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「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


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第4話: 自分の名前を彫る

 翌朝、私は、ソーヤー布商店の二階の小部屋で、目を覚ました。


 昨夜、雨が止んでも私が空き店舗の鍵を持っていないと知ったハンナが、「今夜はここに泊まっていきな。寝具なら、十年前から余ってるから」と言ってくれた。エミルは「姉貴、勝手なことを」と眉を顰めたが、結局、二人で寝具を運ぶのを手伝ってくれた。


 羽毛の薄い掛け布団。麻のシーツ。

 屋敷の屋根裏では、こんなに柔らかいものは、十年間、一度も使わなかった。


 窓から、朝の光が差し込んでいる。

 外では、もう町が動き始めていた。馬の蹄の音、女将たちの挨拶の声、薪を割る音。

 誰も、私を起こしに来ない。

 誰も、私に「今日のドレスはまだか」と問わない。


 私は、しばらく、天井の梁を見つめていた。

 梁は、屋敷の屋根裏のそれより、ずっと低かった。手を伸ばせば、指先が届きそうな高さ。

 けれど、屋敷の梁よりも、ずっと、温かく感じた。




 階下に降りると、ハンナがすでに、朝食の支度をしていた。

 「おはよう。よく眠れた?」


 私は、頷いた。


 「町長んとこ、エミルが連れてってくれるってさ。あの子、口下手だけど、町長とは古い知り合いだから」


 ハンナは、何でもないように言った。

 私は、もう一度、頷いた。


 胸の奥で、何かが、また少しほどけていく音がした。


 屋敷では、人に何かを頼む時は、必ず「お願い」を口にする必要があった。「お願い、できますか」「お手数ですが」「もしご都合がよろしければ」——

 ここでは、ハンナが、勝手に決めてくれていた。私が頼む前に。


 代わりに、私は、ハンナの手伝いを少しだけした。

 パンを切る。湯を沸かす。スプーンを並べる。

 ハンナは、私の手の動きを見て、一度だけ、目を細めた。

 「あんた、手が綺麗だね。指先まで、ちゃんと動く」


 それは、十年で初めて、人から私の指についてもらった、優しい言葉だった。




 町長の家は、広場の南側にあった。


 エミルが先に立って歩いてくれた。歩幅は、相変わらず、私に合わせている。

 「町長、ベルナールってじいさんだ。多少、口は悪いが、悪い人じゃない」


 私が頷くと、エミルは、ふと足を止めた。

 「……あんた、本当に、あの店を借りるつもりか」


 その問いは、私を試しているのではなかった。

 むしろ、彼自身が、半信半疑で確かめている口ぶりだった。


 「はい」


 私は、はっきりと答えた。

 「私、針仕事をして、暮らしていきたいのです」


 エミルは、しばらく、私の顔を見ていた。

 灰青色の瞳が、朝の光の中で、静かに揺れていた。


 「……分かった」


 彼は、それだけ言って、また歩き出した。


 町長ベルナールは、白髪混じりのがっしりとした老人だった。

 半年前から借り手を探していた空き店舗を、ティナと聞いて、ベルナールは目を細めた。

 「伯爵令嬢かい。エミル、この嬢ちゃんは、本物の貴族か?」


 「本物」と私は答えた。「ですが——もう、貴族としては、生きません」


 ベルナールは、一拍、私を見つめた。それから、ゆっくりと、頷いた。

 「ふん。家賃は、月に銀貨二枚。前払いはいらん。三ヶ月、店を続けられたら、その時に払ってくれ」


 信じられなかった。

 屋敷では、家賃という概念さえ、私に縁のないものだった。けれど、辺境の町長は、まだ何も知らない伯爵令嬢に、三ヶ月の猶予を与えた。


 「ありがとう、ございます」


 声が、少しだけ震えた。


 ベルナールは、鍵を私の手のひらに乗せながら、ぶっきらぼうに付け足した。

 「店を続けたいなら、看板を出しな。看板のない店は、辺境じゃ、誰も信用しない」




 空き店舗の扉は、鍵を回した瞬間、少しの抵抗もなく開いた。


 中は、思ったよりも狭くなかった。

 一階には、長い作業机が一つと、棚がいくつか。床は石畳。窓は北側に大きく、光がよく入る。布の色味を見るには、絶妙な向きの店だった。


 半年閉まっていた割には、埃はさほど多くなかった。前の借り手が、丁寧に掃除して出ていったらしい。


 「ここで、いいんだな」


 扉のところで、エミルが言った。


 「はい」


 私は、店の中央に立って、ぐるりと見回した。

 屋敷の仕立て室は、これの三倍は広かった。けれど、屋敷の仕立て室は、私のものではなかった。

 ここは、私のものだ。

 私が、月に銀貨二枚で借りた、私の場所だ。


 扉の上の、外れた看板の留め具。木製の、二本の釘。

 私は、それを、しばらく見上げていた。


 「看板を、自分で、彫りたいのです」


 声に出した時、私は、少しだけ驚いた。

 声に、迷いがなかったから。


 エミルは、扉の枠にもたれたまま、軽く頷いた。

 「板くらいなら、うちにいくらでもある。彫る道具も、貸せる」


 彼は、それだけ言って、自分の店に戻っていった。




 昼過ぎ、エミルが板と道具を運んできた。


 かしの板。木目が美しく、手のひらにのる程度の小さな看板にちょうどいい大きさ。彫刻刀は三本。父から受け継いだものだ、とエミルは短く付け加えた。

 「使ったら、返せ。それだけだ」


 道具を受け取って、私は、作業机の前に座った。


 窓の外で、町の音が、ゆっくりと流れている。馬の蹄、子どもの笑い声、布商の客の話し声。

 私は、樫の板に、まず、鉛筆で薄く文字を描いた。


 ファブリツィア仕立て店


 二行に分けて。一行目に「ファブリツィア」、二行目に「仕立て店」。

 文字を書きながら、私は、一度、手を止めた。


 ファブリツィア。


 この名前を、私が「自分の名前」として書いたのは——いつ以来だろう。


 屋敷では、私は「ティナお嬢様」だった。あるいは「あの子」だった。あるいは、誰の口にも上らない、ただの「専属職人」だった。

 ファブリツィアという家名を、私自身が誇ってよい場所に書くのは、十二歳でこの家を出る前以来、十年ぶりだった。


 ふと、父の声を思い出した。

 屋敷を出る朝、父は私の頭を撫でて、こう言った。

 「ファブリツィアの娘らしく、堂々としてきなさい」

 私はその時、頷いた。けれど、屋敷についてからの十年で、その「堂々と」は、徐々に見えなくなった。


 父は、私が公爵家でどう扱われていたか、最後まで知らなかったかもしれない。あるいは、薄々察しながら、何もできなかったのかもしれない。

 どちらにせよ——

 今、私は、ここにいる。

 ファブリツィアの娘として、自分の手で、文字を彫っている。


 遅すぎた、とは思わなかった。

 今、ここで彫り直せば、それで、十分なのだ。


 私は、彫刻刀を握った。

 刃の先が、樫の表面に触れる。


 最初の一画——「フ」の縦の線。


 ゆっくりと、力を入れすぎないように、刃を引く。木の繊維が、わずかに、抵抗してくる。布とは違う、けれど、同じくらい敏感な、別の種類の声。


 ……あなたは、生きている。

 私はそう、樫に語りかけた。


 「あなたを、私の名前にしてください」


 樫は、何も言わなかった。けれど、刃を引いた跡に、確かに、文字が現れていた。


 二画目を彫る頃には、私の指の力の入れ加減が、わずかに変わっていた。

 樫は、布のように柔らかくはない。けれど、布と同じく、強く押せば崩れ、弱すぎれば形にならない。中庸の力——それを覚えるのに、十年かかった気がした。

 いま、それが、別の素材で、もう一度、活きていた。


 夕方になる頃、私は「ファブリツィア仕立て店」を、彫り終えていた。


 完璧ではなかった。

 文字の太さが、場所によって少し違う。「ァ」の払いが、わずかに歪んでいる。「店」の最後の一画が、思ったより深く彫れすぎてしまった。


 でも——

 これは、私の手で、私の名前として、初めて世に出した文字だった。


 私は、看板を、扉の上の留め具に取り付けた。

 二本の釘に、革紐で吊るす。


 風がわずかに吹くと、看板はゆっくりと揺れた。革紐の軋みが、軽く、心地よかった。


 夕焼けの光の中で、樫の文字が、わずかに金色に輝いた。


 ファブリツィア仕立て店。


 ティナ・ファブリツィアの店。


 屋敷で十年、誰のものでもなかった私が、初めて、自分の名前で、自分の店を持った瞬間だった。


 通りかかったハンナが、看板を見上げて、ふっ、と笑った。

 「悪くないね。あの『仕立て』の最後の払いが、特に好きだよ」

 彼女は、それだけ言って、店の方へ戻っていった。

 褒め言葉に過剰に反応しない、辺境の女らしい温度。

 胸の奥が、また少しほどけた。


 一段下がったところから、エミルが、無言で、看板を見上げていた。

 しばらくして、彼はぽつりと言った。

 「……『ァ』の払いが、いいな」

 ハンナとは別の場所を褒めたのが、彼らしかった。


 私は、頷いた。

 その頷きに、十年分の「ありがとう」が、込もっていたかどうか——

 少なくとも、私自身は、そう思いたかった。




 その夜。


 私は、店の二階——屋根裏に近い小部屋に、布袋を運び上げた。


 まだ家具はほとんど揃っていない。寝具は、ハンナが「貸すよ」と言って、また持たせてくれた。

 窓の外には、屋根の向こうに、ファーデンの夜空が広がっていた。星が、王都よりずっと、近く見える。


 私は、布袋を解いた。

 針箱。糸の見本帳。母から受け継いだ古い銀の指ぬき。十二歳の私が縫った、不格好なハンカチ。

 そして、マリエッタの銀針。


 銀針を、手のひらに乗せた。

 冷たい。けれど、もう、固くは押し黙っていなかった。


 窓の外で、樫の看板が、夜風にわずかに揺れている。

 革紐が、軽くきしむ音がした。


 ……ファブリツィア仕立て店。


 今日の涙は、屋敷の夜のそれとは、別の種類だった。

 誰かを失う涙ではなく、誰かを取り戻す涙。

 私が、私自身を、十年ぶりに、抱き直した涙。


 頬を、ただ一粒だけ、しずくが伝った。


 声は、出さなかった。

 布袋の中で、銀針が、もう、何も問わなかった。


 ティナ・ファブリツィア。


 それが、私の、名前だ。


 窓を、半分だけ開けた。

 冷たい夜気が、屋根裏の小部屋に、ゆっくりと流れ込んできた。

 遠くで、誰かが小さな歌を口ずさんでいた。子守唄のようでもあり、酔っ払いの戯れ歌のようでもあった。誰の声か、私には分からなかった。

 けれど、その声は、私の眠りの邪魔にはならなかった。


 布袋を枕の横に置き、私は、ハンナの貸してくれた毛布をかぶった。

 まぶたを閉じる前に、一度だけ、樫の看板の方を、思った。


 明日からは、もう——別の種類の朝が、始まる。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第4話、ティナがついに、自分の名前を「文字として」世に出します。彼女が屋敷で十年やってきたのは、布の中に「T.F.」を隠すこと。けれど今日、彼女は、誰でも見られる場所に、自分のフルネームを彫りました。「文字として残す」ことが、彼女にとってどれほど特別な行為か——書きながら、自分でも、少し気が引き締まる思いでした。


樫の木に「ファブリツィア」を彫る場面、最初は「布と同じくらい敏感な、別の種類の声」と書きました。彼女の「布目読み」は、布だけのものじゃない——指先を通じて、世界の素材すべてに耳を澄ませる感覚なのだと、書いていて気づきました。


エミルの「彫る道具も、貸せる」「使ったら、返せ。それだけだ」——あの男、絶対に「使ったら返せ」では済ませない人なのに、わざわざそう言うところに、彼の不器用さがあります。本当はずっと貸していたい。でも、それを言えない。書きながら、彼を応援したくなりました。


町長ベルナールの「家賃は、月に銀貨二枚。前払いはいらん。三ヶ月、店を続けられたら、その時に払ってくれ」——あれは辺境の判断です。王都だったら絶対にあり得ない契約。でも、ファーデンの町長にとっては「店をやろうとしている人を、まず信じて見守る」ことが、町を活かす方法。辺境という場所の性格が、家賃という一行で表せたかと思います。


末尾の涙の場面は、第1話の屋敷の涙と対になります。屋敷で流したのは「過去への涙」、今夜流したのは「自分を取り戻した涙」。同じ「一粒」でも、質がまったく違う。彼女が「もう、泣かない」と決めたのは、屋敷の涙のことであって、新しい場所での解放の涙までは、含まれていなかったのです。


第5話、いよいよティナの仕立て屋に、最初の客がやって来ます。布目読みが、初めて「外に向かって」発動します。


辺境の小さな仕立て屋の物語、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。

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