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「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


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10/18

第10話: 半年前に辞めた

 冬の夜会まで、あと、二日。


 王宮の衣装室は、いつもの晩よりも、ほんの少しだけ、寒い気がした。

 窓を閉め切っていても、晩秋の空気が、石壁の隙間から、染み込んでくる。

 暖炉の火は、絶やさず焚かれている。けれど、今夜の私——王妃エレオノーラの肩に羽織られた絹の上着は、いつものように、しっくりと馴染まなかった。

 絹が、私の肩の形に、慣れていない。

 何度袖を通しても、布が、私の身体を「迎え入れて」くれない。


 衣装室の中央に、新しいドレスが、置かれていた。

 今夜の冬の夜会で、私が着るために、ランドルフ公爵家から届けられた一着。

 深い臙脂えんじの絹、襟元には金糸の刺繍。一見、いつもの仕立てと変わらない。


 けれど——

 私は、布に手をかけた瞬間、わずかに、眉をひそめた。




 布の声が、違う。


 私は、貴族の中でも、布を語れる方の一人だと、自分で思っている。

 幼い頃から母——先王妃ヴィオレッタが、私に布の見方を教えてくれた。経糸の張り、緯糸の噛み合わせ、染料の色の沈み方。母は、自分のドレスの裏地を裏返して、子どもの私に「ここを見て」と何度も指をさした。


 その母が、晩年に何度も、こう言った。

 「エレオノーラ。本物の仕立て師は、布に話しかける。私のドレスを縫っているあの子は、たぶん、布と話している」


 母は、自分の生誕祝賀会のドレスを、いつもランドルフ公爵家から取り寄せていた。

 「あの家のドレスは、糸が、私の歩幅に合わせて伸びてくれる」と母は笑った。

 「他の家のドレスは、私の方が、布に合わせて歩かなければならないの。あの子の縫う布だけが、こちらに合わせてくれる」


 あの子。

 母は、彼女の名前を、最後まで知らなかった。

 ランドルフ公爵家の「専属職人」としか、教えられていなかったから。

 訊ねても、ランドルフ家は「お家の専属でございます」としか答えなかった。

 貴族の慣例で、職人個人の名は、明かさないのが通例。母も、それを承知の上で、知らないままにしていた。


 私が王太子妃になり、王妃になり、母の遺品のドレスを継いだ後——

 あの「あの子」が縫ったドレスを、私は、十数着、自分の衣装室に持っている。

 全部、十年以上前のもの。けれど、糸の張りは、今も衰えていない。

 母の戴冠記念日のドレス。私自身の婚約発表のドレス。第一王女ソフィアの誕生祝いの幼児用ドレス。

 どれも、布に話しかけるようにして縫われた、温度のあるドレスだった。




 今、目の前にあるドレスは——

 そのドレスたちと、まったく違う声を、出していた。


 糸の張りは、悪くない。素材も、上等。仕上げの技術も、合格点。

 でも——

 布が、笑っていない。

 布が、歌っていない。

 ただ、形を、保っているだけ。


 布の表面を、私は、もう一度、撫でた。

 手のひらの下で、布は、何の感情も返してこない。職人の指先の温度が、繊維に染み込んでいない。

 まるで、誰かが、急いで、義務として、縫った布。

 悪くはない。けれど、いつもの「あの子」のドレスとは、根本的に、違う。


 私は、しばらく、ドレスの裏地に、指先を当てていた。

 裏地の縫い目は、確かに整っている。けれど、整いすぎている。職人が「失敗しないため」に縫った縫い目だ。

 以前のあの「あの子」のドレスは、整いながら、同時に、どこか、自由だった。布の繊維の流れに合わせて、縫い目が、わずかに「揺れて」いた。

 今夜のドレスには、その揺れが、ない。


 「ローザ」


 私は、隣で控えていた侍女頭の名を、呼んだ。


 「はい、陛下」


 ローザが、すぐに進み出てきた。三十年以上、王宮に仕えてきた、白髪混じりの侍女頭。

 彼女もまた、布を語れる女性だった。




 「このドレス、誰が、仕立てたの?」


 私は、できるだけ、淡々と聞いた。


 ローザは、注文書を確認した。

 「ランドルフ公爵家からの届け物です。例年通りに、夫人を通じて、ご注文をお願いしておりました」


 「専属職人の名前は」


 「……記載が、ございません」


 ローザは、一瞬、口ごもった。

 ランドルフ家の届け物には、いつも、職人の名前が記されない。「家の名」だけが、書かれている。それが、十年以上前から続いてきた習慣だった。


 「ローザ」


 「はい」


 「ランドルフ公爵家に、問い合わせてくれるかしら。専属職人について。できれば、今夜中に」




 夜半過ぎ、ローザが、衣装室に戻ってきた。

 彼女の表情は、いつもより、わずかに、硬かった。

 ランドルフ家への問い合わせに、思った以上の時間がかかったのだろう。先方の応対が、混乱していたか、何かを隠していたか——どちらかだった。


 「陛下、ランドルフ公爵家から、返答がございました」


 「聞かせて」


 「……専属職人は、半年前に、辞めたと」


 半年前。


 その三文字が、私の中で、ゆっくりと、響いた。


 「辞めた、というのは」


 「家を出て、行方は不明、と」


 「次の職人は」


 「『現在、選定中』との回答です」


 私は、しばらく、何も言わなかった。

 ローザも、それ以上は、付け加えなかった。


 半年前に辞めて、次の職人が「選定中」の状態が、半年続いている。

 その間も、社交界には、ランドルフ公爵家の名で、ドレスが、納品され続けていた。

 誰が縫ったのか——分からないままで。


 私の心臓が、わずかに、速くなった。




 「侍従長を、呼んでもらえる?」


 ローザは、頷いて、衣装室を出ていった。


 しばらくして、侍従長カミーロが、衣装室に入ってきた。

 白い髭の老紳士。王宮の事務を、四十年、支えてきた人。

 彼は、こんな夜半過ぎに王妃に呼ばれることに、驚きの色を、表情には出さなかった。それが、四十年の重みだった。


 「陛下、お呼びでございますか」


 「カミーロ。ランドルフ公爵家の『専属職人』について、過去十年の記録を、調べてほしいの」


 カミーロは、私の顔を、しばらく、見つめた。

 彼の表情から、私が「何かに気づいた」ことを察した、と分かった。


 「……陛下。差し出がましいことを、申し上げて、よろしいでしょうか」


 「どうぞ」


 「ランドルフ公爵家の『専属職人』につきましては、王宮内でも、長らく、その正体が、はっきりとは知られておりませんでした」


 「正体」


 「夫人の身内、あるいは、貸与の貴族令嬢、という噂が、ございました」


 貸与の、貴族令嬢。


 その言葉が、私の中で、もう一つ、何かを動かした。


 ランドルフ家には、ある契約があった。

 借金の返済の代わりに、別の貴族家から、娘を「貸与」する契約。

 十二、三年前、ファブリツィア伯爵家から、娘が「貸与」されたという話を、私は、何かの夜会で、聞いた覚えがあった。


 名前は——たしか、ティナ。


 その時の私は、王太子妃になりたての二十三歳だった。

 夜会で、別の貴族夫人が、扇の陰で囁いた。

 「ファブリツィア家のお嬢様、十二歳でランドルフ家にお貸し出しになったそうよ。三年で帰る予定だったらしいけど、ランドルフ家がお気に召して、延長しているとか」

 囁き声の中に、わずかに、嘲りの色が混じっていた。

 貴族令嬢を「貸し出す」家への嘲り。そして、貸し出される側になった伯爵家への、別種の嘲り。


 私は、その夜、母にその噂を話した。母は、しばらく黙ってから、こう言った。

 「貴族令嬢を貸与する慣例は、王国の恥よ。けれど、私たちには、それを止める権限がない」

 あの時の母の声が、今、夜半過ぎの衣装室で、私の中で、もう一度、聞こえた気がした。




 私は、衣装室の中央に立ったまま、しばらく、何も言わなかった。


 今夜、目の前にある、新しいドレス。

 布が、笑っていない。布が、歌っていない。


 その理由が、ようやく、私の中で、繋がった。


 「あの子」が、ランドルフ家を出た。

 ファブリツィアのティナが、半年前に、姿を消した。

 そして、今、社交界には、彼女ではない誰かが、彼女の名で、ドレスを納め続けている。


 ……これは、誰かの嘘だ。

 長く、長く、続いてきた嘘の、半年遅れの、綻び。


 「カミーロ」


 「はい、陛下」


 「過去十年の、ランドルフ公爵家からの納品記録を、すべて。それから——」


 私は、一度、息を、整えた。


 「私と、母——亡き先王妃の、過去のドレスの中から、ランドルフ家経由で届けられたものを、全て、衣装室に運んでほしい」


 カミーロは、深く、頷いた。

 「畏まりました。明日の朝までに」


 「もう一つ。マリエッタという侍女頭が、ランドルフ家にいるはず。彼女に、内密に、王宮に来てほしい、と伝えて」


 「マリエッタ……かしこまりました」


 カミーロは、礼をして、衣装室を出ていった。




 私は、衣装室の中央に、一人で残っていた。


 窓の外で、王宮の鐘が、夜半過ぎを告げていた。

 冷たい空気が、石壁から、染み込んでくる。

 暖炉の薪が、一度、ぱちりと、小さく音を立てた。


 私は、もう一度、目の前のドレスに、手を置いた。


 「あなたを縫った人は、悪くないわ」


 声に、出していた。誰に向かって、ではない。今夜のドレスに、向かって。


 「ただ、あなたは、別の人の手で、縫われるはずだったの。それだけ」


 ドレスは、何も、答えなかった。

 けれど、私の手のひらの下で、布が、ほんの少しだけ、ほっとした気がした。


 布は、自分が「誰の手で縫われたか」を、知っている。

 たとえ、他の誰も気づかなくても、布だけは、覚えている。

 母が、晩年、もう一つ私に教えてくれた言葉だった。


 明日から、私は、動く。

 亡き母の言葉——「私のドレスを縫っているあの子は、布と話している」——を、私は、十年以上、覚えていた。

 その「あの子」を、ようやく、王宮の側から、探す日が来たのだ。


 遅すぎたかもしれない。

 でも、見つけてあげたかった。

 母の遺言を、果たすために。


 ……いえ。

 それだけではない。


 社交界の華やぎを十年支え続けた女に、せめて、彼女自身の名で、針を持てる場所を、用意したかった。

 ファブリツィアのティナ。

 名前すら、知られないまま、十年。

 その十年に、王妃として、私が、何を返せるか——

 まだ、分からない。けれど、まず、彼女がどこにいるかを、知らなければならない。


 窓の外で、冬の夜が、深く、静まり返っていた。

 遠くで、王宮の門の衛兵が、交代の合図を、一度、鳴らした。

 夜明けまで、まだ、時間がある。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第10話、ついに視点が王都に移りました。これまでティナの一人称で進んできた物語に、初めて「もう一人の私——王妃エレオノーラ」の声が入ります。一人称小説で視点を切り替えるのは、書き手としても少し緊張する作業でした。


エレオノーラを「布を語れる王妃」として設定したのは、彼女が、ティナの十年を「気づける」唯一の人物だからです。母——先王妃ヴィオレッタが、晩年に「私のドレスを縫っているあの子は、布と話している」と言った、というのは、書きながら作った設定ですが、設定の方が、自分から物語に入ってきた感覚がありました。

布を読める母から、布を読める娘へ。その血筋が、半年遅れで、ティナを見つけ始める。


エレオノーラの「あなたを縫った人は、悪くないわ。ただ、あなたは、別の人の手で、縫われるはずだったの」——あの台詞、書きながら、エレオノーラが、王妃でありながら、職人個人を「人として」見ている人だと、改めて感じました。彼女は、布越しに、人を見られる人です。


新登場の侍女頭ローザと侍従長カミーロは、王宮の側で、王妃を支える二人です。後続話でも何度か登場します。

そして、王妃が「マリエッタを内密に呼んで」と命じたところで、第1話のプロローグの場面が、ようやく動き始めます。マリエッタが王宮に呼ばれる、その経緯が、ここで生まれました。


第11話は、再びファーデンに戻ります。今度は、カミラ視点章。三十年職人をやってきた彼女が、ティナの実力を目の当たりにして、自分の何かが揺らぎ始める——その過程を、彼女自身の視点で描きます。


辺境の小さな仕立て屋の物語、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。

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