第1話: 半年前と半年後
針を握って五十年、私の指は、こんなふうに震えたことがなかった。
齢七十二。私——マリエッタ・コルッツィは、王宮の衣装室で、ドレスの裏地に手を伸ばそうとしていた。
春先の柔らかな陽が、衣装室の奥まで差し込んでいる。
王妃エレオノーラ陛下が、ランドルフ公爵家の老侍女頭である私を、特別に召喚なさったのだ。亡き先王妃様から譲られた古いドレスの修繕——表向きはそういう用件だった。
けれど、本当は——このドレスを縫った人を、私は知っている。
そして王妃陛下も、おそらく、もう察していらっしゃる。
淡い金糸の刺繍。深い青の絹。襟元の繊細な縫い目の流れ。
間違いない。これは、あの子の手だ。
「マリエッタ。何か見つけたら、すぐに知らせてちょうだい」
王妃エレオノーラ陛下のお声が、隣の部屋から届いた。私は、はい、と短く答える。
手のひらに、十年分の重みがある。
ティナお嬢様が公爵家を追われて、半年。社交界はいまだに、誰があの華やぎを支えていたのか分からないままだ。ランドルフ公爵家が囲い込み、嘘をつき続けた十年。あの子は専属職人と偽られ、給金もなく、名も与えられず、ただ針だけを動かし続けた。
でも、あの子は——一度だって、自分の名を諦めなかった。
私は知っている。あの夜、最後のドレスを縫い終えた指先が、何を残していったのか。
誰にも見えない、布の裏側に。
糸と糸の合間に。
息を潜めるように、ひっそりと。
……お嬢様。
お嬢様の十年が、まもなく光を浴びるのです。
もう、遅い。
遅すぎるけれど、それでも——あの子の名前が、今、ようやく世に出ます。
私は、震える指先を、ドレスの裏地にそっと伸ばした。
二重縫いの裏地に、ゆっくりと、手をかける。
お嬢様の、十年——
……どうか、間違いでありませんように。
いいえ。間違いであるはずがない。あの子の縫い目を、私は、ほかの誰よりも長く見てきたのだから。
雨の朝だった。
公爵家ランドルフの仕立て室で、私——ティナ・ファブリツィアは、最後のドレスの裏地に、針を入れていた。
半年前のこと。
窓の外では、街路樹の葉がほとんど落ちきっていた。秋の終わり。冷えた雨が、屋根の銅板を一定の間隔で叩いている。
手元のドレスは、王妃陛下の生誕祝賀会で、公爵夫人がお召しになる一着。襟元には金糸の刺繍。裾には朝霧をかたどった絹のレース。
十年で、四百三十二着目。
私が手がける、最後の一着。
誰にも見えない裏地の片隅に、私は二重縫いで、二文字を縫い込んだ。
T と、F。
ティナ・ファブリツィア。
いつもの署名。ただし——いつもより、ほんの少しだけ丁寧に。これが本当に最後だと、知っていたから。
糸を引き締めると、布が静かに整った。布が、最後に小さく息をついた気がした。
「ティナ」
扉が開く音。私は針を置き、ゆっくりと振り返った。
ヴィクトル・ランドルフ様。私の婚約者——いいえ、おそらく、もう過去形だろう。
雨に濡れた前髪をそのままに、彼は仕立て室の入口で腕を組んでいた。羽織っているのは、最高級の北方羊毛で仕立てた長外套。私が縫った、最後から二番目の作品だ。
彼は、自分が着ているそれを、私が縫ったとは知らない。
「もう、用意は済んだか」
声は冷たい。雨音より冷たい。
「はい」
私は、それだけ答えた。
「その『はい』が、十年も続いたな」と彼は笑った。「お前は本当に、何も言わない女だ」
私は黙っていた。十年、ずっと黙っていた。何を言っても無駄だと、最初の年に学んだから。
彼は近づいてきた。私の手元——縫い終わったばかりの、母君のドレスを、無造作に掴み上げる。
その瞬間、布が、悲鳴のように軋んだ気がした。
でも、それを聞き取れるのは、おそらく、この部屋では私一人だけだ。
「これが最後だ」
と、彼は言った。
「お前の針仕事など、誰でもできる」
雨音が、急に遠くなった。
「地味な縫い物しか取り柄のない女は、もう要らない。母上もそう仰っている」
地味な、針仕事。
誰でもできる、針仕事。
その言葉が、私の指先から、十年分の温度をゆっくりと奪っていく。
でも私は、表情を変えなかった。
それも、十年で覚えたことだ。
彼は続けた。
「お前の代わりは、いくらでもいる。社交界のドレスを縫える者など、王都にいくらでもいるだろう。これからは、もっと若くて、もっと見栄えのする者を雇う」
「そうですか」
私が短く返すと、彼は一瞬、言葉を止めた。
私が「そうですか」以外の言葉を発するのを、半ば期待していたのかもしれない。怒り。哀願。涙。
けれど、それらは、もう全て、十年前に枯れている。
「……荷物をまとめろ。明日の朝までに、屋敷を出ていけ」
「はい」
彼は、最後のドレスを乱暴に椅子に投げ捨てると、雨の中へ出ていった。
扉が閉まる。
私は、椅子に投げ捨てられたドレスを、そっと手で抱き寄せた。
大丈夫。
あなたは、ちゃんと縫えている。
裏地に、ちゃんと、私の名が残っている。
糸は、覚えている。
その夜、私は屋根裏の小さな部屋で、荷物を整理していた。
持っていけるものは、ほとんどない。針箱。糸の見本帳。母から受け継いだ古い銀の指ぬき。それから、十年前——十二歳でこの屋敷に来た年に、私が初めて自分のために縫ったハンカチ。下手くそで、目が揃っていなくて、けれど、自分のために縫った最初で最後の一枚。
全部で、布袋ひとつにおさまった。
十年分の私が、これだけだった。
窓の外は、まだ雨だった。屋根を打つ音が、規則正しく続いている。屋根裏の梁には、雨水の染みが幾つも残っていた。十年、見続けた染み。場所ごとに名前まで付けた。窓際のは「冬の渡り鳥」、奥のは「夜咲きの花」。一人の夜に、私が勝手に名付けた染み。
雨は、嫌いではなかった。
雨の日は、布が湿気を吸って、糸の通りが少し変わる。それを指先で読みながら縫うのが、好きだった。布が、いつもより小さな声で鳴くから——「今日はゆっくり縫ってね」と、布が言うから。
十年で、忘れてしまった日もある。
ヴィクトル様の名前を覚えた日。屋敷に着いた最初の朝、母が私の頭を撫でた感触を、思い出せなくなった日。十二歳の冬、寒さで指がかじかんで、指の皮膚が裂けて、血が絹に染みた日。雪の朝、母君のドレスの裾を縫いながら、自分が誰のために何を縫っているのか、ふと分からなくなった日。
たくさん、忘れた。
たくさん、抱えてきた。
そして、それでも——裏地の「T.F.」だけは、忘れずに、毎回縫い続けた。
私は布袋の口を絞り、紐を結んだ。
最後にもう一度、私が縫ったあのドレスを思い出す。
裏地の「T.F.」。
あれが、私の十年だった。
今までの全てのドレス。四百三十二着、その全ての裏地に、私は十年間ずっと、自分の名を残し続けた。誰にも見えない場所に、息を潜めるようにして。
いつか誰かが、見つけてくれるだろうか。
ふと、そんなことを思って——私は静かに首を振った。
誰にも見つからなくても、いい。
糸は覚えている。それで、十分だ。
私は灯りを消し、布袋を抱えたまま、屋根裏の冷たい床に膝をついた。
頬を、一筋だけ、温かいものが伝った。
……これが、最後にしよう。
もう、泣かない。
私は、誰の名でもない、私の名で、生きていく。
ティナ。
ティナ・ファブリツィア。
それが、私の名前だ。
夜明け前、まだ雨が降っている時間に、私は屋敷を出た。
誰にも見送られない——そう思っていた。当然だ。十年間、私を見送る理由のある者など、屋敷には誰もいなかった。
けれど、裏門の石畳の上に、ひとつだけ、小さな影があった。
「お嬢様」
年老いた侍女頭マリエッタが、雨に濡れた灰色のショールを羽織って、私を待っていた。
白髪に、雨の雫が光っている。皺だらけの手が、私の手を取った。冷たいけれど、確かな重みのある手だった。
「これを」
手のひらに、銀色の小さな何か。
目を凝らすと、それは、彼女の若い頃に使っていた古い銀針だった。柄に、年季の入った磨きの痕がある。
「私の三十年と、お嬢様の十年と。それから、これからの——お嬢様の人生に」
私は、その針を握った。冷たく、けれど、確かな重みがあった。
胸の奥が、震えた。
「マリエッタ」と、私は初めて、彼女の名を口にした。十年で、初めて。
「お嬢様」
ただ、頭を下げた。深く、深く、何度も。
言葉は、出てこなかった。
マリエッタは、私の手を、もう一度ぎゅっと握った。
「行きなさい。お嬢様の場所は、ここではないのです」
私は、頷いた。
「いつか」と、彼女は言った。声は、雨音にかき消されそうなほど小さく、けれど、はっきりと届いた。
「いつか、あの裏地を見つける者が現れます。糸は、嘘をつきませんから」
私は、もう一度頷いた。
馬車に乗り込む時、私は一度も、屋敷を振り返らなかった。
振り返ってしまえば、きっと、もう一度泣いてしまう。
もう、泣かないと決めたのだ。
馬車の窓から、雨が斜めに流れていく。
御者は、北東の街道を選んでいた。私が指示した行き先は、ファーデン——王都から馬車で七日離れた、辺境の街道町。
誰も私を知らない場所。
誰も私に「専属職人」だと偽らせない場所。
誰も私に「地味な針仕事しかできない」と言わない場所。
布袋を膝に抱えて、私は目を閉じた。
十年が、終わった。
名もなく、給金もなく、ただ縫い続けた十年。誰の母の専属と偽られ、誰の家の名誉のために針を動かしていたのか——もう、どうでもいい。
ただ、一つだけ。
裏地の「T.F.」だけは——今も、四百三十二着のドレスの中で、息を潜めて生きている。
いつか、誰かが見つけてくれるだろうか。
見つけてくれなくても、いい。
糸は、覚えていますから。
馬車が走り出す。雨が、王都の風景を、私の背後でゆっくりと洗い流していく。
私は、目を閉じたまま、唇の端で小さく笑った。
握った銀針が、手のひらの中で、確かに重かった。
それだけで、私は——進めた。
馬車の車輪が、石畳を打ちながら、雨の街道を北東へ走り出す。
雨音が、王都の音を、少しずつ遠ざけていった。




