第12話: 共同で仕立てる
翌朝、私の店の扉が、ノックされた。
「カミラさん」
扉の前に立っていたのは、昨日と同じく、エプロンをきっちりと身につけたカミラ・ロッソだった。
ただ、昨日の彼女と少しだけ違うのは——
肩の力が、ほんのわずかに、抜けていたこと。
「入って、いいかい」
私は、頷いた。
彼女は、店の中に入って、作業机の前に立った。私が今朝から取りかかっていた、麻のシャツの袖の補修を、しばらく見ていた。
彼女は、何も、言わなかった。
私も、何も、言わなかった。
昨夜から、私は、ずっと考えていた。
彼女の「弟子にしてくれ」に、どう答えるべきか。
弟子、という言葉が、私の中で、しっくりと、来ていなかった。
私は、誰かに「教えられる」ほど、自分の縫い方を、整理できていない。屋敷の十年で、私は、誰にも教わらず、誰にも教えず、ただ、布と二人だけで、縫い続けてきた。
その縫い方を、言葉にして、伝える。それが、私には、できる気がしなかった。
でも——
彼女に「答えられない」と返すのも、違う気がした。
昨日の彼女が、深く頭を下げてくれた、その重みを、私は、預かっている。
私が口を開きかけた、その時。
扉が、もう一度、ノックされた。
今度は、慌てた響き。
カミラと、私が、同時に振り返った。
「失礼。ファブリツィア仕立て店、と聞いて」
扉の向こうに立っていたのは、見覚えのない男だった。
四十代後半、中肉中背、上等な布で仕立てられた紺色の旅装。胸ポケットに、ピアラ市の紋章が、銀の小さな飾りで留められていた。
「私は、ピアラ市の使者、ガスパールと申します。市長夫人より、急ぎの仕立て依頼を、お持ちしました」
ピアラ。
南方港町ピアラ——絹と染料の輸入港。エミルが、特別な布を仕入れに、何度か行く街だった。
その街の、市長夫人。
「あの——ファブリツィア仕立て店の評判を、市長夫人が、街道筋の旅商人ヤニ氏から、お聞きしたとのことです」
ヤニ。
半月前、彼が「市場で噂を、しておいてやる」と言った、その言葉が、こんな形で、戻ってきていた。
「祭礼用のローブ、十二日後の冬至祭で、夫人がお召しになるものです。一着、お願いできませんか」
十二日。
私は、しばらく、何も言わなかった。
祭礼用のローブを、一着、新規で仕立てる。十二日。
屋敷の十年なら、一人で、ぎりぎり、間に合わせていた仕事量だった。
けれど、今の私の店では——
私の視線が、無意識に、隣のカミラに、向いた。
彼女は、私の視線を、しばらく、受け止めていた。
それから、彼女の方が、わずかに、頷いた。
「お引き受けします」
私は、ガスパール氏に答えた。
「ただし、私一人では、十二日では、難しいかもしれません」
ガスパール氏が、わずかに、眉をひそめた。
「ですから——」
私は、息を、整えた。
「カミラ・ロッソさんと、共同で、お仕立てします」
カミラの目が、わずかに、見開かれた。
ガスパール氏は、私の隣のカミラを、ちらりと見た。「カミラ・ロッソ」の名前を、彼は、知っていたようだった。
「カミラ氏。ファーデンの古参職人ですね。共同で、というのは——」
「弟子としてではなく」と、私は、はっきりと、言った。
「対等の職人として。私の十年と、カミラさんの三十年が、対等に、一着のローブを、仕立てます」
ガスパール氏は、しばらく、私とカミラを、交互に、見ていた。
それから、頷いた。
「畏まりました。料金は、銀貨十枚で、ご相談したいのですが」
「ありがとうございます」
契約は、その場で、まとまった。
ガスパール氏は、夫人の体型と好みの色味を伝え、金糸の刺繍の見本を置いて、店を出ていった。
扉が閉まった後、店の中には、私とカミラだけが、残っていた。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
「あんた」
最初に口を開いたのは、カミラだった。
「弟子に、しないのかい」
「弟子では、私は、何も教えられません」
私は、正直に、答えた。
「私は、屋敷の十年で、誰にも教わらず、誰にも教えず、布と二人だけで、縫ってきました。教える言葉を、私は、まだ、持っていません」
「でも、共同で、と」
「対等で、なら、できます」
私は、続けた。
「カミラさんのエプロンの継ぎ当てを、私は、屋敷では、誰からも見せてもらえなかった」
それは、私の説明できる、ぎりぎりの言葉だった。
年数の差を、深さに置き換える話ではない。継ぎ当てを縫った人と、縫ったもののない人の、種類の違い。
カミラには、それが、たぶん、伝わった。
カミラは、自分のエプロンの裾を、無意識に、撫でた。
「私には、それは、ない。だから、対等じゃ、ないかもしれません」
私は、首を、振った。
「対等です。私の十年と、カミラさんの三十年は、別の種類の重みを、持っているだけです。重さの種類が違うものは、比べられません。だから——共同で、いいんです」
カミラは、しばらく、私を、見つめていた。
彼女の目に、わずかに、何かが、揺らいでいた。
悔しさでも、喜びでもない、別の何か。
たぶん——「ようやく、針を握る理由を、もう一度、見つけた」、という顔だった。
「分かった」
彼女は、頷いた。
「対等で、やろう。共同で。十二日後の冬至祭まで」
次の十二日間は、私の店の作業机に、二人分の道具が、並んだ。
カミラは、毎朝、自分の店の朝の客を片付けてから、私の店に来た。
午後から、私たちは、一緒に作業した。
彼女は、自分の道具——使い込まれた銀の指ぬき、何十年も研ぎ続けた裁ち鋏、太めの絹糸の見本——を、私の机の片側に、丁寧に並べた。
私の机の上に、彼女の三十年が、置かれている。
それを見ているだけで、私の指先が、いつもより、わずかに、緊張した。
最初の数日は、ぎこちなかった。
彼女が刃物を入れる位置と、私が刃物を入れる位置が、わずかに違う。糸の太さの選び方も、布の伸ばし方も、少しずつ、違う。
お互いの手の動きを、私たちは、毎日、見ていた。
時々、私が「カミラさんの、その縫い目の方が、強そうですね」と言うと、彼女は「そうか」と短く返した。
時々、彼女が「あんたの、その布の伸ばし方は、私には、できないね」と呟くと、私は「お互いさまです」と返した。
四日目。
私たちの手の動きが、わずかに、揃い始めた。
布を、二人で抑える時の、力の入れ方が、なじんできた。
糸を、二人で引き締める時の、呼吸が、合ってきた。
六日目。
カミラが、ふと、笑った。
「あんた、布に話しかけるね」
私は、頷いた。
「カミラさんも、思い出してきましたか」
彼女は、わずかに、頷いた。
「……三十年、忘れていた癖が、戻ってきた気がする」
八日目の夜、私たちは、店の奥で、肩を並べてローブの胴部を縫っていた。
暖炉の火が、わずかに、揺れていた。
カミラが、ふと、ぽつりと言った。
「あんたの十年は、ずっと、一人でやってきたんだろう」
私は、頷いた。
彼女は、それ以上は、何も聞かなかった。
ただ、隣で、糸を引き締める指先の動きが、いつもより、少しだけ、優しかった。
九日目。
ローブの大半は、完成していた。
残りは、襟元の金糸の刺繍と、裾の最後の整え。
「裏地に、署名は、入れるかい」
カミラが、ふと、聞いた。
私は、針を、止めた。
屋敷の十年で、私は、四百三十二着のドレスの裏地に「T.F.」を縫い続けてきた。
でも、ファーデンに来てから、私は、まだ、裏地に署名を、入れていなかった。
誰かに見つからないように、息を潜めて残す必要が、もう、ないからだ。
「入れます」
私は、答えた。
「でも、今度は、二つです」
「二つ?」
「私の『T.F.』と、カミラさんの『C.R.』」
カミラの目が、わずかに、揺らいだ。
「対等で、仕立てたんですから。署名も、対等で」
彼女は、しばらく、何も言わなかった。
それから、ゆっくりと、頷いた。
「……あんた、本当に、変な娘だ」
声が、わずかに、震えていた。
その夜、私たちは、ローブの裏地の、誰にも見えない場所に、二つの署名を、二重縫いで、隣り合わせに、縫い込んだ。
T.F. と、C.R.
私の十年と、カミラさんの三十年が、糸の中で、初めて、肩を並べた。
十二日目の朝、ガスパール氏が、ローブを取りに来た。
彼は、ローブを広げて、しばらく、見ていた。
襟元の金糸の刺繍。裾の朝霧の絹のレース。仕立ての精度。
全部、完璧だった。
二人分の手で仕立てた、けれど、一人で仕立てたかのように、整っていた。
「素晴らしい」
ガスパール氏は、それだけ、言った。
「冬至祭で、夫人がお召しになります。きっと、ピアラの夜会で、話題になるでしょう」
彼は、銀貨十枚を机に置き、ローブを、丁寧に布で包んで、店を出ていった。
扉が閉まった後、私たちは、しばらく、無言だった。
「あんた」
カミラが、ぽつりと言った。
「私の三十年は、たぶん、まだ、終わっていない」
「はい」
「あんたの十年と、肩を並べる十二日が、できた」
「はい」
短い返事しか、私には、できなかった。
でも、その「はい」を、カミラは、ちゃんと、聞き取ってくれた、と思う。
これから、もう少し、針を握れる気がする——その先のことは、彼女の中で、たぶん、声に出さないままで、十分だった。
十二日後の冬至祭が終わった頃から、ファーデンの市場で、私の名と、カミラの名が、対で語られ始めた。
ピアラの夜会で、市長夫人のローブが、評判になったらしい。
「ファーデンには、二人の本物の仕立て師がいる」と。
エミルの店にも、変化があった。
南方の絹と染料の問い合わせが、急に、増えた。
ピアラ経由で、ファーデンの新しい仕立て師の評判を聞いた、別の街道筋の商人たちが、エミルに「あの、上等の絹、もう少し融通できないか」と訪ねてくるのだった。
ある夜、エミルが店に顔を出した。
「お前のおかげで、うちの店も、忙しくなってきた」
彼の口調は、いつも通りのぶっきらぼう。けれど、目だけが、わずかに、笑っていた。
「迷惑、ですか」
「逆だ」
彼は、それだけ言って、扉を閉めた。
窓の外で、樫の看板が、夜風に、軽く揺れていた。
革紐の軋みが、いつもより、少しだけ、誇らしげに聞こえた。
ファーデンの私の店に、少しずつ、何かが、根を下ろし始めていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第12話、ティナとカミラが、初めて「共同で」一着を仕立てました。「弟子ではなく、対等で」というティナの選択は、彼女が屋敷の十年で「比べられる側」だった経験から、生まれた優しさです。年数の違いを「深さの違い」と混同しない。重さの種類が違うものは、比べられない。
「裏地に二つの署名」——T.F.とC.R.を二重縫いで隣り合わせに縫い込む場面、書きながら、自分自身が、少し嬉しくなりました。屋敷の十年、ティナは「T.F.」を一人で縫い続けてきた。今、彼女の隣に、もう一つの署名が、並んでいる。誰にも見えない場所に。
裏地の二重縫いは、本来、孤独な技法です。けれど、ティナは、その孤独な技法を、もう一人と、共有する方法を、見つけました。
カミラの「あんた、本当に、変な娘だ」——あの台詞、書きながら、彼女が、ティナを「弟子の師匠」ではなく「対等の同志」として認めた瞬間だと、感じました。三十年職人が、二十二歳の娘を「変な娘」と呼ぶ。その「変」の中には、敬意と、戸惑いと、温かさが、全部、含まれていたと思います。
エミルの店にも、波が、来始めました。ティナがファーデンに来てから、町の経済が、少しずつ、動き始めています。けれど、その動きは、まだ、辺境の中だけのもの。
王都から、もう一つの大きな波が、ティナに向かって、近づいてきていることに——
ティナは、まだ、気づいていません。
第13話、隣町の市長夫人のローブの評判が、思わぬ場所まで届きます。ピアラの夜会に出席していた、ある貴族の女性が、その評判をきっかけに、辺境ファーデンへ、別の用事で立ち寄ることになります。
辺境の小さな仕立て屋の物語、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。
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