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「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


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第6話: 都会の道楽だろう

 ヤニが市場に立ち寄った日から、私の店には、少しずつ、けれど確かに、客が訪れるようになった。


 最初は、ヤニと同じく街道筋の旅人だった。次に、町の住民。週に三度立つ広場の市場で、誰かが「あの新しい仕立て屋、腕がいいらしいぞ」と話す声を、私は針を動かしながら、店の窓から、断片的に聞いていた。


 二日目の朝、最初に来たのは、町の老人だった。腰の曲がったその老人は、長年使い込んだ毛織りの背広を、机に広げた。「孫の結婚式まで、あと十日。これ、もう一度、着れるようにしてくれんかね」と、しわがれた声で頼んだ。

 私は、布を確かめた。糸の張りが弱り、肩のあたりは擦れ切っていた。けれど、布の芯は、まだ生きていた。「お任せください」と答えた。老人は、私の手のひらに銀貨二枚を握らせて、深く頷いた。


 午後には、若い母親が、子どものお下がりの服を持ってきた。「上の子から下の子へ、もう一度直せませんか。新しいの、買ってやれなくて」と、彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。

 私は首を振った。「下げないでください。直すのが、私の仕事ですから」。その日、母親は銅貨を四枚払って、子どもの服と、ハンナの店から買った新しい布の端切れを、抱えて帰っていった。


 修繕の依頼が、午前と午後で各一着ずつ。新しい服の仕立て依頼が、週に二着。

 屋敷で四百三十二着を縫っていた頃に比べれば、ささやかな仕事量。けれど——

 一着、また一着、私は「自分の名前で」針を入れていた。


 誰かを、誰かの結婚式に間に合わせるために。

 誰かの子どもが、寒くないように。

 誰かの父の遺品が、もう十年生き延びるように。


 屋敷で十年、私が縫っていた相手は、社交界の名前のない貴族たちだった。

 ここでは、私が縫っている相手の顔を、私は、はっきりと知っている。


 毎晩、銀貨が、特別な小箱に少しずつ増えていく。マリエッタの銀針の隣で、銀の重みが、静かに育っていた。




 三日目の夕方。


 外套の襟元の補修を終えて、糸切りを片付けていた時——

 扉の向こうに、人影が立った。


 顔を上げると、見覚えのない女性が、店の前で腕を組んで立っていた。


 茶色の髪に白いものが混じり始めた、中年女性。小柄でがっしりとした体つき。仕事着のエプロンには、絵柄の異なる継ぎ当てが幾つも縫い込まれていた。


 彼女は、扉を開ける気配がなかった。

 ただ、ガラス窓越しに、店の中を眺めていた。


 私は、軽く会釈をした。彼女は、頷きもしなかった。

 代わりに、一歩、店に近づいた。


 彼女の目は、私の手元の作業台に置かれた、未完成の麻のシャツを見ていた。

 次に、棚の糸の見本帳。それから、机の片隅の、特別な小箱。

 最後に、私の指先を、長く、見ていた。


 数分が、過ぎた。

 その間、彼女は何も言わなかった。


 私も、何も言わなかった。

 屋敷で十年身につけた——「相手が話すまで、ただ待つ」癖が、こういう時、役に立った。


 やがて、彼女は、扉の取っ手に手をかけた。

 軽く開けて、首だけを店内に入れる。


 「あんた」


 ぶっきらぼうな声。けれど、ぶっきらぼうの種類が、エミルとは違った。

 エミルのぶっきらぼうは、優しさを隠すためのもの。

 この女性のぶっきらぼうは——警戒のためのもの。


 「都会の貴族の、道楽だろう」


 私は、針を持ったまま、彼女の方を向いた。


 「いいえ」


 短く、答えた。


 彼女は、目を細めた。

 「いいえ、で済むかい? 王都から馬車で七日離れたこの辺境に、伯爵令嬢がふらりと現れて、仕立て屋を始めるなんて、道楽以外の何だね」


 私は、答えなかった。


 彼女の言葉は、半分、正しかった。

 私は確かに、伯爵令嬢だった。今も、戸籍の上では、ファブリツィア家の娘だろう。

 けれど——

 道楽、という言葉が指すものは、私の十年とは、まったく違うものだった。


 反論しなかったのは、彼女の言葉を受け流したからではない。

 反論する必要が、なかったからだ。

 私の十年が「道楽」だったかどうかは、私の指先と、布だけが知っている。説明する相手では、なかった。


 彼女は、私の沈黙を、しばらく、見つめていた。


 「この街にはな、三十年、私の仕立て屋一つで足りていた」


 彼女は、続けた。


 「あんたが来る前は、ファーデンの誰もが、私のところで頼んでいた。うちの店は、決して大きくはないが、地元の人たちの暮らしを、ずっと支えてきた」


 私は、頷いた。


 「だから——」


 彼女の声が、ほんの少しだけ、低くなった。


 「この街には、あんたの店は、要らない」


 その言葉が、店の中の空気を、わずかに、震わせた。


 私は、ゆっくりと、頷いた。

 「分かりました」


 彼女は、目を細めて、私を見た。

 反論を期待していたのかもしれない。あるいは、私が動揺するのを待っていたのかもしれない。


 けれど私は、それ以上、何も言わなかった。


 数秒、見つめ合った後——

 彼女は、ふん、と短く息を吐いた。

 扉を、軽く閉めた。

 石畳の上を、彼女の足音が、ゆっくりと、遠ざかっていった。


 彼女が立ち去った扉の外には、夕焼けの光だけが残っていた。

 私は、しばらく、扉を見つめていた。

 彼女のエプロンの継ぎ当て——絵柄の異なる端布が、幾つも縫い込まれていたあの工夫を、私は思い出していた。

 あれは、彼女の三十年だ。

 あの一枚一枚に、彼女が縫った街の人たちの服の、最後の端切れが、残っているのだろう。


 北側のあの花柄の継ぎ当ては、誰の婚礼衣装の余りだろう。

 深い紺の継ぎ当ては、誰の弔いの服だったか。

 茶色の格子は、たぶん、町の老人の毛織物の背広から。


 彼女のエプロンには、ファーデンの三十年が、丁寧に、束ねられていた。

 そういう人だ。あの人は。


 「都会の道楽だろう」——その言葉の重さが、私の指先まで、ようやく届いた。




 針を、再び、シャツに戻した。


 胸の奥で、何かが、きしんでいた。

 怒りではなかった。哀しみでもなかった。

 ただ——三十年、この街を一人で支えてきた女の声が、確かに、私の中に残っていた。


 彼女が言ったことは、ある意味、正しかった。

 私が来なければ、この街の仕立てはすべて、彼女のところで完結していたはずだ。

 私の店が、彼女の生計を、わずかでも、奪うことになるかもしれない。


 屋敷では、私は「奪う側」になることなんて、考えたこともなかった。

 奪われる側だったから。

 けれど、ここでは——私は、誰かから何かを奪う側に、なりうるのだ。


 その事実を、私は、初めて、自分の手で、抱いた。


 針が、麻のシャツの繊維の間を、ゆっくりと、潜った。

 布は、何も言わなかった。

 ただ、私の指の温度を、静かに、覚えていてくれた。




 夕闇が降りる頃、エミルが、店に入ってきた。


 「カミラに、何か言われたか」


 彼は、すぐにそう聞いた。

 ハンナから聞いたのだろう。


 「はい」と、私は答えた。

 「この街には、私の店は要らない、と」


 エミルは、扉の枠に肘をついて、しばらく、黙っていた。


 「あの人……カミラ・ロッソは、三十年、この町唯一の仕立て屋だ」


 彼の声は、低く、静かだった。


 「若い頃に、王都の仕立て修業に行ったらしい。三年で帰ってきた。理由は、本人は何も言わない。ただ、戻ってからずっと、この町の住民の服を縫い続けてきた」


 エミルは、扉の枠から、視線を、店の奥の暖炉に移した。

 彼は、しばらく、何かを言いたそうにして、結局、言わなかった。


 「あの人とうちの家系の間に、昔、何かあったらしい。詳しいことは、俺も知らない」


 彼の口ぶりは、知っているけれど語らない、という種類のものだった。

 私は、それを、追わなかった。


 「気難しい人だ。でも、悪い人じゃない。少なくとも、悪意で、あんたに会いに来たわけじゃない」


 私は、頷いた。

 「分かっています」


 エミルは、私を見た。

 「あんた、反論したか?」


 「いいえ」


 「なぜ?」


 私は、針を一度置いて、エミルの方を見た。


 「私は、彼女と競うつもりは、ありません。ただ、針を持ち続けたい。それだけです。彼女が三十年支えてきたものを、私が奪う気もありません」


 エミルは、しばらく、私を見つめていた。

 灰青色の瞳に、夕闇の薄い光が、揺れていた。


 「……それを、あの人に伝えたか」


 「伝えませんでした」


 「なぜ?」


 「あの人が、それを聞きたかったかどうか、分からなかったので」


 エミルは、ふっ、と息を吐いた。

 苦笑のような、納得のような、両方の混じった音だった。


 「……あんた、本当に、変わった人だな」


 彼は、それだけ言って、扉を閉めた。

 彼の足音が、隣の店へ戻っていった。




 その夜。


 屋根裏の小部屋で、私は、布袋を解かなかった。


 マリエッタの銀針も、母の銀の指ぬきも、今日は触らなかった。

 代わりに、私は、机の上に、紙と鉛筆を出した。


 白い紙の上に、私は、何も書かなかった。

 ただ、しばらく、紙を見つめていた。


 カミラ・ロッソ。

 三十年、この街を、一人で、支えてきた女。


 彼女は、明日も、明後日も、私の店の前を通るだろう。

 そして、彼女は、もう一度、何か言うかもしれない。あるいは、二度と何も言わないかもしれない。


 どちらにしても——

 私の手は、明日も、針を動かすしかない。


 他に、私が、私である方法を、知らないから。


 窓の外で、樫の看板が、夜風に、軽く揺れていた。

 革紐の軋みが、いつもより、少しだけ、長く響いた気がした。

 月が、雲の隙間から、わずかに顔を出していた。


 ふと、屋敷の十年を、思い出した。


 私は、ずっと、誰かから何かを「奪われる」立場だった。給金を奪われ、名前を奪われ、署名を奪われた。

 今日、私は、初めて——「奪う側」かもしれない、と告げられた。


 屋敷では、奪う側の人たちは、いつも、笑っていた。公爵夫人の上品な笑み。ヴィクトル様の冷ややかな笑み。彼らにとって、奪うことは、当たり前のことだった。


 でも、私は——

 奪う側になることに、慣れていない。慣れたくも、ない。


 明日、私は、何かを変えるべきだろうか。

 それとも、ただ、針を動かし続けるべきだろうか。


 答えは、まだ、出なかった。

 ただ、布袋の中の銀針が、夜の冷たさの中で、いつもよりわずかに重く感じた。

 それだけは、確かだった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第6話、ライバル仕立て屋カミラ・ロッソが本格登場しました。彼女は、典型的な「悪役」ではありません。三十年、この町を一人で支えてきた職人。その彼女が、突然現れた都会の伯爵令嬢に「この街にはあんたの店は要らない」と言うのは、悪意ではなく、職人としての矜持と警戒からです。


カミラの「都会の貴族の道楽だろう」——あの一言、書きながら、自分が中年職人として三十年積み重ねてきたものを、いきなり横から奪われる感覚を、想像していました。彼女の警戒は、正しい。少なくとも、彼女の立場からは、正しい。


ティナが反論しなかったのは、屋敷で十年身につけた癖でもあり、同時に、相手の立場を理解した上での選択でもあります。「私は、競うつもりはありません」という言葉を、彼女はカミラには伝えません。エミルにだけ伝えます。あの人が、それを聞きたかったかどうか分からないから——というのが、ティナの繊細さです。


エミルの「あんた、本当に、変わった人だな」——あの台詞、書きながら、彼が少しずつティナのことを「特別な人」として認識し始めているのを感じました。彼にとって、ティナは「祖父が辿り着けなかった存在」なだけでなく、「他の誰とも違う考え方をする人」になりつつあります。


カミラは、第11話で「カミラ視点章」として、もう一度本格的に登場します。三十年職人をやってきた女が、ティナの実力を目の当たりにして、自分の何かが揺らぎ始める——その過程を、彼女自身の視点で描きます。


辺境の小さな仕立て屋の物語、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。

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