第5話: 北方の双糸羊毛
翌朝、私は、空き店舗——いいえ、もう空き店舗ではない、ファブリツィア仕立て店の扉を、内側から開けた。
看板が、朝の光を受けて、樫の木目をくっきりと見せていた。
昨日、自分の手で彫った、私の名前。「ファブリツィア仕立て店」。
まだ、それが自分の店であるという実感が、追いついていない。
でも——
扉を開けて、店先の石畳を箒で掃く。それだけのことが、すでに、これまでの十年と、まったく違う種類の朝だった。
空には、薄い秋の雲。風は冷たいが、屋根の銅板は晴れている。
昨日の雨は、もう、跡形もなかった。
午前中、私は、店の中を整え続けていた。
長い作業机を磨く。棚の埃を拭く。針箱を開けて、糸の見本帳を整理する。マリエッタの銀針を、机の片隅の、特別な小箱に納めた。母から受け継いだ古い銀の指ぬきも、その隣に。
一人で作業をしていると、時々、視界の端で、誰かの気配がした。
顔を上げると——ソーヤー布商店の窓の向こうから、エミルが、こちらを見ていた。
彼は、私と目が合うと、すぐに視線を逸らした。胸ポケットからリボンを一本取り出して、整理しているふりをする。
……可愛らしい人だ、と思った。
屋敷では、私はそういう感想を、誰にも持ったことがなかった。
お客が来るかどうか、彼も心配しているのだろう。
あるいは、来てほしくない、と思っているかもしれない。
彼の表情からは、両方の気持ちが、同時に読み取れた。
最初のお客は、昼を少し過ぎた頃、扉の前に立った。
中年の男。深い茶色の髪、日焼けした顔、商人らしい大きな背負い袋。けれど、彼が羽織っている外套は——
ひどい状態だった。
肩のあたりが裂け、裾には泥が固まり、襟元の縫い目はほとんど解けかかっている。ボロボロ、という言葉が、これほど似合う外套は、十年見ていなかった。
男は、店に入る前に、看板を一度見上げた。それから、少しだけ躊躇するように扉を叩いた。
「すまん、ここ、仕立て屋か」
ぶっきらぼうな声。けれど、声に温度はあった。
「はい」と、私は答えた。
「ティナ・ファブリツィアです。今朝、開いたばかりです」
男は、目を細めた。
「開いたばかり——か。そりゃ、あんた、客が来るかどうか分からねえだろうな」
「はい」
「俺はヤニ。北方からの旅商人だ。北で羊毛と毛織物を仕入れて、王都の手前まで売り歩いてる。あちこち泊まりながらの暮らしでな、雨にも雪にも、慣れちまったが——」
彼は、肩のあたりに目を落とした。
「実はな、この外套——」
彼は、外套を脱いで、机の上に置いた。
布が、机に落ちた瞬間、私は——息を呑んだ。
布が、悲鳴を上げていた。
長年雨に濡れて、繊維の油が抜けた。何度も無理に洗った跡。擦り切れた裏地。糸の張りが、限界まで弱っている。
……でも。
「捨てるしかないか、と思ってよ。ただ、亡くなった親父の最後の外套でな。新しいのを買う前に、せめて一度くらい、見てもらおうかと」
ヤニの声が、わずかに、低くなった。
亡くなった親父の、最後の外套。
私は、外套に手を置いた。
指先から——布の声が、伝わってきた。
悲鳴を上げているのに、それでも、布は、まだ生きていた。
経糸の張りが、わずかに残っている。緯糸の噛み合わせは弱っているが、芯はまだ折れていない。
これは——とても良い布だ。
「ヤニさん」
私は、顔を上げた。
「この布、まだ、生きています」
ヤニが、目を見開いた。
「北方の双糸羊毛ですね。三年は寝かせて織られた、芯のある声がします。何度雨に打たれても、芯のところまでは、まだ届いていません。経糸を補強して、裏地を一度全部取り替えれば——あと十年は、お父様の外套として、着られます」
声は、いつもより、少しだけ早かった。
布のことを話す時の私は、いつも、そうだった。
ヤニは、しばらく、私を見つめていた。
驚いた、というより、何か理解できない言葉を聞いた、という顔。
「……あんた、何者だ」
「ただの仕立て屋です」
「ただの、で、こんな布、見抜けるか?」
「布は、嘘をつきませんから」
マリエッタの言葉が、私の口から、ふと出ていた。
ヤニは、咳払いをして、外套を私の方へ少し押した。
「頼む。直してくれ。代金は、いくらでも払う」
彼の指は、わずかに震えていた。
強面の旅商人が、ひとつの古い外套を前に、こんなにも丁寧に「直してくれ」と頼む。
その重さが、机の木目を通して、私の指先にも伝わった。
「料金は、銀貨一枚です」
「……一枚でいいのか」
「ええ。私の店の、最初のお客様ですから」
ヤニは、もう一度、私を見つめた。今度は、目を細めて、ふっ、と笑った。
「気骨のある仕立て屋だな。じゃあ、頼んだ」
午後、私は作業に取りかかった。
まず、外套全体を一度、ぬるま湯で慎重に洗う。汚れだけ落として、繊維の油は残す。
乾かしている間に、裏地を解く。古い裏地は、もう使えない。エミルの店から、似た色合いの亜麻布を買ってこよう。
経糸の補強は、双糸羊毛と相性のいい絹糸を使う。
頭の中で、手順が、自然に組み上がっていく。
屋敷で十年やってきたことが、こんなに役に立つ日が来るとは、思っていなかった。
濡れた布を絞る指の力加減。乾いた繊維を起こすブラシの角度。糸の方向を読む目つき。
すべて、屋敷の屋根裏で、誰にも教わらず、ただ手と布の対話だけで覚えたものだった。
肩の裂け目を、まず確かめた。
破れた繊維の周囲を指でなぞると、布が「もう少し優しく扱ってくれ」と訴えてくる気がした。
私は黙って頷いた。
針を入れる前に、補強用の絹糸を、双糸羊毛の経糸の太さに合わせて選んだ。糸が太すぎれば、補修した部分だけが浮く。細すぎれば、強度が足りない。中庸——昨日、樫の板で覚えたばかりの言葉が、また指先に戻ってきた。
針が、布の繊維の間を、ゆっくりと潜る。
経糸を一本飛ばし、緯糸の下を抜けて、また経糸の上に戻る。布の織りの呼吸を壊さないように。
布が、わずかに、ほっとした気がした。「これでいい」と、布が、囁いた気がした。
顔を上げた時、視界の端で、また、誰かの気配がした。
ソーヤー布商店の窓越しに——
エミルが、肘をついて、こちらを見ていた。
今度は、視線を逸らさなかった。
彼は、私が顔を上げたのを確かめて、少しだけ、頷いた。
その頷きが——
なぜか、屋敷で十年聞いたどんな褒め言葉よりも、私の中で、温度を持った。
ハンナが、店の表に出てきて、洗濯物を干し始めた。
彼女は、ちらりと私の店の窓を見た。それから、隣の弟の方を見て、ふっ、と笑った。
「あんた、また見てるのかい」
エミルの「うるさい、姉貴」という、低いけれど慌てた声が、隣の窓越しに、わずかに聞こえた。
私は、笑いを抑えて、針に視線を戻した。
胸の奥で、何かが、温かく揺れていた。
夕方、外套の修繕がほぼ終わる頃、エミルが店に入ってきた。
手には、亜麻布の束。
「裏地用、いるかと思ってな。色合い、これでいいか」
彼が選んでくれた亜麻布は——驚くほど、外套の地と相性がよかった。色味も、織りの細かさも。
私は、布を受け取って、目を細めた。
「ありがとうございます。ぴったりです」
エミルは、それを見て、わずかに、満足そうな顔をした。
彼は、机の上の外套を、しばらく無言で見ていた。私が経糸を補強した部分。新しく解いた裏地。
やがて、彼は、ぽつりと言った。
「……いいな、その縫い目」
三文字の言葉。
けれど、それを言うために、彼が、どれほど黙って見ていたか——
私には、分かった。
「ありがとうございます」
声が、少しだけ、震えた。
屋敷では、私の縫い目を「いいな」と言ってくれた人は、誰一人、いなかった。
エミルは、それ以上は何も言わなかった。
亜麻布の代金として、私が銀貨を渡そうとすると、彼は首を振った。
「最初の客の、最初の修繕だ。これくらいは、貸しにしておけ」
貸し。
その言葉に、私は、笑いそうになった。
「使ったら、返せ。それだけだ」と、看板の彫刻刀の時に彼は言った。
今度の「貸し」は、いつ返せばいいのだろう。
私は、頷くだけにとどめた。
彼は、それで満足したらしく、店に戻っていった。
翌朝、ヤニが、修繕した外套を取りに来た。
彼は、机に置かれた外套を見て、しばらく、言葉を失っていた。
肩の裂けは、もう跡もない。裾の泥も、跡形なく落ちている。新しい裏地は、外套の地と完璧に馴染んでいた。
外側からは、まったく分からない。誰が修繕したかも、どこを直したかも。
ヤニは、外套に手を置いた。
しばらく、目を閉じていた。
「親父」
彼は、小さな声で、呟いた。
「親父、まだ着られるみたいだぜ」
外套の、誰にも見えない場所に手を置いたまま、彼は深く頭を下げた。
「銀貨一枚だったな」
彼は、革袋を取り出して、銀貨を一枚——いや、五枚、机に置いた。
「料金は一枚で結構です」
「いや、そりゃあ、駄目だ」と、彼は首を振った。
「あんたの腕に、銀貨一枚は、安すぎる。ファーデンの市場でな、あんたの噂、しといてやるよ。きっと、客が来る」
ヤニは、外套を羽織って、店を出ていった。
扉が閉まる音。それから、彼の足音が、街道の方へ、ゆっくり遠ざかっていった。
机の上に残された、銀貨五枚。
屋敷で十年働いて、私は、一度も、給金を受け取ったことがなかった。
今、私の前にあるのは、たった五枚の銀貨。
でも——
これは、ティナ・ファブリツィアが、自分の手で、自分の名前で、初めて得た、報酬だった。
私は、銀貨を一枚、一枚、丁寧に手のひらに載せた。
冷たい銀の重み。十年で、初めて、自分の労働の重みを、物として手のひらに感じる感覚。
一枚目は、明日の食料に。
二枚目は、針と糸の材料費に。
三枚目は、暖炉の薪に。
四枚目は、いずれ町長に支払う家賃に。
五枚目は——
しばらく考えて、私は、五枚目を、特別な小箱にしまった。マリエッタの銀針の、隣に。
窓の外で、樫の看板が、朝の風に、軽く揺れていた。
市場でな、あんたの噂、しといてやるよ——ヤニの言葉が、ふと、耳の奥でもう一度、響いた。
信じきれている、とは、まだ言えなかった。
けれど、信じてみたい、と思っている自分がいることに、私は気づいていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第5話、ついにティナの「布目読み」が、外向きに発動しました。これまで彼女は、誰にも見せずに、屋根裏で布の声を聞いてきました。けれど今日、ティナは、自分の指先の声を、初めて他人と分かち合いました。
ヤニという旅商人を、最初の客に選んだのには理由があります。彼の外套は「亡くなった親父の最後のもの」——所有者の人生が、布に染み込んでいる一枚です。ティナが救うのは、外套だけではなく、そこに刻まれた誰かの生涯です。だから「捨てるしかないか」と思っていた男の手元に、銀貨五枚と「親父、まだ着られるみたいだぜ」という言葉が戻ってきます。
エミルの「……いいな、その縫い目」——この三文字を、彼が何時間黙って眺めた後に呟いたか、書きながら思いを馳せました。彼は、本当は「凄い」「綺麗だ」「俺の祖父にも見せたい」、もっと言葉にしたかったはずです。でも、彼が選んだのは、「いいな」のたった一言だけ。彼の不器用さと、ティナへの敬意が、その短さに込められています。
「布は、嘘をつきませんから」——マリエッタの言葉が、ティナの口から自然に出ました。第1話の銀針贈与の場面の言葉が、第5話で生きてくる。物語の中で、誰かの言葉が誰かの口から続いていくのは、書いていて一番嬉しい瞬間です。
第6話、辺境ファーデンの隣町で「都会の道楽だろう」と冷ややかに見ていた、ライバル仕立て屋カミラが本格登場します。三十年針を握ってきた老女と、十年屋敷で縫ってきた令嬢の、最初の顔合わせです。
辺境の小さな仕立て屋の物語、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。
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