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「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


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8/20

第8話: 王宮の紋章

 翌朝、私は、いつもより早く店を開けていた。


 昨日エミルが置いていった毛織物は、まだ机の片隅で、何にも変わらないまま、待っていた。

 畳んだまま、染料の匂いが、店の中に、わずかに広がっている。

 私は、その布を、しばらく見つめて、結局、別の作業に取りかかった。

 決めるまでの時間が「贅沢」だと、昨夜決めたのだ。

 今日も、決めない。


 代わりに、昨日の旅人の外套と、町の老人のシャツの仕立て直しを、机に広げた。

 針が、馴染んだ動きで、繊維の間を潜っていく。

 外の通りでは、市場の朝の準備が始まっていた。荷馬車の音、商人たちの声、子どもの笑い声。

 冷たい空気の中に、パン屋の薪の匂いが、混じっている。


 いつも通りの、ファーデンの朝だった。


 ——その、いつも通りに、ふっ、と、影が差した。




 扉が、ノックもなく、開いた。


 私は、顔を上げた。

 扉の前に立っていたのは、見覚えのない男だった。


 年は、三十代の半ばくらいだろうか。深い灰色の旅装。襟元まで覆う長外套。帽子は深く被り、顔の半分が陰になっている。

 背の高さも、肩幅も、商人らしくない。少し、堅すぎる。

 商人は、もっと「布で隠そう」とする職業の人間だ。けれど、この男は、布で隠すよりも、布の下に何かを「忍ばせよう」としているように見えた。


 屋敷の十年で、私は、こういう種類の男を、何度か見たことがあった。

 舞踏会の夜、招待客の中に、こういう影が混じることがあった。社交の輪には入らず、壁際に立ち、誰かを見ていた人。あの人たちは、たぶん、今、目の前にいるこの男と、同じ職業だったのだろう。

 屋敷では、私は、彼らの服を縫ったことはなかった。彼らの服は、彼ら自身の手で縫われていたのかもしれない。今になって、それが分かる。


 「すまない。急ぎなんだ」


 声は、低く、抑えられていた。

 けれど、その声には——王都の言葉の発音が、わずかに混じっていた。


 長く都市部にいた人間でないと出ない、母音の伸ばし方の癖。

 屋敷の十年で、私は、その癖を、何百回も聞いていた。


 「襟の、ここだ」


 男は、外套を脱ぎながら、自分の旅装の襟元を指で示した。

 近づいてきて、机の上に、襟元を広げる。


 破れは、確かに、襟の一箇所にあった。

 縦に二センチほどの、鋭い裂け目。何かに引っかけたような切り方ではない。鋭利なもの——たぶん、刃物のようなもので、わずかに切られた跡だった。


 私は、布から、目を離せなかった。


 破れた跡そのものよりも——その布の質に、私は、息を呑んでいた。




 北方産ではない。

 南方絹でもない。


 これは、王都の、特定の織り工房でしか作られない、上質の麻布だった。

 屋敷で、何度も触ったことがある。

 ランドルフ家には縁のない布だが、王宮からの届け物の中に、稀に混じっていた。


 軍服や、王宮警備の制服、それから——王宮内の特殊な役職の者が着る、外向きには「平服」と見せかけた、けれど、内側に紋章を縫い込むことが許された、特別な布。


 心臓が、わずかに、跳ねた。


 私は、表情を変えないまま、男の方を見上げた。


 「すぐに、お直しできます。三十分ほど、お待ちいただけますか」


 「分かった。外で待つ」


 男は、それだけ言って、扉の外へ出ていった。

 彼の足音は、軽かった。

 軽すぎた。

 商人の足音でも、農夫の足音でもない。

 訓練された人間の足音だった。


 私は、扉が閉まるのを確かめてから、男の旅装を、ゆっくりと机に広げた。




 補修自体は、難しくなかった。

 麻布の繊維は、まだ十分に丈夫で、糸を慎重に通せば、跡も残さずに直せる。

 切られ方も、鋭利すぎて、繊維が伸びていない。新しい刃物で、迷いなく、切られたもの。


 けれど、私の指は、補修の手順に入る前に、一度だけ、止まった。


 破れの裏側——襟元の内側、二枚の布が縫い合わされた、ほんの三センチ四方の隠された場所。

 そこに、二重縫いの跡が、あった。


 ……二重縫い。


 私は、息を、止めた。


 二重縫いの中で、糸の色を、麻布の地色とほとんど同じに合わせて、隠された一枚の小さな図案。

 慎重に指で繊維を分けて、その図案を、ようやく目にすることができた。


 王宮の紋章。

 それも、王家直属——王の私室周辺の警備を担う、あの部署の紋章だった。


 私は、思わず、椅子に座り直した。

 息を、整えるのに、少しの時間が必要だった。


 二重縫いで、紋章を隠す。

 それは、私が屋敷の十年で、ずっと繰り返してきた技法と——

 まったく、同じものだった。


 糸の動き。針の入れ方。表からは絶対に見えないように、けれど、必要な時には、内側の人間だけが見つけられるように。

 誰がこの紋章を縫ったのか、私には分からない。けれど、その人は、私と同じ手の動きを、知っていた。


 しかも——

 この二重縫いの目は、整いすぎていた。

 私の「T.F.」と比べても、こちらの方が、目の揃いが少しだけ綺麗だった。長く、繰り返し、訓練を積んだ手の作品だ。

 たぶん、王宮の特別な部署には、こういう技法を職務として習得する人間がいるのだろう。表向きは「服飾係」「布の管理人」と名乗り、裏では、布を通じて言葉を運ぶ、別の役職の人間。


 私一人で発明したと思っていた技法が、実は、王宮のどこかでは、組織だって伝承されていた。

 そう考えると、私の十年の「孤独」が、少しだけ、別の色に塗り替えられた気がした。


 完全に孤独ではなかった。

 ただ、お互いを知らないまま、別々の場所で、同じ針を持っていた人がいた。

 それだけのことが、私の中で、不思議に、温かかった。


 ……私だけではなかった、ということだろうか。


 誰かに、見つからないように、自分の存在を、布の裏側に残す人。


 屋敷の私は、それを「自分の名前を残す」ためにしていた。

 この男の——いいえ、この男の所属する誰かは、それを「身分を隠して動く」ためにしていた。


 目的は、まったく違う。

 でも、技法は、同じだった。


 布の裏側で、私と、この男の所属する誰かは、同じ言語を、密かに、話していたのだ。




 補修は、丁寧に行った。

 破れた繊維の周囲を、麻布の織りに完全に馴染む糸で塞ぐ。

 縫い終わった時、外側からは、破れがあったことすら、もう、分からなかった。

 そして——

 裏側の二重縫いも、もちろん、私は何も触らなかった。


 あれが何のために縫われたか、私が判じる立場ではない。

 あれを縫った誰かは、私と同じ「裏側に名を残す」人間だ。仲間とは言えないが、敵だとも、思えなかった。


 扉を開けて、私は、外で待つ男に声をかけた。

 「お直し、終わりました」


 男は、振り返った。帽子の影の下で、灰色の瞳が、ほんの一瞬、私を見た。

 その目は、商人を見る目でも、職人を見る目でもなかった。

 「警戒すべき人間か」を、瞬時に測る目だった。


 私は、表情を、変えなかった。


 男は、店に入って、机の上の自分の旅装を、ゆっくりと手に取った。

 襟元を、自分の指で、確かめた。


 破れた跡は、見つからなかったはずだ。

 二重縫いの紋章は、もちろん、無事だったはずだ。


 男は、しばらく、何も言わなかった。

 それから、革袋から、銀貨を二枚、机に置いた。


 私は、つい、口を開いた。

 「料金は……」


 「これでいい」


 男は、それだけ言って、外套を羽織り、扉の方へ向かった。


 扉を出る前に、彼は、一度だけ、私の方を振り返った。


 その目は、もう、警戒の目ではなかった。

 代わりに、何か——感謝に近い、けれど、それよりずっと深い何かが、わずかに混じっていた。


 彼は、何も言わずに、扉を閉めた。

 石畳の上を、軽い足音が、街道の方へ、静かに遠ざかっていった。




 扉が閉まった後、私は、しばらく、机の前に座り続けていた。


 胸の鼓動が、まだ、少し、速かった。

 手のひらに、男の旅装の麻布の感触が、まだ、残っていた。

 平服の姿をして街道を歩く人間が、いる。

 その背後には、私の知らない大きな組織の判断が、流れている。


 あの男は、誰だったのか。

 あの紋章は、本物だったのか。誰が、なぜ、いつ、それを縫ったのか。


 私には、何も、分からなかった。


 ただ——

 王都の、私が知らない場所で、何かが動き始めている。

 あの男が、ファーデンを通り過ぎたという事実だけで、私の指先は、それを察した。


 屋敷の十年で、私は、社交界の表面しか、見ていなかった。

 けれど、表面の下には、もう一つの世界があった。


 私たちは、布の裏側で、ずっと、出会っていたのかもしれない。

 お互いの存在を知らないまま。




 夕方、エミルが、店に顔を出した。

 彼は、机の上に置かれた銀貨二枚に、ちらりと目を向けて、それから、私の方を見た。


 「……何か、あったか」


 彼の声は、いつもより、わずかに、低かった。


 私は、首を、ゆっくりと振った。


 「いいえ。普通の、お客様でした」


 エミルは、しばらく、私を見つめていた。

 彼は、それ以上、聞かなかった。


 ただ、扉を閉める前に、彼は、ぽつりと言った。

 「……気をつけろ。王都の人間が、最近、辺境を通ることが、増えている」


 扉が閉まる音。

 石畳の上を、彼の足音が、隣の店へ、静かに戻っていった。


 私は、机の上の銀貨二枚を、特別な小箱に、ゆっくりとしまった。

 マリエッタの銀針の、隣に。


 窓の外で、樫の看板が、夕暮れの風に、軽く揺れていた。

 いつもの揺れ方だった。

 いつもの、けれど、私の指先だけが、いつもとは違うことを、知っていた。


 今夜、もしかしたら、もう一人——

 王宮のどこかで、同じように、布の裏側に針を入れている誰かがいるかもしれない。

 その誰かと、私が、同じ夜を生きている。

 布の裏側を共有している人間として。


 名前も、顔も、声も知らない。

 でも、私たちは、別々の場所で、同じ「裏側に名を残す」ことを、選んできた。


 私は、机の片隅の、まだ何も縫っていない、エミルの毛織物に、そっと手を置いた。

 布が、私の指先の温度を、静かに、覚えてくれた。


 明日、私は、また、いつも通りに、店を開ける。

 けれど、辺境の朝の中で、王都の方を、いつもよりほんの少しだけ、意識するようになるだろう。

 遠くの誰かと、私の針が、ようやく、ほんのわずかに、繋がったから。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第8話、王都の影が、初めてファーデンに差し込みました。「裏地の二重縫いで紋章を隠す技法」を、ティナと同じ技法で使う誰かが、王都にいる——というのは、書きながら、自分でも、少し背筋が震える設計でした。


ティナが屋敷の十年でやってきた「裏地の署名」は、彼女が「自分の名前を残す」ための、孤独な技法でした。けれど、その同じ技法を、別の目的で、別の誰かが、ずっと使っていた。

私たちは、誰しも、自分が孤独だと思っていることが、実は、誰かと密かに繋がっている、ということがある。布の裏側というのは、そういう繋がりの場でもあるのかもしれません。


「気をつけろ。王都の人間が、最近、辺境を通ることが、増えている」——エミルがこの一言を残して帰る場面、書きながら、彼が「ティナが何かに巻き込まれないように」と密かに願っている温度を、感じました。彼は、王都の何かに、密かに敏感です。彼自身の家系も、王都に何かを残してきた家系ですから。


末尾の「私の指先だけが、いつもとは違うことを、知っていた」——あれは、ティナが、辺境にいながらも、王都の何かと「つながり始めた」最初の瞬間です。物語の歯車が、少しずつ、回り始めています。


第9話、辺境の祭りの夜、エミルがティナに、初めて「お前のために、この色を選んだ」と直接言う場面が来ます。


辺境の小さな仕立て屋の物語、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。

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