第3話: 雨と、タオル
馬車が、ファーデンの中央広場で止まった。
御者が後ろから扉を開けてくれる。
私は布袋を抱え直して、ゆっくりと、馬車の外へ降りた。
石畳に足をついた瞬間——靴底から、冷たい湿り気が伝わってきた。雨は止んでいたはずだったのに、空はまた、灰色に翳り始めていた。
「お嬢さん、ここから先はご自身で。お元気で」
御者は、それだけ言って、手綱を引いた。馬車は、来た道とは違う方向へ、ゆっくりと走り去っていく。
車輪の音が、町の活気の中に紛れて、消えた。
私は、布袋を抱えたまま、しばらく立ち尽くしていた。
ファーデンの中央広場。
小さな噴水。井戸。パン屋の煙。布商の軒先に揺れる色とりどりの布。子どもたちの笑い声。
町は、生きていた。誰もが、何かに向かって動いている。
私だけが、何も持っていなかった。
御者に頼んだ目的地——「住める場所と、できれば仕立てができそうな空き店舗を、どこか」。御者は街道に詳しい男で、町に着く前に「広場の北側に、半年前に閉まった店があるって聞いたな」と教えてくれていた。
その店を、自分の足で探さなければならない。
私は、布袋の口紐をぎゅっと握り直して、広場の北側へと、ゆっくり歩き始めた。
空き店舗は、すぐに見つかった。
二階建ての小さな建物。一階は通りに面した店舗、二階は住まいになっているらしい。
看板は、外れていた。木製の留め具だけが、入口の上に残っている。
店先のガラス窓には、薄く埃が積もっていて、向こう側はぼんやりとしか見えない。
扉の取っ手に、手を伸ばしかけた——その時。
雨が、降り始めた。
最初は霧のような細い雨だった。けれど、すぐに、雨粒は大きくなった。秋の終わりの、冷たい雨。
石畳が、見る間に黒く濡れていく。
私は布袋を胸に抱きしめて、店の軒下に身を寄せた。
軒下と言っても、ほとんど屋根がない。雨粒が、肩に、髪に、容赦なく落ちてくる。
誰の家でもない、誰の店でもない、雨に濡れた知らない町の入口で——
私は、布袋一つを抱えて、立ち尽くしていた。
……どうしよう。
扉が、開かない。鍵がかかっているのか、それとも単に固いのか。私は手袋を外して、もう一度取っ手を引いた。動かない。
体が、震え始めた。寒さなのか、緊張なのか、自分でも分からなかった。
馬車の七日間で、私は何度か思った。
誰も私を知らない場所で、誰も私に「専属職人」と言わない場所で、私は新しく始めるのだと。
けれど——
誰も知らないということは、誰も助けてくれないということだった。
誰にも詮索されないということは、誰にも気にかけられないということでもあった。
雨が、頬を打つ。
布袋の中で、マリエッタの銀針が、固く、冷たく、押し黙っている気がした。
その時——
視界の隅で、何かが動いた。
顔を上げると、隣の店の軒先から、一人の男が、こちらへ歩いてくるところだった。
褐色の肌。日に焼けた頬。年は、二十代の半ばくらいだろうか。商人らしい実用的な革のジャケットを羽織っている。胸ポケットには、色とりどりの細いリボンが何本か挿してあった。
……あの男だ。
馬車が町に入った時、布商の軒先で、私を見ていた——
彼は、私の前で立ち止まった。
雨の中、お互いに、しばらく無言だった。
彼は、何も言わなかった。
けれど、彼の右手には、白い布が握られていた。
タオルだ。少し古びた、けれど清潔そうな、厚地のタオル。
彼は、それを、私の方へ差し出した。
「これ、使ってくれ」
ぶっきらぼうな声。けれど、不思議と、冷たくはなかった。
私は、戸惑った。
知らない男から、タオルを差し出された。雨の中で、立ち尽くしている知らない女に、何の見返りも求めずに。
屋敷では——
屋敷では、誰かが私のために、こんな風に何かを差し出してくれることは、なかった。
マリエッタが最後の朝、銀針をくれたあの一回を除いて、十年間、なかった。
私の指は、震えていた。
タオルを受け取るのに、思った以上に時間がかかった。
受け取った瞬間、彼は、もう、私を見ていなかった。
まるで「タオルを渡しただけ」という顔で、軒先の方へ視線を逸らしている。
その距離感が——なぜか、ありがたかった。
屋敷では、人が私に何かを差し出す時、必ず、見返りの視線があった。
差し出されるものより、差し出す側の視線の方が、いつも、重かった。
けれど、この男は——
差し出して、それで終わりだった。
受け取り方を、私に委ねていた。
私は、髪と頬を、ゆっくりと拭った。
タオルからは、布商の店らしい匂いがした。羊毛の油、亜麻布の素朴な香り、それから、ほんのわずかに、男の肌の温もり。
厚地のタオルの繊維を、指先が読んでいた。三年は使い込まれた、けれど丁寧に手入れされたタオル。糸の毛羽が均一に立っている。良い布だ。良い手で扱われている布だ。
「……ありがとう、ございます」
声が、震えた。
彼は、頷いただけだった。
しばらく、雨音だけが、私たちの間にあった。
彼は、軒下に立ったまま、空を見上げている。私の顔を、無理に覗き込もうとはしない。
やがて、彼は、ぽつりと言った。
「……腹、減ってないか」
私は、思わず、顔を上げた。
彼は、相変わらず、こちらを見ていなかった。
空を見上げたまま、続けた。
「うちの店、隣だ。雨が止むまで、入っててくれていい。ちょうど、嫁さん——いや、姉さんが、スープ仕込んだとこだから」
言いかけて、自分で「嫁さん」と言いかけたことに気づいたのか、彼は短く咳払いをした。
頬が、わずかに赤くなった気がした——けれど、それは、雨の冷たさのせいかもしれない。
私は、首を振りそうになって、やめた。
屋敷では、見ず知らずの人の家に上がるなんて、考えられなかった。けれど、ここはもう、屋敷ではなかった。
「……ご迷惑、では」
「迷惑じゃない」
彼は、即座に答えた。
「軒下に立ち尽くしてる人を、見ながら飯食う方が、よっぽど寝覚めが悪い」
その言葉に、私は、思わず、ほんの少しだけ、笑ってしまった。
十年で、何度目かの、本物の笑い。
「……お言葉に、甘えても、いいですか」
「ああ。こっち」
彼は、私の前を、ゆっくりと歩き出した。
歩幅を、私に合わせてくれているのが、すぐに分かった。
彼の店は、すぐ隣だった。
看板には、素朴な木彫りで「ソーヤー布商店」とだけ書かれていた。
扉を開けると、暖かい空気が、私を包んだ。
乾いた羊毛の匂い、亜麻布の素朴な香り、そして——
奥から、コトコトと煮える、スープの音。
店の奥には、小さな台所があった。火を入れた竃の前で、年配の女性が鍋をかき混ぜている。エプロンに、布の継ぎ当てがいくつもあった。
「ハンナ姉、客」
彼が、短く声をかけた。
女性が振り返って、私を見た瞬間——驚いた顔をしたが、それは一瞬だった。
「あら、まあ。こんな雨の中、ご苦労さま。さあ、こっちへ。あったかいの、ちょうど煮えてるから」
ハンナと呼ばれた女性は、すぐに椅子を引いてくれた。竃の前の、一番暖かい場所。
「エミル、あんたタオル取ってきな。お客さん、髪まで濡れてる」
……エミル。
彼の名前は、エミル、と言うのだ。
私は、心の中で、その音を、そっと繰り返した。
エミルは、無言で、奥から新しいタオルを持ってきて、私に差し出した。
今度は、目が合った。
灰青色——いいえ、もっと、深い、温かい色の瞳。
日焼けの中で、少しだけ眩しそうに、こちらを見ていた。
「……名前、聞いてもいいか」
彼が、やっと、最初に「言葉」を発した。
私は、口を開きかけて——少しだけ、迷った。
ティナ・ファブリツィア。
伯爵令嬢。
ランドルフ公爵家の専属職人。
追放された女。
……どれも、ここでは、必要のない肩書きだった。
「ティナ、と申します」
苗字を、言わなかった。
ここでは、伯爵令嬢でも、職人でもない。
ただの、ティナで、いい。
「ティナ、か」
エミルは、頷いた。それ以上、何も訊かなかった。
「俺はエミル。隣の布商人だ。……よろしくな」
よろしく。
その一言に——なぜか、十年分の何かが、私の中で、静かに崩れた。
ハンナが、湯気の立つ深皿を、私の前に置いた。
芋とハーブと、ほんの少しの羊肉。素朴な、辺境のスープ。
「召し上がれ。ここでは、お客さんに名前は要らないけど、温かいものは、要るからね」
私は、震える指で、木のスプーンを握った。
最初の一口。
舌の上に、ハーブの香りと、芋の素朴な甘さが広がった。塩は控えめだった。けれど、控えめだからこそ、芋本来の味が、しっかりと立っていた。
二口目を口に運ぶ前に——私は、止まった。
胸の奥で、何かが、急にほどけたから。
誰も、私に何も求めていなかった。
名前を訊かれない。出自を訊かれない。なぜここに来たのかを訊かれない。
ただ、温かいものを、差し出されていた。
私は、スプーンを握ったまま、しばらく、何もできなかった。
目の奥が、熱くなった。けれど、ここで泣くわけにはいかなかった。
もう、泣かないと決めたのだ。
ハンナは、私の方をちらりと見て——
何も言わずに、暖炉の薪を、もう一本、足してくれた。
炎が、ぱちりと、小さく音を立てた。
その音が、私の中の何かを、押し戻してくれた。
「……いただきます」
もう一度、声に出した。
今度は、震えなかった。
窓の外で、雨が、まだ降っていた。
けれど——
この店の中は、暖かかった。
マリエッタの銀針が、布袋の中で、もう、固くは押し黙っていなかった。
それは、新しい手の温度を、覚え始めようとしていた。
エミルは、向かいの椅子に座ったまま、自分の分のスープを、ゆっくりと食べていた。
時々、私の方を見るのだけれど、目が合うと、すぐに、自分の皿に視線を戻す。
ぎこちない。けれど、嫌な距離感ではない。
ハンナは、また竃の前に戻って、別の鍋をかき混ぜている。
「明日、空き店舗の鍵、町長に聞きにいけばいいよ」と、こちらに背を向けたまま、ハンナが言った。「あの店、半年前から借り手を探してるって。家賃は、まあ、王都に比べれば、笑っちゃうくらい安いから」
明日。
その言葉が、まだ少し、現実離れして響いた。
明日、私は、町長に会いに行く。明日、私は、自分の店を、借りる手続きをする。明日、私は——
長い、長い、十年が、終わったのだ。
雨音の中で、暖炉の薪が、もう一度、小さく音を立てた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第3話、ようやくエミルが本格登場しました。「最初の言葉ではなく、タオルを差し出す」——彼のキャラクターを、これ以上ない形で示せたと思っています。彼は、口数より先に布が動くタイプの男です。商人なのに、布見本ではなくタオルから始まるところが、彼の本質を表しています。
エミルの「嫁さん——いや、姉さん」の言い間違いは、書きながらキャラクターが勝手にやらかしました。彼自身、ティナを最初に見た瞬間に、何かを感じてしまっているのです。けれど、本人はまだそれに気づいていない。書き手としては、そういう瞬間が一番楽しいです。
ハンナという女性が登場しました。エミルの姉、というのが本当のところですが、彼女もこの物語のもう一つの「銀針」を持つ人になります。第2アーク以降、彼女が辺境ファーデンの織り手仲間の中心になっていきます。
ティナが「ティナ、と申します」と苗字を伏せた瞬間——あれは彼女が、十年で初めて「自分の役割」を脱ぎ捨てた瞬間でした。伯爵令嬢でも、職人でもない、ただのティナとして名乗る。そこから、彼女の本当の人生が始まります。
エミルの「俺はエミル。エミル・ソーヤー」——この名乗り、書いている時に、ティナの「マリエッタ」(第1話)と対になる場面だと気づきました。一方は十年閉ざした口でようやく呼ぶ名前、もう一方は出会って数十分の男が当たり前に明かす名前。同じ「名前」なのに、こんなに重さが違う。
第4話は、空き店舗の鍵を借りて、看板を彫る場面です。十年ぶりに、ティナが自分の手で、自分の名前を文字として刻みます。
辺境の小さな仕立て屋の物語、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。
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