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「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


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13/19

第13話: お宅の専属職人、どこへ?

 冬の大舞踏会の朝、私——アガタ・ランドルフは、いつもより早く目を覚ました。


 寝室の窓の外で、王宮の方から、わずかに楽器の音が聞こえる。今夜の舞踏会のための、楽団の最終調律。

 毎年、この時期の朝は、自分の心が、わずかに浮き立つ。

 何十年も、私は、この朝を、楽しみにしてきた。


 けれど、今年は——

 胸の奥に、わずかに、重い何かが、沈んでいた。


 その重さの名前を、私は、自分でも、もう、知っていた。

 今夜のドレスのこと。

 半年前に「専属職人」が辞めて以来、新しい職人を雇い続けているけれど、どの職人も、あの「専属職人」の腕には、届かなかった。

 今夜のドレスは、五人目の職人が、急ぎで仕立てたもの。




 寝室の隣の衣装室で、私は、新しいドレスに、袖を通した。


 深い臙脂えんじの絹。襟元には金糸の刺繍。

 一見、いつものランドルフ家のドレスと、変わらない。

 けれど、袖を通した瞬間、私の肩が、わずかに、違和感を覚えた。

 絹が、私の肩の形に、馴染んでいない。

 糸の張りが、肩の動きに合わせて、伸びてくれない。


 ……あの「専属職人」のドレスは、そうではなかった。

 肩を回すと、絹が、歩幅に合わせて、ふわりと、流れた。襟元は、笑った時にだけ、わずかに、揺れた。

 今夜のドレスは、笑っても、泣いても、形が、変わらない。

 ただ、ぴたりと、私の身体に、貼り付いているだけ。


 それでも——

 仕方がなかった。

 あの娘——ティナ・ファブリツィアは、半年前に、屋敷を出ていった。


 息子のヴィクトルが、追放した。

 「お前の針仕事など、誰でもできる」と言って。


 あの日、私も、隣の部屋で、その台詞を聞いていた。聞きながら、止めなかった。

 「誰でもできる」——その言葉を、私は、十年間、信じていた。

 というより、信じたかった。

 あの娘の十年が「誰でもできる仕事」だったということに、しておきたかった。


 でなければ、私たちが、十年間、何をしてきたか——

 その重さを、自分で、抱えなければ、ならないから。




 夕方、私は、ランドルフ公爵家の馬車で、王宮へ向かった。


 馬車の窓から、王都の冬の景色が、流れていく。

 石畳。雪混じりの風。貴族たちの紋章を掲げた他の馬車。

 いつもの、社交界の冬。

 いつもの、私の冬。


 でも、今夜は——

 王宮の門をくぐる瞬間、私の指先が、わずかに、震えていた。


 窓の外を流れる景色の中で、私は、ふと、半年前のあの日を、思い出していた。

 息子のヴィクトルが、屋敷の仕立て室で、あの娘に「お前の針仕事など、誰でもできる」と告げた日。

 あの日、屋敷の窓の外も、こんな冬の入り口の冷たい雨だった気がする。

 雨の中、あの娘は、布袋ひとつを抱えて、屋敷の裏門から出ていった。

 誰も見送らなかった——いや、老侍女頭マリエッタだけが、裏門で何かを手渡していた、と、後で別の侍女から聞いた。

 あの時、私は、止めなかった。

 止める理由を、私は、自分の中に、用意できなかった。




 王宮に着いた時、夕暮れは、すでに、夜の藍色に変わり始めていた。

 大舞踏会の広間は、いつもと同じだった。


 水晶の、ではなく——王宮では「魔法灯の連なる」シャンデリア。

 磨かれた大理石の床。金糸の刺繍を施した壁掛け。楽団の生演奏。

 貴族たちが、それぞれの家紋の色のドレスを着て、笑い、囁き、踊っていた。


 私は、いつもの場所に立った。

 ランドルフ公爵家の夫人として、貴族たちが私に挨拶しに来るのを、いつもの通り、待った。


 最初の挨拶は、いつもの夫人。

 次は、いつもの伯爵。

 次は、いつもの王太子妃の侍女。


 みんな、いつも通りだった。

 いつも通り、私のドレスを「素敵ですわね」と褒めてくれた。

 いつも通り、私は「ありがとう」と微笑んだ。


 けれど——

 いつもとは違う、わずかな視線を、私は、感じていた。

 いつもなら、私のドレスを見た貴族たちは、わずかに、目を細めて感嘆する。

 今夜は、誰一人、目を細めなかった。

 彼らの目は、ドレスを「ただの服」として見ていた。




 舞踏会の半ばを過ぎた頃。


 広間の奥から、ざわめきが、わずかに、湧いた。

 王妃エレオノーラ陛下が、いつもの侍女頭ローザを伴って、貴族たちの輪の中に、入ってきた。


 王妃が、社交の輪に出てくるのは、年に数回。今夜は、その数回の一つだった。

 貴族たちが、深く頭を下げる。私も、頭を下げた。


 王妃は、貴族たちと、いつもの優雅な会話を、交わしていた。

 「素敵な刺繍ね」「お子様の社交界デビュー、おめでとう」「今夜の楽団は、いつもより冴えているわ」。

 いつも通りの、王妃の社交。


 私は、自分の視界の隅で、王妃の動きを、見ていた。

 彼女の動きが、少しずつ——

 私の方へ、向かってきているのが、分かった。


 胸の奥の重さが、少しずつ、増していった。




 王妃が、私の前に、立った。


 「ランドルフ公爵夫人」


 いつもの、優雅で簡潔な王妃の声。


 「今夜のドレス、新しいお仕立てかしら」


 「はい、陛下。今年の冬の祝賀会のために、誂えました」


 私は、できるだけ、いつもの調子で、答えた。


 王妃は、わずかに、私のドレスに、視線を落とした。

 長くはなかった。三秒ほど。

 けれど、その三秒で、王妃が、何を見ていたか——

 私には、分かった。


 布が、笑っていない。布が、歌っていない。

 王妃は、それを、一目で、見抜いた。


 「素敵な臙脂の色ね」


 王妃は、微笑んだ。けれど、その微笑みは、いつもの王妃のそれよりも、わずかに、冷たかった。


 「ところで——」


 王妃が、続けた。


 「お宅の専属職人は、どこへ、行ったのかしら?」




 その一文が、広間の空気を、止めた。


 近くで、私たちのやり取りを聞いていた貴族たちの、扇の動きが、止まった。

 楽団の音が、ふと、遠くに聞こえた。

 私の耳に、自分の心臓の音だけが、届いていた。


 王妃の問い。

 「お宅の専属職人、どこへ行ったのかしら?」

 たった、一行。

 けれど、その一行が、十年間私たちが続けてきた偽証を、社交界全員の前で、剥がしにきていた。


 ……どう、答えるべきか。

 私は、口を開きかけた。

 「半年前に、辞めまして——」と、準備してきた答えが、舌の先まで、上がってきた。


 けれど、その答えが、王妃の前では、嘘だと、分かるものだった。

 他の言い訳も、すべて、舌の上で、止まった。

 王妃は、もう、知っている。

 半年前に辞めた職人の、本当の名前を。

 半年間、ランドルフ家が、誰の名で、ドレスを納めてきたかを。


 私の口は、開いたまま、何も、言葉を、出せなかった。




 時間が、止まったように、感じた。


 近くの貴族たちが、扇で口元を隠しながら、私の方を、ちらりと、見ていた。

 その視線が、私の中で、ゆっくりと、十年分の重さを、剥がし始めた。


 あの娘の名前を、十年間、誰にも明かさなかった。

 あの娘の労働を、十年間、「ランドルフ家の専属職人」の名で、社交界に売り続けた。

 あの娘の給金を、十年間、一度も、払わなかった。


 今、その全部が、王妃の問いの前で、剥がれかけていた。


 「……あの——」


 私は、ようやく、口を、動かした。

 でも、続きが、出てこなかった。

 舌が、乾いていた。

 手のひらが、冷たかった。


 王妃は、私の沈黙を、しばらく、見つめていた。

 優雅に、微笑んだまま。

 責めもせず、急かしもせず、ただ、待っていた。


 その「待ち」が——

 責められるよりも、ずっと、痛かった。

 扇を握る私の指先が、わずかに、湿っていた。


 「……すぐには、お答えできかねます」


 ようやく、私は、それだけ、絞り出した。


 声が、震えていた。

 六十近い私の、貴族夫人としての、四十年の経験が、その一文しか、出させてくれなかった。


 王妃は、頷いた。

 「分かりました。後日、私のところに、書面でお返事をくださるかしら」


 書面で、お返事を。

 その四文字が、私の中で、社交界の終わりを、告げていた。




 王妃が立ち去った後、私は、広間の隅に、移動した。


 近くの貴族たちは、もう、私と話しかけてこなかった。

 誰一人、いつもの「素敵なドレス」を、もう、口にしなかった。

 代わりに、扇の陰で、私の方を、ちらちらと見ながら、何かを、囁いていた。


 その囁きの内容は——

 たぶん、明日の朝には、王都中の社交界に、広まるだろう。


 ランドルフ家の専属職人が、半年前に辞めた。

 ランドルフ家は、半年間、それを隠していた。

 今夜、王妃が、それを、社交界全員の前で、暴いた。


 私の四十年の社交界歴が、たった一行の問いの前で、崩れていた。




 翌朝、王都の風刺画家が、あの瞬間を、紙の上に描いた。


 扇を握りしめ、王妃の前で言葉に詰まる、ランドルフ公爵夫人。

 優雅に微笑む王妃。

 扇の陰で囁く貴族たち。

 絵の下には、こう書かれていた——


 「お宅の専属職人、どこへ?」


 風刺画は、その日のうちに、王都の街角に、貼り出された。

 夕方には、ピアラ市の方まで、写しが運ばれていた。


 私は、屋敷の窓から、街を歩く貴族たちが、私の屋敷の前を通る時、扇で口元を隠して笑うのを、見ていた。

 四十年、私が見てきた社交界は、もう、私のものではなかった。


 夫——公爵は、その日の夕方、書斎に私を呼んで、何も言わずに、風刺画の写しを、机に置いた。

 彼の表情は、怒りでも、嘆きでもなかった。

 ただ、長い、深い疲労が、彼の目の奥に、溜まっていた。

 息子のヴィクトルは、屋敷を出て、社交界の友人と称する者たちのところへ、逃げ込んでいるらしい。

 ランドルフ家の四十年が、半年遅れで、傾き始めていた。

 壁の柱時計が、夕暮れの時刻を、いつもより、深く、鳴らした。

 夫は、何も言わずに、書斎を出ていった。

 残されたのは、机の上の、風刺画の写しと、私だった。


 あの娘——ティナ・ファブリツィアは、今、どこにいるのだろう。

 私は、彼女の名前を、十年間、口にしてこなかった。

 今、初めて、その名前を、自分の口の中で、無音で、転がしていた。

 ティナ。

 ティナ・ファブリツィア。


 彼女の名前は、私が思っていたよりも、ずっと、軽くて、強かった。


 止める力は、もう、私には、ない。


 窓の外で、雪混じりの冷たい風が、屋敷の木々を、わずかに、揺らした。

 冬の夜が、深まっていく。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第13話、第一波ざまぁです。視点を、初めて、ティナを苦しめてきた側——公爵夫人アガタ・ランドルフに、置きました。彼女がどう崩れていくかを、彼女自身の目から、見てもらいたかったからです。


王妃エレオノーラの「お宅の専属職人、どこへ行ったのかしら?」——たった一文。

派手な対決ではなく、優雅な社交の一問だけで、十年間の偽証を、社交界全員の前で剥がしにいく。これが、本作の「ざまぁ」の流儀です。怒鳴ったり、暴露したりはしません。王妃は、ただ、問うただけ。けれど、その問いが、十年分の嘘を、社交界の空気の中で、音もなく、崩した。


アガタの「『誰でもできる』——その言葉を、私は、十年間、信じていた。というより、信じたかった」——あの台詞、書きながら、彼女の中の「自覚なき搾取者」の正体を、彼女自身が、初めて、見つめる場面でした。彼女は、悪意ではなく、自分を守るために、十年間、嘘を信じ続けたのです。


末尾の「ティナ・ファブリツィア」——アガタが、十年間、口にしなかった名前を、初めて、自分の口の中で、無音で転がす場面。「彼女の名前は、私が思っていたよりも、ずっと、軽くて、強かった」というのは、嘘の重さに比べて、本物の名前の方が、ずっと「軽くて、強い」、ということです。


第14話、第1アークの最終話です。場面は、ようやく、ファーデンに戻ります。マリエッタが、王宮に呼ばれて、王妃の古いドレスの裏地に、手をかける。第1話のプロローグの、あの瞬間が、ようやく、物語の現時点として、訪れます。


辺境の小さな仕立て屋の物語、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。

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