表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/4

第1話: 半年前と半年後

 針を握って五十年、私の指は、こんなふうに震えたことがなかった。


 よわい七十二。私——マリエッタ・コルッツィは、王宮の衣装室で、ドレスの裏地に手を伸ばそうとしていた。


 春先の柔らかな陽が、衣装室の奥まで差し込んでいる。


 王妃エレオノーラ陛下が、ランドルフ公爵家の老侍女頭である私を、特別に召喚なさったのだ。亡き先王妃様から譲られた古いドレスの修繕——表向きはそういう用件だった。


 けれど、本当は——このドレスを縫った人を、私は知っている。

 そして王妃陛下も、おそらく、もう察していらっしゃる。


 淡い金糸の刺繍。深い青の絹。襟元の繊細な縫い目の流れ。

 間違いない。これは、あの子の手だ。


「マリエッタ。何か見つけたら、すぐに知らせてちょうだい」


 王妃エレオノーラ陛下のお声が、隣の部屋から届いた。私は、はい、と短く答える。


 手のひらに、十年分の重みがある。


 ティナお嬢様が公爵家を追われて、半年。社交界はいまだに、誰があの華やぎを支えていたのか分からないままだ。ランドルフ公爵家が囲い込み、嘘をつき続けた十年。あの子は専属職人と偽られ、給金もなく、名も与えられず、ただ針だけを動かし続けた。


 でも、あの子は——一度だって、自分の名を諦めなかった。


 私は知っている。あの夜、最後のドレスを縫い終えた指先が、何を残していったのか。


 誰にも見えない、布の裏側に。


 糸と糸の合間に。


 息を潜めるように、ひっそりと。


 ……お嬢様。

 お嬢様の十年が、まもなく光を浴びるのです。


 もう、遅い。

 遅すぎるけれど、それでも——あの子の名前が、今、ようやく世に出ます。


 私は、震える指先を、ドレスの裏地にそっと伸ばした。

 二重縫いの裏地に、ゆっくりと、手をかける。


 お嬢様の、十年——


 ……どうか、間違いでありませんように。

 いいえ。間違いであるはずがない。あの子の縫い目を、私は、ほかの誰よりも長く見てきたのだから。




 雨の朝だった。


 公爵家ランドルフの仕立て室で、私——ティナ・ファブリツィアは、最後のドレスの裏地に、針を入れていた。


 半年前のこと。


 窓の外では、街路樹の葉がほとんど落ちきっていた。秋の終わり。冷えた雨が、屋根の銅板を一定の間隔で叩いている。


 手元のドレスは、王妃陛下の生誕祝賀会で、公爵夫人がお召しになる一着。襟元には金糸の刺繍。裾には朝霧をかたどった絹のレース。


 十年で、四百三十二着目。

 私が手がける、最後の一着。


 誰にも見えない裏地の片隅に、私は二重縫いで、二文字を縫い込んだ。


 T と、F。


 ティナ・ファブリツィア。


 いつもの署名。ただし——いつもより、ほんの少しだけ丁寧に。これが本当に最後だと、知っていたから。


 糸を引き締めると、布が静かに整った。布が、最後に小さく息をついた気がした。


「ティナ」


 扉が開く音。私は針を置き、ゆっくりと振り返った。


 ヴィクトル・ランドルフ様。私の婚約者——いいえ、おそらく、もう過去形だろう。


 雨に濡れた前髪をそのままに、彼は仕立て室の入口で腕を組んでいた。羽織っているのは、最高級の北方羊毛で仕立てた長外套。私が縫った、最後から二番目の作品だ。


 彼は、自分が着ているそれを、私が縫ったとは知らない。


「もう、用意は済んだか」


 声は冷たい。雨音より冷たい。


「はい」


 私は、それだけ答えた。


「その『はい』が、十年も続いたな」と彼は笑った。「お前は本当に、何も言わない女だ」


 私は黙っていた。十年、ずっと黙っていた。何を言っても無駄だと、最初の年に学んだから。


 彼は近づいてきた。私の手元——縫い終わったばかりの、母君のドレスを、無造作に掴み上げる。


 その瞬間、布が、悲鳴のようにきしんだ気がした。

 でも、それを聞き取れるのは、おそらく、この部屋では私一人だけだ。


「これが最後だ」


 と、彼は言った。


「お前の針仕事など、誰でもできる」


 雨音が、急に遠くなった。


「地味な縫い物しか取り柄のない女は、もう要らない。母上もそう仰っている」


 地味な、針仕事。

 誰でもできる、針仕事。


 その言葉が、私の指先から、十年分の温度をゆっくりと奪っていく。


 でも私は、表情を変えなかった。

 それも、十年で覚えたことだ。


 彼は続けた。

「お前の代わりは、いくらでもいる。社交界のドレスを縫える者など、王都にいくらでもいるだろう。これからは、もっと若くて、もっと見栄えのする者を雇う」


「そうですか」


 私が短く返すと、彼は一瞬、言葉を止めた。

 私が「そうですか」以外の言葉を発するのを、半ば期待していたのかもしれない。怒り。哀願。涙。


 けれど、それらは、もう全て、十年前に枯れている。


「……荷物をまとめろ。明日の朝までに、屋敷を出ていけ」


「はい」


 彼は、最後のドレスを乱暴に椅子に投げ捨てると、雨の中へ出ていった。


 扉が閉まる。

 私は、椅子に投げ捨てられたドレスを、そっと手で抱き寄せた。


 大丈夫。

 あなたは、ちゃんと縫えている。

 裏地に、ちゃんと、私の名が残っている。


 糸は、覚えている。




 その夜、私は屋根裏の小さな部屋で、荷物を整理していた。


 持っていけるものは、ほとんどない。針箱。糸の見本帳。母から受け継いだ古い銀の指ぬき。それから、十年前——十二歳でこの屋敷に来た年に、私が初めて自分のために縫ったハンカチ。下手くそで、目が揃っていなくて、けれど、自分のために縫った最初で最後の一枚。


 全部で、布袋ひとつにおさまった。

 十年分の私が、これだけだった。


 窓の外は、まだ雨だった。屋根を打つ音が、規則正しく続いている。屋根裏のはりには、雨水の染みが幾つも残っていた。十年、見続けた染み。場所ごとに名前まで付けた。窓際のは「冬の渡り鳥」、奥のは「夜咲きの花」。一人の夜に、私が勝手に名付けた染み。


 雨は、嫌いではなかった。

 雨の日は、布が湿気を吸って、糸の通りが少し変わる。それを指先で読みながら縫うのが、好きだった。布が、いつもより小さな声で鳴くから——「今日はゆっくり縫ってね」と、布が言うから。


 十年で、忘れてしまった日もある。

 ヴィクトル様の名前を覚えた日。屋敷に着いた最初の朝、母が私の頭を撫でた感触を、思い出せなくなった日。十二歳の冬、寒さで指がかじかんで、指の皮膚が裂けて、血が絹に染みた日。雪の朝、母君のドレスの裾を縫いながら、自分が誰のために何を縫っているのか、ふと分からなくなった日。


 たくさん、忘れた。

 たくさん、抱えてきた。


 そして、それでも——裏地の「T.F.」だけは、忘れずに、毎回縫い続けた。


 私は布袋の口を絞り、紐を結んだ。


 最後にもう一度、私が縫ったあのドレスを思い出す。


 裏地の「T.F.」。


 あれが、私の十年だった。


 今までの全てのドレス。四百三十二着、その全ての裏地に、私は十年間ずっと、自分の名を残し続けた。誰にも見えない場所に、息を潜めるようにして。


 いつか誰かが、見つけてくれるだろうか。


 ふと、そんなことを思って——私は静かに首を振った。


 誰にも見つからなくても、いい。


 糸は覚えている。それで、十分だ。


 私は灯りを消し、布袋を抱えたまま、屋根裏の冷たい床に膝をついた。

 頬を、一筋だけ、温かいものが伝った。


 ……これが、最後にしよう。

 もう、泣かない。


 私は、誰の名でもない、私の名で、生きていく。


 ティナ。

 ティナ・ファブリツィア。


 それが、私の名前だ。




 夜明け前、まだ雨が降っている時間に、私は屋敷を出た。


 誰にも見送られない——そう思っていた。当然だ。十年間、私を見送る理由のある者など、屋敷には誰もいなかった。


 けれど、裏門の石畳の上に、ひとつだけ、小さな影があった。


「お嬢様」


 年老いた侍女頭マリエッタが、雨に濡れた灰色のショールを羽織って、私を待っていた。


 白髪に、雨の雫が光っている。皺だらけの手が、私の手を取った。冷たいけれど、確かな重みのある手だった。


「これを」


 手のひらに、銀色の小さな何か。

 目を凝らすと、それは、彼女の若い頃に使っていた古い銀針だった。柄に、年季の入った磨きの痕がある。


「私の三十年と、お嬢様の十年と。それから、これからの——お嬢様の人生に」


 私は、その針を握った。冷たく、けれど、確かな重みがあった。


 胸の奥が、震えた。


「マリエッタ」と、私は初めて、彼女の名を口にした。十年で、初めて。


「お嬢様」


 ただ、頭を下げた。深く、深く、何度も。

 言葉は、出てこなかった。


 マリエッタは、私の手を、もう一度ぎゅっと握った。


「行きなさい。お嬢様の場所は、ここではないのです」


 私は、頷いた。


「いつか」と、彼女は言った。声は、雨音にかき消されそうなほど小さく、けれど、はっきりと届いた。


「いつか、あの裏地を見つける者が現れます。糸は、嘘をつきませんから」


 私は、もう一度頷いた。


 馬車に乗り込む時、私は一度も、屋敷を振り返らなかった。


 振り返ってしまえば、きっと、もう一度泣いてしまう。

 もう、泣かないと決めたのだ。




 馬車の窓から、雨が斜めに流れていく。


 御者は、北東の街道を選んでいた。私が指示した行き先は、ファーデン——王都から馬車で七日離れた、辺境の街道町。


 誰も私を知らない場所。

 誰も私に「専属職人」だと偽らせない場所。

 誰も私に「地味な針仕事しかできない」と言わない場所。


 布袋を膝に抱えて、私は目を閉じた。


 十年が、終わった。


 名もなく、給金もなく、ただ縫い続けた十年。誰の母の専属と偽られ、誰の家の名誉のために針を動かしていたのか——もう、どうでもいい。


 ただ、一つだけ。


 裏地の「T.F.」だけは——今も、四百三十二着のドレスの中で、息を潜めて生きている。


 いつか、誰かが見つけてくれるだろうか。

 見つけてくれなくても、いい。


 糸は、覚えていますから。


 馬車が走り出す。雨が、王都の風景を、私の背後でゆっくりと洗い流していく。


 私は、目を閉じたまま、唇の端で小さく笑った。


 握った銀針が、手のひらの中で、確かに重かった。


 それだけで、私は——進めた。


 馬車の車輪が、石畳を打ちながら、雨の街道を北東へ走り出す。

 雨音が、王都の音を、少しずつ遠ざけていった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ