端正な顔が、かつてないほどの屈辱と恐怖に歪んでいた。
圧倒的な魔力量、絶対的な影の支配。それらすべてを以てしても、目の前で血の霧を纏いながら迫り来るただの人間の戦士を、どうしても止めることができないのだ。
「認めん……! 貴様のような下等な泥人形に、この私が後れを取るなどと!」
シュヴァルツは自身の胸に深く手を突き入れ、どす黒い心臓の血を代償にして、彼の持つ最大最強の絶望を顕現させた。
「呑み込め、深淵の顎ッ!!」
王の絶叫と共に、広場の空間そのものがひび割れ、数百メートルに及ぶ巨大な影の顎が上下からヴァンを噛み砕こうと迫った。逃げ場など存在しない。空間そのものを圧縮し、内部の存在を魔力ごと完全にすり潰す、王の最後にして最大の禁呪である。
しかし、ヴァンは立ち止まらなかった。
彼の全身からは、限界を超えた紫電が血の霧と混ざり合い、赤紫色の不吉で神々しいオーラとなって噴き出している。
一歩踏み出すごとに、ヴァンの足の骨に微かな亀裂が走り、筋繊維が断末魔の悲鳴を上げて千切れていく。常人ならば、その激痛だけで精神が完全に崩壊し、泡を吹いて即死している状態だ。
だが、ヴァンの瞳には、微塵の揺らぎも、苦痛の色すらも浮かんでいない。
(右腕の筋力出力、低下。……ならば、背筋と左腕の捻りで補う)
痛覚という生命の警報装置を持たない彼は、自らの肉体を「消耗品のパーツ」としか認識していなかった。千切れた筋肉は雷の魔力で強引に縫い合わせ、砕けかけた骨格は武蔵の絶妙な重心移動によって庇う。
その姿は、狂気。ただ誰かを護るためだけに、己の命すらも燃料として燃やし尽くす、本物の鬼神であった。
「斬る」
ヴァンは低く呟き、上下から迫る巨大な影の顎に向かって、神速の踏み込みを見せた。
「無駄だ! その影の質量は、剣撃などで弾き返せるものではない!」
シュヴァルツが勝利を確信して叫ぶ。
しかし、ヴァンが繰り出したのは、単なる力任せの剣撃ではなかった。
右手の巨大な斬馬刀と、左手の分厚い小太刀。二振りの刃が、雷獣の超音速に乗って同時に虚空に円を描く。
二天一流の奥義。剛と柔、長と短の刃が交差し、相対するすべての力を受け流し、そして断ち斬る絶対の太刀筋。
ガガガガガァァァァンッ!!!
上空から押し潰そうと迫った上顎を、右手の斬馬刀が凄まじい雷光と共に斜め上へと受け流す。その圧倒的な質量を正面から受け止めるのではなく、武蔵の技理によって力のベクトルを滑らせ、上空へと逸らしたのだ。
そして同時に、足元から食い破ろうと迫った下顎を、左手の小太刀が一閃する。極限まで圧縮された紫電の刃が、影の魔力の結合の「隙間」を正確に突き、物理的に真っ二つに裂き割った。
王の命を削って放たれた絶対の禁呪が、たった一人の剣士の二刀流によって、いとも容易く、そして美しく解体されていく。
「ガ、アアッ!? 私の、最大の魔術が……!」
驚愕に目を見開くシュヴァルツの視界に、影の破片を突き破り、全身から血飛沫を上げながら迫るヴァンの姿が飛び込んできた。
「隙だらけだぞ、王よ」
瞬きすら許されない、極限のゼロ距離。
ヴァンは右手の斬馬刀を大きく振りかぶり、シュヴァルツの胴体を目掛けて全力の横薙ぎを放った。
「チィッ! 影の結界……!」
シュヴァルツは咄嗟に全ての魔力を防御に回し、漆黒の多重防壁を展開する。
ドゴォォォォォッ!!
斬馬刀の凄まじい一撃が防壁に直撃し、雷光が周囲の石畳を粉砕する。防壁は激しくヒビ割れたものの、なんとか斬馬刀の刃を食い止めていた。
「防いだ! やはり貴様の肉体は限界……」
シュヴァルツが安堵の笑みを浮かべかけた、その瞬間。
斬馬刀が防壁に激突したその反動を完全に利用し、ヴァンは自らの身体を独楽のように高速回転させた。
大太刀の豪快な一撃は、あくまで布石。
二天一流の真骨頂は、絶え間なく続く波状攻撃にある。
回転の遠心力と雷獣の神速、そしてヴァンの全霊の膂力が乗った、左手の小太刀。
紫電を纏った分厚い鉄の刃が、斬馬刀によってヒビ割れた影の防壁の「全く同じ一点」へと、容赦なく突き込まれた。
パキィィィィンッ!!!
ガラスが砕け散るような澄んだ音と共に、王の絶対防壁が完全に粉砕された。
そして、勢いを一切殺さずに振り抜かれた小太刀が、シュヴァルツの漆黒の鎧を深々と引き裂き、その胸部に致命的な深手を負わせた。
「ゴフッ……ア、アアァァッ!?」
シュヴァルツが大量の血を吐き出しながら、石畳の上を無様に転がっていく。
防壁を破られ、肉体を斬り裂かれ、そして何より、己の絶対的な誇りであった「影の魔術」が、剣という野蛮な物理的暴力に完全に屈したという事実。
仰向けに倒れたシュヴァルツの瞳に映ったのは、血と雷を纏い、冷酷な目で自身を見下ろす二刀流の鬼神の姿だった。
「終わりだ、ダークエルフの王。お前の絶望は、俺の剣には届かない」
肉体の限界などとうに超え、死の淵に立ちながらも一歩も退かない戦士の気迫。
その圧倒的な存在感の前に、シュヴァルツの心はついに、取り返しのつかないほどの決定的な恐怖と敗北感に塗り潰されたのである。




