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「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


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第9話: この色を選んだ

 収穫祭の朝は、いつもより早く始まった。


 夜明け前から、広場の方から、何人かが台を組み立てる音が聞こえていた。

 窓を開けると、湿った冷たい空気の中に、新しい木材の匂いと、肉を焼く準備のための薪の煙が、混じっていた。

 秋の終わりの収穫を祝う祭り——ファーデンでは、毎年この時期に、二日間の祭りが開かれるのだと、ハンナが昨日教えてくれた。


 ヤニの噂が広まり始めて以来、私の店の客足は、少しずつ、増えていた。けれど、今日は、客は来ないだろう。

 町中の人が、祭りの準備と、祭りそのものに、心を奪われている日。


 私は、いつも通りに店を開けて、いつも通りに机を整えた。

 手持ち無沙汰になりそうだったので、ハンナの店から借りてきた古い亜麻布で、自分のためのエプロンを縫い始めた。

 屋敷の十年で、私は、自分のためのものを、ほとんど縫わなかった。

 唯一の例外が、十二歳で縫ったあの不格好なハンカチ。

 今日、二枚目の「自分のためのもの」を、私は、縫っている。




 昼前、扉が、軽くノックされてから、ハンナが顔を覗かせた。


 「ティナ、祭り行こうよ。あんた、来てから一度も、町の人たちと、まともに集まったこと、ないでしょ」


 ハンナは、自分のエプロンを脱いで、首から下げる革紐に小さな銀の飾りを通していた。祭りの晴れ着、というほどではないが、彼女なりに身支度を整えた、という様子だった。

 いつも台所と織機の前で見るハンナとは、別の人のように見えた。

 女性は、装いを変えると、こんなに違って見えるのだ——その当たり前のことが、屋敷では、私の中で長らく忘れられていた。

 私自身、装いを変えたことが、十年で、一度もなかったから。


 「私は、店番が……」


 「店番なんて、今日はいいんだよ。誰も来やしないから」


 ハンナは、私の前で腕を組んで、じっと見ていた。


 「あんた、自分のために、何かを楽しんだこと、ある?」


 その問いに、私は、答えられなかった。


 屋敷の十年で、私が「自分のために」何かをしたのは、あの不格好なハンカチを縫った、十二歳の冬の一夜だけ。

 以来、十年——

 私は、自分のために、笑ったことも、踊ったことも、温かい食事の前に手を止めたことも、なかった。


 ハンナは、私の沈黙を、しばらく見つめていた。


 「無理にとは、言わないけどね」


 彼女は、それだけ言うと、もう私の返事を待たずに、扉を閉めた。

 石畳の上を、彼女の足音が、広場の方へ、軽やかに遠ざかっていった。




 午後、町の音は、少しずつ、大きくなっていった。


 広場の方から、楽器の音が聞こえる。三弦の素朴な弦楽器。手拍子。子どもの歓声。誰かが歌い始めて、別の誰かが合わせる。

 町中の窓に、明かりが灯り始めた。

 暗くなってきた、というよりは——

 町の方が、自分から、明るくなっている、という感じだった。


 私は、エプロンを縫いながら、その音を、窓越しに聴いていた。

 不思議だった。

 屋敷では、舞踏会の夜、私はいつも、屋根裏の小部屋で、夜会服を最後の一針まで仕上げる作業をしていた。窓の外から、何百人もの貴族の華やかな笑い声が聞こえてくる中で、私は、絹の声だけを聞いていた。

 今夜は、違う。

 窓の外から聞こえるのは、貴族の笑い声ではなく、町の人たちの、誰のためでもない、自分たちのための歌だった。


 その歌は——絹の声より、ずっと、私の指先に近い場所で、響いた。


 屋敷の屋根裏で、私は、何百回、誰のものでもない歌を聴き逃したのだろう。

 窓を開けて、外の空気を吸う。それすら、十年で、ほとんどしなかったことだった。

 窓を開ければ、夜会服の絹の繊維に、舞踏会の埃や匂いが入る——そう、母君の使いに何度も言われていたから。

 今、私の店の窓は、開いている。

 ファーデンの夜が、店の中に、静かに、流れ込んでいた。




 日が暮れる頃、私は店の扉を閉めようとした。


 その時——

 扉が、外側から、ノックされた。


 ハンナが戻ってきたのかもしれない。そう思って扉を開けた。


 立っていたのは、エミルだった。


 彼は、いつもの革のジャケットの下に、深い緑色のシャツを着ていた。襟元が、いつもよりほんの少しだけ整えてある。

 祭りに合わせた身支度をしているのが、伝わった。

 商人らしい実用一点張りの彼が、襟を整えている——それだけで、私の方も、何かが、わずかに、ほどけた。


 「店、もう閉めるか」


 「はい、ちょうど」


 彼は、頷いて、店の中に入ってきた。

 手には、何か、小さな束を持っていた。


 机の前まで来て、彼は、しばらく、何も言わずに、その束を私の方へ差し出した。


 受け取ろうとして——

 私は、息を、止めた。




 淡い金色の、リボン。


 短い、けれど、上質の絹のリボン。指で触れた瞬間、その絹が、南方産の最高級品だと、分かった。

 布目読みでは、もう、判別すらいらない。一目で、それと分かる、特別な布。


 淡い金色——

 それは、私の瞳の色とほとんど、同じ色だった。

 十年、屋敷の屋根裏の小さな鏡で、何度も見てきた、私自身の瞳の色。

 誰にも気づかれていないと、私が思っていた、その色。


 ふと、屋敷の最後の冬を、思い出した。

 社交界の中で、私の瞳を「金色」と評した人は、誰一人いなかった。

 ヴィクトル様は、私の瞳を、ただ「貴族令嬢らしくない地味な色だ」と言った。

 公爵夫人は、私の顔を、まともに見ようとしたことがなかった。

 私は、自分の瞳の色を、長い間、「地味な色」だと思って生きてきた。


 けれど、エミルは、その地味な色を、リボンとして「選ぶ価値がある」と判じていた。

 誰の言葉が正しいかを、決めるのは、私自身だった。

 今、私の手の中で、淡い金色のリボンが、わずかに、震えていた。


 「これ、お前のために、この色を選んだ」


 エミルは、目を逸らさずに、言った。


 「じゃあ、おやすみ」


 彼は、それだけ言って、扉の方へ向かった。


 扉を閉める前に、彼は、一度だけ振り返った。

 灰青色の瞳が、夕暮れの店の灯りの中で、わずかに、揺れていた。


 彼は、それ以上、何も言わなかった。

 扉が閉まる音。彼の足音が、広場の方へ、ゆっくりと、遠ざかっていった。


 祭りの音の中へ、彼は、消えていった。




 私は、しばらく、リボンを、両手で握ったまま、立ち尽くしていた。


 「お前のために、この色を選んだ」


 その短い一文が、私の中で、ゆっくりと、何度も、繰り返された。


 「お前の縫い目」と言われた時とは、別の場所が、震えた。

 あの時は、私の指先が、肯定された。

 今度は——

 私の、瞳の色が、見られていた。


 屋敷の十年で、私の瞳の色を、誰も見ていなかった。

 いいえ、見てはいたかもしれない。けれど、誰も、それに「色がある」とは、思っていなかった。

 ティナお嬢様の瞳。専属職人の瞳。あの貸与の娘の瞳。

 ただの、誰かの目玉として、私の瞳は、屋敷の十年を、過ごしていた。


 でも、エミルは——

 淡い金色を、見ていた。




 店の扉に鍵をかけて、私は、屋根裏の小部屋に上がった。


 窓の外は、もう、ファーデンの夜だった。広場の方から、楽器の音が、まだ続いている。

 子どもの笑い声、女性の歌声、男性の太い合いの手。

 私は、その音を、窓越しに聴きながら、机の上に、リボンを、そっと置いた。


 屋根裏の小さな鏡——ハンナが「これも貸すよ」と置いていってくれた、古い銀縁の手鏡——の前に、私は、座った。


 鏡の中に、私の顔があった。

 亜麻色の髪。淡い金色の瞳。十年分の疲労が、目元に、わずかに残っている。けれど、ファーデンに来てから半月で、その疲労が、少しずつ、消え始めているのも、自分で分かった。

 頬の色が、屋敷の頃より、わずかに、明るかった。

 たぶん、毎朝の窓辺の光と、ハンナのスープと、エミルの「お前の縫い目」のせいだ。


 私は、リボンを、手に取った。


 短い、淡い金色の、絹。

 髪を、一本の三つ編みに編んで、その先端に、リボンを結ぶ。

 屋敷でやっていた、いつもの結び方。

 指は、いつも通りに動いた。

 けれど、絹の感触が、いつものリボンとは違っていた。指の腹に、絹の繊維が、優しく、密に、馴染んだ。

 今日は——

 いつもとは、違う色の、リボンだった。


 結び終わった後、私は、鏡の中の自分を、しばらく、見つめた。


 「綺麗」


 声に、なって、出ていた。

 誰に向かって、ではない。

 私自身に、向かって。


 屋敷の十年で、私は、鏡の中の自分を、「綺麗」と思ったことが、なかった。

 考えたこともなかった。

 考えることが、許されていなかった。


 でも、今夜——

 淡い金色のリボンを結んだ、亜麻色の三つ編みの先端を、私は、自分で「綺麗」と感じた。


 頬が、わずかに、熱くなった。

 誰も見ていない。屋根裏の小部屋で、私だけが、私の頬の熱さを、知っていた。




 窓の外で、楽器の音が、もう一度、高く響いた。

 誰かが歌う声に、何人かが合わせる声。


 私は、リボンを結んだまま、窓辺に椅子を寄せた。

 外には、出ない。けれど、ここから、町の音を、聴いていたい。


 遠くで、エミルの店の方を、ふと見た。

 窓に、明かりは灯っていなかった。彼は、まだ、広場にいるのだろう。

 町の誰かと、何かを話している、笑っている、踊っている。私には、その姿は、見えない。


 でも——

 彼の選んだ色が、私の髪の先端で、わずかに、揺れている。

 それだけで、今夜、私は、彼と同じ祭りの中に、いる気がした。


 窓の外で、樫の看板が、夜風に、軽く揺れていた。

 革紐の軋みが、いつもより、楽しそうに聞こえた。


 私は、まだ、踊ったことがない。

 歌ったことも、ない。

 でも——

 いつか、ファーデンの祭りで、踊ってみたい。

 そう思っている自分を、私は、初めて、見つけた。


 淡い金色のリボンが、髪の先端で、夜風に、ほんの少しだけ揺れた。

 絹のリボンが、私の意思とは別に、私と一緒に、明日を待っているような気がした。


 明日も、店を開けて、客の修繕を続ける。

 いつもの一日。

 けれど、その一日の中に、淡い金色のリボンが、混じっている。

 たったそれだけで、明日の朝の景色は、昨日までと、ほんのわずかに、違って見えるはずだった。


 遠くの楽器の音が、もう一度、高く、夜空に上がった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第9話、ファーデンの収穫祭の夜、エミルがリボンを置いていきました。「お前のために、この色を選んだ」——彼が、ようやく、自分の感情を、ティナへの「肯定」を、直接の言葉で伝えた瞬間です。これまで彼は、布や行動でだけティナに気持ちを伝えてきました。今回は、声でも、伝えました。


リボンの色を「淡い金色——ティナの瞳の色」にしたのは、書きながら、エミルが、ティナの何を見ていたかを、形にしたかったからです。屋敷の十年で、誰も見なかった彼女の瞳の色を、辺境の布商人が、最初に見つける。その不公平が、この物語の構造的な美しさです。


ティナが「綺麗」と声に出す場面、書いている自分でも、少し涙が滲みました。十年、彼女は、自分のことを「綺麗」だと思ったことがなかった。考えることすら、許されていなかった。屋敷では、彼女の美しさは、社交界の華やかさを引き立てる「黒子」の側にあったから。

今夜、彼女は、初めて、自分の頬の熱さを、自分のものとして抱きました。


「いつか、ファーデンの祭りで、踊ってみたい」——あの末尾の一文、ティナが「未来を、自分のために望む」最初の瞬間です。屋敷の十年、彼女は、未来を、いつも、誰かの納期として捉えていました。明日までに、舞踏会までに、戴冠式までに。

辺境で、彼女は、初めて「自分のための未来」を、密かに、抱き始めています。


第10話、舞台は王都に移ります。王宮の冬の夜会。王妃エレオノーラの夜会服が、間に合わない——ランドルフ家の専属職人が、半年前に消えたままだ、という事実が、社交界の表面に、初めて浮上します。


辺境の小さな仕立て屋の物語、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。

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