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「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


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2/3

馬車で七日

 衛兵のやりが地面に立てられる乾いた音——それが、私の十年の幕引きだった。


 馬車が王都の城門を抜けて、もう半日が過ぎている。


 御者が短く「お嬢さん、王都の最後ですよ」と声をかけた時、私は振り返らなかった。振り返れば、十年の屋根裏部屋に、また心を残してしまう。


 窓の外。白く濡れた石畳の街道。両脇には、葉を落とした街路樹がまだ続いている。秋の終わり——いや、もう冬の入口に近い。


 王都グラシアが、背後の朝霧の中に小さく沈んでいく。


 布袋を膝に抱えたまま、私は窓ガラスに額をつけた。

 冷たかった。その冷たさだけが、私を支えていた。十年分の熱を奪ってくれと、額を押しつけ続けた。


 十年ぶりに見る、王都の外の景色。


 ……ふと、思い出してしまった。

 十年前、この街道を反対方向に走った馬車があったことを。


 乗っていたのは、十二歳の私。

 父が用意した質素な紺色の旅装。母が「忘れないように」と縫ってくれた小さな布袋。袋の中には、母が「いってらっしゃい」と言いながら手に握らせてくれた銀の指ぬきが、たった一つ入っていた。


 「お父様、お母様、私、頑張りますから」


 あの日の私は、馬車の中で、その言葉を何度も繰り返した。

 礼儀作法の修養のため——三年で帰れる、と聞かされていたから。


 三年は、十年になった。


 帰る道は、用意されなかった。


 膝の上の布袋から、私はそっと銀の指ぬきを取り出した。

 十年分、磨り減った縁。柔らかい銀色の艶。

 母の指の温度は、もう思い出せない。手の形も、声の高さも、抱きしめられた時の匂いも——どれもこれも、屋根裏の十年が削り落としてしまった。

 それでも、この指ぬきの重みだけは、私の手のひらに残っている。物が、人の代わりに人を覚えていてくれることがある。母が私のためにこれを握らせた、その指の力だけは、銀の縁の磨り減り方が今でも教えてくれる。




 二日目の朝、再び雨が降り始めた。


 馬車の中で、私は布袋から針箱を取り出した。

 久しぶりに、誰のためでもない、私自身のために、針を握ってみたかった。


 マリエッタの銀針。

 「私の三十年と、お嬢様の十年と。それから、これからの——お嬢様の人生に」


 あの言葉が、まだ、手のひらに残っている。


 針が、銀色に光った。


 ……署名の二重縫いを始めた日のことを、私は、いつでも思い出せる。


 あれは、十三歳の冬だった。


 屋敷に来てから一年半が過ぎ、私は最初の本格的なドレスを仕立て上げたばかりだった。公爵夫人がお召しになる、夜会用の一着。襟元の刺繍だけで三日かかった。布が、私の手の中で、初めて「鳴いた」気がした夜だった。


 翌朝、夫人が私を呼んだ。


 「これからは、私の専属職人として、よろしく頼みますよ」


 夫人は、上品な笑みを浮かべていた。

 私は伯爵令嬢で、家から派遣された貸与の身分。けれど夫人の口ぶりは、もう「貴族令嬢」を扱う口ぶりではなかった。


 「ただし——表に署名は残さないこと。職人組合のルールがあるのは知っているけれど、ランドルフ家の格を考えれば、わかるでしょう?」


 頷いたのか、口で答えたのか、覚えていない。

 覚えているのは、自分の喉が、嘘をつくみたいに痛んだことだけだ。

 わかっていた。「はい」以外の答えを返せば、家には帰れない。三年で帰れると父は言った。あの言葉だけを胸の真ん中に置いて、私は十三歳の口を動かした。


 夫人の口元が、私の声を聞いた瞬間にほんの少し緩んだ。その緩みを、私は今でも覚えている。


 部屋を出る時、夫人は最後に一言、付け足した。

 「あなたは、本当に、聞き分けの良い子ね」


 その夜、屋根裏のベッドの中で、私は初めて自分の片手が震えていることに気づいた。布を縫う時には絶対に震えない手が、自分の意志を裏切るように震えていた。

 布袋の底を確かめた。母から贈られた銀の指ぬきが、奥にしまってあった。

 誰にも見られないように。誰にも、取り上げられないように。


 その夜、屋根裏の小さな部屋で、私は次に縫い始める一着の絹を、机に広げた。


 二重縫い、という技がある。

 表からも裏からも糸の存在を消す、難しい縫い方。一針につき糸が二度、布の繊維に潜り、また、出てくる。

 その技を使えば——裏地に「T.F.」と縫い込んでも、誰にも気づかれない。


 私の十三歳の冬、最初の「T」が、震える指で、布の中に隠れた。


 縫い終わった時、私はその文字に、声を出さずに語りかけた。


 誰にも見つからないように。

 誰かに見つかった時には——もう、遅いように。


 その夜、私は決めた。

 これから縫うすべてのドレスの、誰も触れない裏地に、「T.F.」を縫い込む。一着ごとに、ひと縫いずつ、十年でも、二十年でも。

 いつか、誰かが裏地を裏返す日まで。


 糸を引き抜いた指先に、布の鼓動だけが残っていた。




 四日目。


 雨で街道がぬかるみ、馬車の進みが悪くなった。御者が「この辺で一日、宿を取ろう」と言う。私は頷いた。急ぐ理由は、何もなかった。


 寂れた宿屋の二階の小部屋。窓を開けると、灰色の山並みが、雨の向こうに連なっていた。


 火の入った小さな暖炉の前で、私は布袋からハンカチを取り出した。

 十二歳の私が、初めて自分のために縫った、最初で最後の一枚。

 下手くそで、目の揃わない刺繍。隅に小さな花を縫おうとして、花弁が四枚しか揃わなかった、不格好なハンカチ。


 十年間ずっと、布袋の底にしまっていた。

 屋敷では、私が私のために何かを持つことは、許されていなかったから。


 今は——もう、しまっておかなくて、いい。


 私は、ハンカチを膝の上に広げた。

 その不格好な四枚花弁の刺繍を、指先で、そっとなぞる。


 「ありがとう」


 声に出さなかった。けれど確かに、私はそう思った。

 あなたが最初に縫ってくれたから——十三歳の冬の私が、もう一度針を持てたから。


 窓の外で、雨が弱まった。


 階下からは、宿の薪が爆ぜる音と、誰かの低い笑い声が聞こえた。

 屋敷では、誰の笑い声も、私の屋根裏には届かなかった。

 笑い声が当たり前に響く場所がある——それだけのことを思い知るのに、私は十年かかった。




 ハンカチを膝に置いたまま、私はもう一つ、別の冬を思い出していた。


 十四歳の二月。寒さが厳しかった年だった。

 屋根裏の小さな部屋には、暖炉なんて贅沢なものは置かれていない。私は薄い毛布にくるまって、震えながら、母君の祝祭ドレスを縫っていた。期限は翌朝。糸が指から滑り、針が、何度も小さな傷を作った。


 寒さで指先がかじかんで、感覚がなくなった頃——私は、自分の指の傷から血が出ていることに、気づかなかった。


 絹の白地に、点のような赤い染み。

 私は息を止めた。


 血を、ぬるま湯で慎重に拭った。それから、染み抜きの薬を布の繊維に染み込ませて、夜明け前まで、四度、布を洗った。


 絹は、傷んだ。けれど、染みは消えた。

 私はその一着の裏地に、いつもより少しだけ太く、「T」を縫い込んだ。誰にも見つからない場所に。

 

 それが、私の、十四歳の冬の証拠だった。




 六日目の夜。


 ファーデンまで、あと一日。


 宿屋の小部屋で、私は布袋を膝に置いたまま、最後の夜のことを思い出していた。


 屋敷を出る、その前夜——四日前のこと。


 仕立て室は、すでに私のものではなくなっていた。鍵が外され、明日には新しい職人が入ると聞かされていた。けれど、最後の一着——母君のドレスだけは、まだ、仕立て室の長机に置かれたままだった。


 あの夜、私は灯りを持って、忍び足で仕立て室に入った。

 もう一度だけ、あのドレスに触れたかった。


 裏地の「T.F.」は、もう縫い込まれていた。

 いつもの場所、いつもの位置、いつもの二重縫い。


 けれど、その夜、私は針を持って、別の場所にも、もう一つだけ刺繍を入れた。


 ドレスの裾の縫い代の、誰も触れない、誰も見ない場所。

 ごく小さく。糸の色を、絹の地と同じ淡い金に合わせて。


 縫った文字は、たった一行だった。


 ——これが、私の、最後の、署名です。


 たった、それだけ。

 誰のためでもなかった。あえて言うなら、いつか、あの裏地に気づいた誰かのため。


 針を抜くのに、思った以上に時間がかかった。糸が震える指の間で何度か絡みかけた。

 最後の文字「す」を縫い終わった時、灯りの炎が滲んだ。

 頬を、涙が伝った。


 私は、それを拭わなかった。

 拭えば終わってしまう。十年が、十年のまま固まって、二度と取り戻せなくなる。

 涙は布の上に落ちた。絹は塩を吸わない。けれど私の頬から落ちた一粒は、確かに、その場所で乾いた。

 誰にも見つからないだろう。誰かが見つけた時には、もう私はここにいない。それでよかった。


 その夜、私は仕立て室の長椅子で、ドレスを抱いたまま朝まで眠った。

 最後の夜だけ、あのドレスは私のものだった。


 誰の専属でもなく、誰の母君のものでもなく、ただ私が十年かけて自分の手で生み出した、私の一着。


 夜明けが近づいた頃、私は一度だけ、ドレスから顔を上げた。

 仕立て室の窓の向こうで、灰色の空に薄いだいだいが滲み始めていた。

 明けゆく王都の最後の朝。

 私はこの風景を、もう二度と見ない。


 窓に、もう一度、額をつけた。

 冷たかった。冷たくて、ありがたかった。十年で凝り固まった私の額を、その冷たさだけが、ようやく溶かしてくれた。




 七日目の夜明け前、御者の声で、私は目を覚ました。


 「お嬢さん、もう少しですよ。山を一つ越えれば、ファーデンが見える」


 私は布袋を抱え直して、馬車の窓に身を寄せた。


 夜明けの空が、街道の向こうで、薄い金色に染まり始めている。

 雨は止んでいた。冷たい風が、頬を撫でた。


 馬車が、最後の山の頂上を越えた瞬間——


 眼下に、小さな町が広がっていた。


 ファーデン。


 灯りが、まだ家々の窓に点っている。早朝の薪の煙が、町の上にゆっくりと立ち上っていた。

 石造りの古い家屋、街道沿いに並んだ商店、町の中央には小さな噴水。

 王都ほど、派手ではない。

 けれど、町全体に、不思議と、温かい呼吸があった。


 ここが、これからの私の場所。


 誰も私を知らない場所。

 誰も私に「専属職人」だと偽らせない場所。

 誰も私に「地味な針仕事しかできない」と言わない場所。


 馬車が、町の入口に近づいていく。

 私は布袋の口紐をもう一度しっかりと結び直した。

 マリエッタの銀針が布袋の中で小さく音を立てた。


 行こう。


 ティナ・ファブリツィア——私の名前で、私の人生をここから始める。


 馬車が、ファーデンの石畳の上をゆっくりと走り始めた。


 町の朝が動き出していた。

 パン屋らしき店の前で、年老いた女将が薪をくべている。

 布商と思しき店の前では、まだ若い男が、店の軒先に色とりどりの布を吊るしているところだった。

 子どもが二人、井戸の方へ駆けていく。


 誰も、私を見ていない。

 誰も、私を「専属職人」とは思っていない。

 誰も、私の手の中に、何があるかを知らない。


 その「知られていなさ」が、十年で初めて、私の胸を温めた。


 町の人々は、まだ誰も気づいていない。ただの旅人だと思っているだろう。


 けれど——


 馬車が町の中ほどに差しかかった時。

 石畳の脇、布商らしき店の軒先で、若い男がふと顔を上げた。

 吊るしかけた色とりどりの布のあいだから、彼は馬車の中の私を、まっすぐに見ていた。


 私と目が合った。


 彼の視線が、私の手元の布袋に落ちた。それから私の指——指ぬきの跡が刻まれた左手の中指に、止まった。


 布商の目だった。

 布の良し悪しを、一瞬で見抜く目。

 そして、布を扱う人間の手を、ひと目で見抜く目。


 彼は何も言わなかった。視線を布の方へ戻して、また仕事を続けた。


 馬車は、そのまま町の奥へと進んでいく。


 布袋の中で、銀針がもう一度音を立てた。

 まるで、何かを始めなさいと、せかすように。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


第2話は、馬車で七日間の旅と、ティナの十年の回想を重ねる構成にしました。十年全部を一話で語るのは無理なので、「署名の二重縫いを始めた十三歳の冬の日」と「屋敷を出る前夜にドレスの裾へ密かに残した最後の署名」の二つに焦点を絞っています。


「——これが、私の、最後の、署名です」——あの場面、書いている時に、ティナが本当に「最後」だと信じていたのか、それとも心のどこかで「いつか誰かが見つけてくれる」と願っていたのか、自分でも分からなくなりました。読者の皆さんはどう感じられたでしょうか。


ティナが膝に抱えている銀の指ぬきは、母から受け継いだもの。十年で削れた縁が、母の顔の記憶よりずっと長く、彼女と一緒にいました。物が、人の代わりに人を覚えていてくれることが、たまにあります。


辺境の小さな仕立て屋の物語、ゆっくりお付き合いいただければ嬉しいです。

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