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「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


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第7話: お前の縫い目を見てから

 カミラが店の前に立った日から、四日が過ぎた。


 彼女は、まだ、もう一度は来ていない。

 市場で、彼女の姿を見かけることもなかった。

 ハンナによれば、「カミラさんは、しばらく自分の店に籠もって、何かを縫っているらしい」とのことだった。


 籠もる、という言葉が、私の胸に、引っかかっていた。

 三十年この街を支えてきた女が、突然店に籠もる。それが何を意味するのか、私には、まだ、分からなかった。

 けれど、それが「私のせい」かもしれない、という疑いだけは、消えなかった。


 私は、いつも通り、客の修繕と仕立てを続けていた。


 毎日、二、三人の客が訪れる。修繕が中心だが、新しいシャツや子ども服の依頼も、少しずつ増えてきていた。

 屋敷の十年で四百三十二着のドレスを縫った頃の私は、自分が「日々の暮らしの服」を仕立てる日が来るとは、思っていなかった。

 貴族の華やかな夜会服から、辺境の街道沿いの旅人や、町の老人や子どもの服へ。

 手の動きは、変わらない。けれど、私の指先が触れる布の声は、変わっていた。


 夜会服の絹の声は、高く、遠く、澄んでいた。

 舞踏会の夜、何百人もの貴族の前で輝くために生まれた、誇り高い、けれどどこか孤独な声。

 辺境の毛織りの声は、低く、近く、温かかった。

 誰か一人の体を、何年も、雨と雪と風から守るために生まれた、地に足のついた声。


 私は、辺境の声の方が、好きだった。

 屋敷では、自分がどちらの声を好きか、考えたこともなかった。

 好き嫌いを口にすることが、許されていなかったから。




 午後、雲のない冷たい日。

 扉が、ノックもなく、開いた。


 顔を上げると、エミルが、両手に大きな布の束を抱えて立っていた。


 深い焦げ茶色の毛織物。光に当たると、織り目の中から、わずかに金色の繊維が見え隠れする。一目で——上等な布だと、分かった。

 大きさは、ちょうど一反。両肩に抱えても、布の端が床に触れそうなほどの量。


 「ちょっと、見てくれ」


 エミルは、それだけ言って、机の上に布の束を置いた。

 布が机の木目に触れた瞬間、空気が、わずかに、変わった気がした。

 高級な布が部屋に入ってくると、そういう変化が起きる。湿度が一段下がり、光の反射が一段澄む。屋敷で十年、私はその変化を、毎日のように感じていた。

 久しぶりだった。

 久しぶりに、それを、自分の店で感じた。

 布が、机に落ちた瞬間——

 私は、息を呑んだ。


 声がする。


 北方の双糸羊毛。それも、ヤニが持ってきた外套の布より、ずっと格上のもの。三年寝かせた、というより、五年は寝かせて熟成させた、芯のある声。

 しかも、染めの工程が、丁寧だった。一般的な羊毛では、染料が繊維の表面にだけ留まる。けれど、この布は、繊維の芯まで染料が浸透している。何度雨に打たれても、色が抜けない。


 屋敷で十年仕立て続けた中でも、この格の毛織物に出会ったのは、片手で数えるほどだった。

 王妃陛下の冬の正装に使われた、北方一級。

 第一王女の戴冠記念ローブに使われた、南方双絹との混紡。

 そういう種類の布が、今、私の小さな辺境の店の机に、無造作に置かれている。


 「これ……」


 私は、思わず、布を撫でた。

 指の腹に、布の歴史が伝わってきた。北方の高原の風、羊の体温、織り手の長い指、染料を煮詰めた釜の温度——

 全部、布が、覚えていた。


 「これ、上等すぎます。私には、買えません」


 慌てて、布から手を離した。

 エミルは、店の入口の枠に、肘をついて、私を見ていた。


 「買えとは、言ってない」


 私は、首を傾げた。


 「これ、お前の縫い目を見てから、取っておいた」




 お前の、縫い目。


 その六文字が、私の中で、ゆっくりと、響いた。


 屋敷の十年で——

 私の縫い目を、誰も「お前の」と呼ばなかった。

 「ランドルフ家の専属職人の」「公爵家の」「夫人の専属の」——いつも、誰かの名前の付属物だった。

 私の縫い目は、私のものではなかった。


 たとえば、王妃陛下の生誕祝賀会のドレスを縫い終えた朝。

 公爵夫人は、出来上がったドレスを見て、満足げに頷いた後、こう言った。

 「ランドルフ家の名にふさわしい仕事ね」

 ランドルフ家の名にふさわしい。

 私の名は、その一文の中に、一文字も入っていなかった。


 たとえば、十六歳の冬。第一王女の生誕祝いのドレスを納めた時、夫人の使いが言った。

 「夫人が、上機嫌でいらっしゃいました。あなたの仕事も、無駄ではなかったようです」

 あなたの仕事も、無駄ではなかった。

 褒めの言葉として届けられたあの一文の中で、私の縫い目は、ただ「無駄ではなかった」と、消極的に承認されていた。


 けれど、エミルは、何でもないように言った。

 「お前の」と。


 息が、一瞬、止まった。


 彼は、私の表情を、特別な目で見ていなかった。

 まるで「お前の縫い目」と呼ぶことが、当たり前のことだと、思っているような顔だった。


 「……ありがとう、ございます」


 声が、震えた。


 彼は、頷いただけだった。


 しばらく、店の中の空気が、布の匂いと、夕陽の残り香で、満たされていた。




 「これ、いつ仕入れたんですか」


 ようやく、私は、口を開いた。


 「先月の半ば。北方の知り合いから、声がかかった。良い羊毛があるって。見たら、確かに良かった。けど——」


 彼は、言葉を切った。


 「うちの店じゃ、ちょっと格上すぎてな。誰に売るか、決めかねてた」


 「それを……」


 「お前が来た。最初の客、ヤニの外套を見た時に、決めた」


 あの日。

 私が布目読みをして、ヤニの外套を「まだ生きている」と告げた、その日。

 エミルは、無言で、店の窓越しに、私を見ていた。

 あの夜、彼が「いいな、その縫い目」と言った時、彼の中では、もう、この毛織物の行き先が決まっていたのだ。


 「先月から……?」


 「ああ」


 「では、私の店が、まだ、無かった頃ですね」


 「お前が来るかどうかも、知らなかった頃だ」


 エミルは、ふっ、と笑った。

 「不思議だな。そういう布って、たまにある。誰かが現れる前から、ちゃんと『この人のために』って分かってるみたいな」


 私は、布を、もう一度、撫でた。

 布が、わずかに、震えた気がした。

 いや、震えたのは、私の指先だったかもしれない。




 「……でも、私は、これで何を縫えばいいのでしょう」


 私は、正直に、聞いた。


 北方一級の双糸羊毛。これで縫う服は、辺境の旅人の外套でも、町の老人の背広でもない。もっと、特別なもののはずだ。


 エミルは、首を傾げた。

 「決めるのは、お前だ」


 私は、布から目が離せなかった。


 「ただ、俺は、お前がこの布で縫ったものを、見たい」


 彼は、それだけ言って、店を出ていった。

 扉が閉まる音。彼の足音が、隣の店へ戻っていった。


 扉の音が消えた後、店の中には、布の匂いだけが残っていた。

 北方の毛織物の匂いは、独特だ。羊の体温と、高地の冷たい空気と、染料の煮詰めた香りが、混ざって、深く沈んでいる。

 屋敷の絹の匂いとは、まったく違う種類の温度だった。


 ハンナが、隣の店から、ちらりとこちらを覗いて、何も言わずに引っ込んだ。

 彼女は、たぶん、全部見ていた。けれど、口には出さない。そういう人だ。

 その「口に出さない優しさ」も、辺境の色だった。




 私は、しばらく、机の上の毛織物を、見つめていた。


 夕陽が、店の北の窓から差し込んで、布の上で、わずかに揺れていた。

 焦げ茶の織り目の中で、金色の繊維が、生き物のように、ちらちらと輝いた。


 お前の縫い目を見てから、取っておいた。


 エミルの言葉が、まだ、店の空気の中に、残っていた。


 屋敷の十年——

 私は、自分の指先を、いつも「誰かのため」に動かしてきた。母君のため。社交界のため。ランドルフ家のため。十年、私は、自分の指先を「自分のもの」だと思ったことがなかった。


 けれど、今、机の上には、誰かが「私のために」取っておいてくれた、一反の毛織物がある。

 そして、それを取っておいたのは——

 私が来るかどうかも知らなかった、エミル。

 彼は、私が現れる前から、この布が、誰かのためにここで待っているのを、知っていた。


 胸の奥で、何かが、ゆっくりと、ほどけていった。


 私は、椅子に座り直して、机の上の布を、両手でそっと、引き寄せた。

 布が、私の指の温度を、静かに、受け入れた。


 ……何を縫おうか。


 まだ、決められなかった。

 けれど、決めるまでの時間そのものが、私にとって、初めての「贅沢」だった。




 その夜。


 屋根裏の小部屋で、私は、毛織物を膝に置いていた。

 布袋から、母の銀の指ぬきを取り出して、毛織物の上に、そっと置いた。

 次に、マリエッタの銀針を、その隣に。


 三つの「重み」が、私の膝の上で、静かに並んでいた。


 母の指ぬき。私を屋敷に送り出した、母の温度。

 マリエッタの銀針。屋敷で十年、私を見届けた人の温度。

 エミルの毛織物。辺境で、初めて「お前の縫い目」と呼んでくれた人の温度。


 三つとも、贈られたもの。

 三つとも、私の十年と、これからの私を、別々の方向から支えてくれるもの。


 屋敷の十年で、誰かから何かを「贈られる」ことは、ほとんどなかった。

 貰うものは、いつも、布と糸と仕事の指示だけ。「贈り物」とは、貴族同士の社交儀礼の中でだけ動く言葉だった。

 けれど、ファーデンに来てから、私は、もう三つも、「贈られたもの」を持っている。

 マリエッタの銀針、ハンナの寝具、エミルの毛織物。

 どれも、見返りを求められなかった。


 「贈り物」というのは、こういうものだったのだ。

 私は、たった半月で、十年分の「贈り物」を、知った。


 窓の外で、樫の看板が、夜風に揺れている。

 革紐の軋みが、いつもより、軽やかに聞こえた。


 明日、私は、何を縫うか、決められないかもしれない。

 決められない、という贅沢を、しばらく、味わってみたかった。


 遠くで、夜更けを告げる町の鐘が、一度、鳴った。

 ファーデンの夜は、王都より、ずっと、静かだった。

 その静けさの中で、毛織物の繊維の一本一本が、呼吸している音が、私には、聴こえる気がした。


 いずれ、布の方が、教えてくれるだろう。

 屋敷の十年が、私に、それを教えてくれた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第7話、エミルがティナのために、北方一級の双糸羊毛を一反、持ち込みました。「お前の縫い目を見てから、取っておいた」——あの六文字「お前の縫い目」を、彼が何でもないように口にする場面、書きながら、ティナの胸が熱くなるのと同時に、自分の胸も、少しだけ熱くなりました。


エミルが「お前の縫い目」と言った時、彼は、ティナの「役割」や「肩書き」ではなく、「彼女自身の指先」を見ていました。屋敷の十年、誰一人として、ティナの指先そのものを認めなかった。だから、この六文字が、ティナの中で、これほど大きく響くのです。


「先月の半ば、北方の知り合いから、声がかかった」——あの設定、書いている自分でも、少し感傷的になりました。エミルは、ティナがファーデンに来る前から、この布を取っておいていた。彼自身、誰のためか、その時は知らなかった。けれど、布の方が、ちゃんと、誰かを待っていた。

布には、人間より少し先に、未来を知る瞬間があるのかもしれない。


ティナが「決められない、という贅沢」を味わう場面——あれは、彼女が屋敷で一度も体験しなかったことです。屋敷では、いつも、納期がありました。明日までに、来週までに、舞踏会までに。決めることが、いつも、強制されていた。

辺境の店で、彼女は初めて「決めない」という時間を、自分のものとして抱えました。


第8話、王宮の紋章を二重縫いで隠した、奇妙な客が、店を訪れます。布目読みが、初めて「政治的な意味」を持って発動する場面です。


辺境の小さな仕立て屋の物語、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。

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