第11話: あんた、本物だ
あの日、私——カミラ・ロッソが「この街には、あんたの店は、要らない」と言い捨ててから、ちょうど一週間が経っていた。
その間、私は、自分の店に籠もっていた。
町の人たちには「冬の注文の準備」と言ってあった。実際、私は、町の老人や母親たちから預かった綿の肌着を、毎日、淡々と縫い続けていた。
手は、いつも通りに動いていた。
けれど、頭の中は、別のことで、いっぱいだった。
あの店——「ファブリツィア仕立て店」の、新しい看板のことが。
樫の板に、彼女が自分の手で彫ったという、あの素朴な文字。
私の店の看板は、二十年前に、町の大工に頼んで作ってもらったものだ。彫りも仕上げも、職人の手による綺麗なものだった。
けれど、彼女の看板の方が、なぜか、私の目には、強く焼き付いた。
籠もっている、と言いながら、私は、毎日、外に出ていた。
市場の買い出しの帰り、わざと遠回りをして、彼女の店の前を通った。
店の窓には、薄い埃の代わりに、磨かれた光があった。木の作業机が、ガラス越しに見える。
時々、彼女が、客と話している姿が、見えた。
時々、客が、修繕の終わった服を抱えて、満足そうに店を出ていく姿が、見えた。
町の人たちが、私の店ではなく、彼女の店に入っていく。
その事実を、私は、毎日、自分の目で確かめていた。
最初は、悔しかった。
次は、不思議だった。
最後は——
知りたかった。
彼女が、何を、どう縫っているのか。
ある日の昼下がり、私は、市場の陰から、彼女が外套を縫う姿を、長く、見ていた。
針の動きが、私の三十年とは、別の語彙を使っていた。
彼女は、布の繊維の流れに合わせて、針を入れる位置を、毎針、わずかにずらしていた。
私は、糸の張りを優先して、決まった位置に針を入れていた。
どちらが正解、というわけではない。けれど、彼女の縫い方は、布が「呼吸する」隙間を、縫い目の間に残していた。
私の縫い方では、布は、形を保つ代わりに、息ができなくなる。
……そういう種類の差だった。
三十年。
私が、針を握って、辺境のこの街で仕事を続けてきた、三十年。
最初の十年は、王都での修業の延長で、自分にも自信があった。
次の十年は、街に馴染み、住民の体型と服装の好みを覚え、頼られる職人として働いた。
最後の十年は——
惰性、と言われても、仕方がなかった。
私の手は、止まらなかった。けれど、私の手は、もう、新しい縫い目を、覚えていなかった。
毎日、同じ補修。同じ仕立て。同じ材料の組み合わせ。
布の声を聴く、なんて贅沢な感覚も、いつの間にか、私の指先から、消えていた。
布は、ただ、注文書通りに、形を作るための材料だった。
それでも、町の住民は、私を頼ってくれた。私の手は、彼らの暮らしを、確かに支えていた。
でも——
ファブリツィア仕立て店に、町の人たちが流れ始めた時。
私は、初めて、自分の三十年に、わずかな疑いを持った。
もしかしたら、私は、三十年ずっと、自分の指先を、磨くことを、忘れていたのではないか。
ある朝、私は、ファブリツィア仕立て店の前で、足を止めた。
窓の向こうで、彼女が、修繕の終わったシャツを、客に渡しているところだった。
町の中年の男——確か、街道沿いの宿屋の主人——が、シャツの肩を、しばらく、撫でていた。
それから、何かを、彼女に、ぽつりと言った。
彼女は、わずかに、頷いた。
男が店を出る時、彼の顔は、店に入った時とは、別の顔をしていた。
悪くない仕立てを受け取った、という顔ではなかった。
もっと——
誰かに、自分の労働を「見つけてもらった」、という顔だった。
修繕されたシャツは、彼が、毎日、宿屋で、客の食事を運ぶ時に着ているものだろう。
肩のあたりは、長年の擦れで、薄くなっていたはずだ。
彼女は、その肩を、補強したのだろう。
そして、男は、その「肩を補強された自分」を、彼女の手のひらの中で、もう一度、確認したのだろう。
私の店には、もう、何年も、そういう客の顔が、なかった。
町の人たちは、私の店で、修繕や仕立てを「済ませて」帰っていった。
「ありがとう、カミラさん」と言って、銅貨を払って、扉を出ていった。
私は、その日の売上を数えて、店じまいをして、夕食を食べて、寝た。
いつも通り。
いつも通り——
いつも通り、というのは、何かが、確実に、止まっているという意味だった。
ファブリツィア仕立て店の、あの男——宿屋の主人の顔を、私は、しばらく、忘れられなかった。
その日の午後、私は、自分の店の作業机の前で、長い間、針を持たずに座っていた。
目の前に、私が三十年前に縫った、自分のエプロンがある。
継ぎ当てを、何枚も縫い込んだ、私の三十年そのもの。
北の花柄。深い紺。茶色の格子。
一枚一枚、私が縫った街の人たちの服の、最後の端切れを、刻んだもの。
花柄は、街道沿いの宿屋の女将の婚礼衣装の余り。
深い紺は、町の墓守の弔い服。
茶色の格子は、最初に弟子入りを断った若者の夏服。
全部、思い出せる。誰の、何の服のために、私が、いつ、針を入れたか。
だから、このエプロンは、私の三十年の住所録のようなものだった。
私は、エプロンに、指を当てた。
布の声は——
聞こえなかった。
いや。
聞こえなかった、というのは、正しくない。
私が、聞こうとしていなかったのだ。
布が、私に何を言っているか、もう何年も、聞き取ろうとしていなかった。
彼女——ティナ・ファブリツィアは、たぶん、いつも、聞いている。
布が、何を言っているか。
だから、彼女の手で修繕された服を着る人の顔が、変わるのだ。
その晩、私は、決めた。
翌朝、私は、いつもより早く、店を出た。
エプロンは、しっかりと身につけた。継ぎ当てだらけの、私の三十年。
歩きながら、私は、何度か、自分の足が、止まりそうになるのを、感じた。
六十近い女が、二十二歳の娘に、頭を下げに行く。
それを、街の誰かに見られたら——
いや、それは、もう、どうでもよかった。
誰に見られても、いい。
ただ、私が、自分の三十年を、もう一度、生かす方法を、見つけたかった。
ファブリツィア仕立て店の扉の前で、私は、深く、息を吸った。
そして、扉を、ノックした。
今度は——
彼女ではなく、私の方から。
扉が開いて、彼女が、私を見た。
一週間前と、同じ顔。
一週間前と、同じ淡い金色の瞳。
一週間前と、同じ寡黙な表情。
でも、一週間前と、違ったのは——
彼女の店の中の空気が、ほんの少し、温度を持っていたことだった。
布の匂い、暖炉の薪の匂い、そして、彼女自身の、亜麻と糸の混じった匂い。
一週間前、私は、扉の外から店の中の空気を測ろうともしなかった。
今朝は、扉が開いた瞬間、私の鼻が、その空気を、勝手に、深く吸い込んでいた。
「カミラさん」
彼女は、私の名前を、覚えていた。
驚いたのは、私の方だった。
「……入っても、いいかい」
声が、わずかに、震えた。
彼女は、頷いた。
私は、扉をくぐって、店の中に入った。
作業机の上には、午前中の修繕途中の麻のシャツが、置かれていた。
糸切りの位置、針箱の中の針の並べ方、糸の見本帳の整理の仕方——
全部、無駄が、なかった。
三十年やってきた職人にしか、分からない種類の、無駄のなさ。
そして、私の店には、もう、無くなってしまっていた、その無駄のなさ。
私は、彼女の作業机の前で、しばらく、立っていた。
言葉が、出てこなかった。
準備してきたはずの言葉が、店の中の空気の温度に、溶かされてしまった。
彼女は、何も、言わなかった。
ただ、私の方を、静かに見ていた。
急かさず、責めず、ただ、待っていた。
私は、ようやく、口を開いた。
「あんた」
声が、乾いていた。
「あんた、本物だ」
彼女の目が、わずかに、揺れた。けれど、表情は、変わらなかった。
「私の三十年と、あんたの十年と。比べたら、あんたの方が、深い」
彼女は、まだ、何も言わなかった。
「……だから」
私は、エプロンの前で、両手を、組んだ。
六十近い女が、二十二歳の娘の前で、もう一度、息を吸った。
「私を、あんたの、弟子にしてくれ」
店の中の空気が、ほんの数秒、止まった。
外で、市場の朝の音が、遠く聞こえる。荷馬車の音、子どもの声、肉を焼く煙の匂い。
いつも通りの、ファーデンの朝。
彼女は——
ティナ・ファブリツィアは、しばらく、私を、見つめていた。
驚いていた、と思う。
けれど、その驚きを、表に出さない女だった。十年、屋敷で、表情を消すことを覚えてきた女。
彼女は、ゆっくりと、口を開いた。
「……すぐには、答えられません」
短い、丁寧な言葉。
「ただ」
彼女は、続けた。
「カミラさんが、自分の三十年を、誰かと比べる必要は、ないと、思います」
その言葉が——
私の中で、ゆっくりと、響いた。
私は、頷くことが、できなかった。
頷いてしまえば、何かが、終わる気がしたから。
頷かなければ、何かが、始まらない気がしたから。
「……明日、また、来てもいいかい」
ようやく、私は、それだけ言った。
彼女は、頷いた。
「はい。お待ちしています」
お待ちしています、の八文字を、誰かに言ってもらった記憶が、私には、もう、何年もなかった。
その八文字が、店を出る私の背中で、ほんの少しだけ、温度を持っていた。
私は、店を、出た。
扉が閉まる音。私の足音が、自分の店の方へ、ゆっくりと、戻っていく。
風が、私のエプロンの裾を、軽く、揺らした。
継ぎ当ての花柄が、朝の光の中で、わずかに、色を帯びた気がした。
三十年——
私の三十年は、まだ、終わっていなかった。
ただ、もう一度、針を握り直す機会が、私の前に、たぶん、与えられたのだ。
自分の店の扉に、手をかけた時、私は、一つだけ、決めた。
今夜から、布の声を、もう一度、聴くことにしよう。
あの娘の店で、明日、何が始まるか分からない。けれど、それまでに、私の指先を、もう少しだけ、磨いておきたかった。
それが、私から、あの娘に渡せる、最後の三十年の形だった。
扉を開けると、私の店の中は、いつも通りの匂いがした。
今夜から、その匂いの中に、もう一つ、別の温度が、混じるかもしれない。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第11話、視点を再びファーデンに戻し、今度はカミラ・ロッソの視点で描きました。第6話で「この街にはあんたの店は要らない」と言ったあの女が、一週間でここまで変わるのを、私自身、書きながら、ティナの十年の重みを、改めて感じました。
カミラを「典型的な悪役からの転向」にしなかったのは、彼女が、そもそも悪役ではなかったからです。彼女は、三十年、この街を一人で支えてきた職人。誇りも、警戒も、正当な感情でした。
彼女が変わったのは、ティナに「敗北」したからではありません。彼女が、自分の三十年を「もう一度、生かしたい」と望んだから、です。
「私の三十年と、あんたの十年と。比べたら、あんたの方が、深い」——あの台詞、書きながら、カミラの中の三十年の重さを、こちらが受け止めきれない感覚がありました。三十年と十年の比較。年数では三倍の差があるのに、「深さ」では十年の方が勝つ。そういう瞬間が、職人の世界には、確かに、ある。
ティナの「カミラさんが、自分の三十年を、誰かと比べる必要は、ないと、思います」——あれは、ティナが、屋敷の十年で身につけた「相手の領分に踏み込まない」優しさです。彼女自身が、ずっと「比較される側」だったから、比較することの空しさを、誰よりも知っている。
「お待ちしています」の八文字。あの寡黙な娘が、初めて、誰かに「待つ」と告げた瞬間です。誰かを待つ、というのは、その人の存在を「許可する」ということ。カミラは、その八文字の温度を、たぶん、ティナ自身よりも、深く感じ取りました。
第12話、隣町の市長夫人から、初めての本格的な仕立て依頼が入ります。ティナと、弟子入り志願したばかりのカミラが、共同で、一着の祭礼用ローブを縫います。
辺境の小さな仕立て屋の物語、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。
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