第29話: ありがとう、と十年分
午後の店に、戸の鳴る音がした。
私——ティナ・ファブリツィアは、糸を引く手をふと止めた。蝶番の軋みではない。古い木の戸が、ためらいながら押される音だ。客が来るには遅い時刻だった。今日はもう、襟の据え付けを終えたら店じまいにしようと思っていた。
顔を上げると、戸口に小さな影が立っていた。
逆光で、最初は誰だか分からなかった。背の低い、痩せた人。旅装の肩に、薄く埃を被っている。それでも、その立ち方を私の体のほうが先に覚えていた。背筋が、まっすぐに伸びている。崩れた屋敷の中でもただ一人折れなかった、あの背筋だ。
針を持ったまま、私は立ち上がった。
「お嬢様」
声が、十年ぶりの音を運んできた。
いいえ。十年ではない。あの雨の朝から、半年といくらか。それでも私には、十年に思えた。屋敷の冷たい廊下でしか聞けなかった声が、辺境の私の店の戸口で鳴っている。それだけのことが、十年の隔たりよりも遠く感じられた。
「……マリエッタ」
名前が、勝手にこぼれた。
あの朝、私はその名を一度だけ呼んだ。たった一言。十年で初めて呼んだ名だった。あのとき私は、頭を下げることしかできなかった。言いたいことは胸につかえて、言葉にならなかった。そして言えないまま、馬車に乗った。
今、同じ名がまったく違う色をして口から出た。
マリエッタは、戸口に立ったまま動かなかった。
膝の前で、両手に古い針箱を抱えている。木の蓋が、五十年の手垢で飴色に光っていた。あの箱だ。屋敷で何度も見た。彼女の手のひらの形に、蓋の縁がうっすら凹んでいる。
「ご無沙汰しておりました」
彼女は、深く頭を下げた。
私のほうが、頭を下げる立場のはずだった。それなのに、先に下げられてしまった。私は針を作業台に置いて、戸口へ歩いた。床の板が、私の足音だけを返した。
「七日も、馬車に。お一人で」
「は。七十からの旅は、難儀だと御者に言われましてございます」
彼女は、淡く笑った。
「ですが、会いに行く人がおりましたから」
その言葉に、私は息を止めた。
会いに行く人。それが私のことだった。五十年も人を待つ側だった人が、馬車に揺られて私に会いに来た。借財の代わりに屋敷へ来た、目ばかり大きな子どもだった私に。
私は、彼女の手から針箱を受け取ろうとして途中で止めた。これは、私が受け取っていいものではない気がした。代わりに、空いているほうの手を取った。皺だらけの、冷たい手。それでいて、確かな重みのある手。あの朝、私の手に銀針を置いてくれた手だった。
「中へ。冷えています」
私が言えたのは、それだけだった。
言いたいことは、もっとたくさんあった。でも私は昔から、それが下手だった。代わりに、彼女の手を自分の手のひらで包んだ。十年、屋敷ではこんなことすらできなかった。職人と侍女頭が廊下で手を取り合うことなど、許される家ではなかった。
暖炉に薪を足して、椅子を引いた。火のいちばん近い場所だ。
マリエッタは、針箱を膝に乗せたままゆっくりと腰を下ろした。火を見つめる目が、長い旅の疲れとは違う何かでわずかに潤んでいた。
「いい店でございますね」
彼女は、店の中を見回した。
壁の棚に、色とりどりの反物が並んでいる。窓辺の作業台。糸巻きの棚。半分縫いかけのブラウスが、トルソーに着せてある。屋敷の仕立て室に比べれば、半分の広さもない。それでも、ここの布はどれも私が自分で選んだものだった。
「狭くて。屋敷の仕立て室とは、比べものにもなりません」
「いいえ」
マリエッタは、首を振った。
「屋敷の仕立て室は、広うございました。ですが、お嬢様の名は、どこにもございませんでした。ここには——」
彼女は、戸口の上を指した。
外に出した看板が、そこから透けて見える。木の板に、私が自分で彫った文字。「ファブリツィア仕立て店」。十年ぶりに、自分の名を隠さず外に出した。
「お嬢様の名が、いちばん上に掛かっております。これだけで、もう広い狭いの話ではございません」
私は、看板を見上げた。
あの文字を彫った日、私の手は震えていた。十年、自分の名を布の裏でしか書けなかった。表に出すことが許されなかった。その名を、町の通りに向けて掲げる。それは思っていたより、ずっと恐ろしいことだった。
今、その名の下でマリエッタが暖をとっている。
胸の奥が、静かに鳴った。
「あの」
私は、膝の上で手を組んだ。
言わなければならないことがあった。半年、いいえ十年のあいだずっと飲み込んできたこと。屋敷では絶対に言えなかったこと。あの最後の朝、頭を下げることでしか伝えられなかったこと。
それを、ここでなら言える気がした。
「あの朝のこと、覚えていますか」
「裏門の、雨の朝でございますね」
マリエッタは、すぐに答えた。覚えている。当然のように覚えている。私と同じくらい、彼女もあの朝を抱えてきたのだ。
「私、あのとき」
言葉が、つかえた。
いつもの癖だ。感情が昂ると、言葉が短くなる。最後には、針の音だけが残る。だが今、私の手には針がない。だから、言うしかなかった。
「あのとき、頭を下げただけで、何も言えませんでした。本当は、言いたいことがあったのに。ずっと十年、言いたかったのに」
マリエッタは、何も言わずに私を見ていた。急かさなかった。屋敷でも、彼女はいつもそうだった。私が言葉を探す時間を、黙って待ってくれる人だった。
私は、息を吸った。
「ありがとうございました」
言えた。
たった一言だった。けれど、その一言を私は十年かけてここまで運んできた。
「冬に、指がかじかんだとき。手袋の指先を、切って渡してくださいました。温かい茶を、何度も。針を、糸を。それから——」
声が、震えた。
「あの銀針を」
私は、自分の作業台のほうへ目をやった。針山に、一本の銀針が刺さっている。柄に、年季の入った磨きの痕。あの朝、彼女の手のひらから私の手のひらへ渡った針。
「あれから、ずっと使っています。半年前も、その前の十年も。あの針で四百三十二着縫いました。今も毎日です」
マリエッタの目が、針山の銀針へ向いた。
その目が、ふいにはっきりと潤んだ。
「……握って、いてくださいましたか」
彼女の声が、初めてわずかに揺れた。
「はい」
「衰えて、おりませんでしたか。布を読む、あの指は」
「衰えていません」
私は、はっきりと言った。
「あの針が、教えてくれます。少しでも、指の通りが鈍ったら。糸の引きが甘くなったら。あの針は、すぐに気づきます。マリエッタの手から渡った針ですから。私より、よほど厳しいんです」
マリエッタは、笑った。
目尻に深い皺を寄せて、声を立てずに笑った。それから、膝の上の針箱を両手でそっと撫でた。
「お嬢様。この箱を、開けてご覧くださいますか」
彼女は、針箱を私に差し出した。
私は、受け取った。木の蓋は、思っていたより軽かった。蝶番を起こして、開ける。
中には、糸の見本帳と糸切り鋏。布の切れ端が、薄い帳面に一枚ずつ貼られている。北方の羊毛。南方の絹。亜麻。木綿。五十年分の布の記憶が、そこに並んでいた。
けれど。
「針が、ありません」
私は、顔を上げた。
「ええ」
マリエッタは、頷いた。
「私の針は、あの朝、お嬢様の手にお渡ししました。それ一本きりでございました。若い頃から、ずっと使ってきた一本を」
「一本きり、だったのですか」
「侍女頭の針は、一本でようございます。客に渡す針は、いくらでもございました。ですが、私自身の針は、あの一本だけ。それを、お嬢様に渡しました」
私は、空の針箱を見た。それから、針山の銀針を見た。
二つが、呼び合っている気がした。
針のない針箱を、マリエッタは半年抱えてきた。そして同じ半年、その一本の針が私の手の中で生きてきた。彼女の手元から針が消えた分だけ、私の手の中で針が働き続けた。空になった箱と働き続けた針は、もとは一つだったのだ。
「マリエッタ。この針箱に」
私は言いかけて、迷った。出すぎたことだろうか。それでも、言いたかった。
「うちの店の針を一本、入れてもいいですか。今、あなたの手元に針がないなら」
マリエッタの手が、止まった。
「私は、もう縫いません。お嬢様」
「縫わなくても、いいんです」
私は、針山からいちばん新しい銀針を一本抜いた。市場でエミルが選んでくれた、ファーデンの鍛冶が打った針だ。
「ただ、空のままにしておくのは、寂しいでしょう。あなたの五十年が、空っぽなはずがありません」
私はその針を、空の針箱の溝にそっと差した。
かちり、と小さな音がした。五十年ぶりに、その箱に針が戻った音だった。
マリエッタは、長いあいだその針を見ていた。
「……渡すばかりの五十年でございました。受け取るのは、初めてかもしれません」
彼女は、針箱の蓋をゆっくりと閉じた。
戸の外で、足音がした。
すぐに分かった。エミルだ。歩幅と、軒に布をこする音で分かる。彼はいつも夕方のこの時間に、その日仕入れた反物を抱えて店に寄る。布を見せに来るというより、私が今日も達者でいるかを確かめに来る。本人は、そうとは言わないけれど。
「ティナ、これ見ろ。北方の双糸が、いいのが入っ——」
戸を開けたエミルが、言葉を止めた。
暖炉のそばの老女と、その手の針箱と潤んだ私の目。それを順に見た。彼は、布を読む男だ。人の場の空気も、布と同じくらい速く読む。
「……客人か」
「いいえ」
私は、首を振った。
「私の、いちばん古い人です」
エミルは、抱えていた反物を戸口の脇にそっと置いた。それからまっすぐマリエッタの前へ歩いて、片膝を軽く落とした。商人が、目上の客に挨拶する姿勢だった。
「エミル・ソーヤーといいます。隣で布を商ってます。……ティナの店に、いつも布を入れさせてもらってる」
「マリエッタ・コルッツィと申します」
マリエッタは、丁寧に頭を下げた。それから、エミルの胸ポケットに目を留めた。色とりどりの細いリボンが、いつものように何本か挿してある。
「布のお人でございますね。指先に、布擦れの跡が」
エミルが、軽く目を見開いた。
「……分かりますか」
「五十年、針のそばにおりましたから。布を扱う手は、見れば分かります。あなたの手は、布を粗末にしない手でございます」
エミルは、少し照れたように自分の手を見た。それから私を見て、低く言った。
「ティナ。この人、お前を——」
「ええ」
私は頷いた。
「屋敷で、たった一人、私の十年を見ていてくれた人です」
エミルは、もう一度マリエッタに頭を下げた。今度は、商人の挨拶ではなかった。
「うちの姉にも、紹介させてください。今、呼んできます。スープなら、いつでも煮えてる」
彼は、そう言って店を出ていった。
マリエッタが、その背を見送って小さく言った。
「いい男でございますね。布を粗末にしない手の男は、人も粗末にいたしません」
私は、答えなかった。けれど、頬が熱くなるのを止められなかった。
ハンナは、すぐに来た。
大きな鍋を布で包んで抱えて、店の戸を肩で押し開けた。湯気と芋とハーブの匂いが、いっぺんに店の中に広がった。
「あら、まあ。遠いところから、ご苦労さま」
彼女は、鍋を作業台の隅に置くとマリエッタの手を取った。あの日、私の前に深皿を置いてくれた手だった。
「七日も馬車に揺られたんでしょう。冷えてるねえ、この手。さあ、まずあったかいものを」
「お構いなく」
「構うのよ。ここでは、お客さんに名前は要らないけど、温かいものは要るの」
ハンナの哲学だった。私が、この町に着いた最初の夜に彼女から受け取った言葉。それを今、マリエッタが受け取っている。
マリエッタは、湯気の立つ深皿を両手で包むように受け取った。芋とハーブと、ほんの少しの羊肉。控えめな塩。あの夜、私が口にしたのと同じスープだ。
一口、彼女は啜った。
そして、止まった。スプーンを握ったまま、しばらく何もしなかった。私には分かった。胸の奥で、何かがほどけたのだ。あの夜の私と、同じように。
「……塩が、控えめでございますね」
ようやく、彼女は言った。
「ええ」
ハンナが頷いた。
「芋の味が立つように、塩は控えめにするの。控えめにするほど、本当の味が出てくるから」
「布も、同じでございます」
マリエッタが、静かに言った。
「飾りを足すほど、布の声は遠くなります。いちばんいい布は、いちばん飾りの少ない布でございます」
ハンナが、目を丸くした。それから、嬉しそうに笑った。
「あんた、いいこと言うねえ。エミル、この人、長くいてもらおうよ」
エミルが、戸口で苦笑した。
戸が、また鳴った。
今度は、ためらいのない開け方だった。カミラだ。
「ハンナの鍋が通りを歩いてったから、何事かと思えば」
彼女は、エプロンを着けたままずかずかと店に入ってきた。継ぎ当てだらけのエプロン。若い頃の自分の作品の端布を、一つずつ縫い込んだものだ。マリエッタの前に立つと、その針箱に目ざとく気づいた。
「……あんた、針のお人だね」
「は。針を握って、五十年でございます」
カミラの目が、変わった。同業の、それも遥かに長く針を握ってきた相手を見る目だった。彼女は、マリエッタの手を断りもなく取った。
「手を見せて。——ああ、この指。間違いない。あんた、本物の手だ」
「もう、縫っておりません」
「縫ってなくても、手は嘘をつかないよ」
カミラは、私のほうを向いた。
「この人、どこの人だい」
「王都の公爵家の、侍女頭でした」
カミラの顔が、ほんの一瞬こわばった。王都の貴族家。彼女自身が、若い頃にその闇を見て辺境に戻ってきた人だ。それでも、マリエッタの手を取ったまま彼女は静かに言った。
「貴族家で五十年も針を握って、それでもこの手を保ったのかい。……たいしたもんだ。私の三十年なんか、まだ青いね」
「いいえ」
マリエッタは、首を振った。
「貴族家で握った針は、自分の名のためのものではございませんでした。あなたは、ご自分の名で三十年、この町で針を握ってこられた。それは私の五十年より、ずっと尊いものでございます」
カミラが、黙った。
辛口で素っ気なくて、めったに言葉に詰まらない人だ。その人が、マリエッタの一言に言葉をなくしていた。
「……あんた、いい人だね」
ようやく、カミラはそう言った。それから、私を見てぶっきらぼうに付け足した。
「先生のいちばん古い人なら、私らのいちばん古い人でもあるってことだ。長くいなよ。針を握らなくても、いていい場所はあるんだから」
日が傾いて、店の中が暖炉の色に染まった。
エミルとハンナとカミラが帰ったあと、店には私とマリエッタの二人だけが残った。ハンナの鍋は、まだ作業台の隅でほのかに湯気を立てていた。
マリエッタは、火を見つめていた。長い旅の疲れが、ようやくその背に下りてきたようだった。その目は、屋敷で見たどの夜よりも穏やかだった。
「お嬢様」
彼女が、火を見たまま言った。
「一つ、お伝えしなければならないことがございます」
「はい」
「公爵家を出る朝、裏門で見送ってくださった方がございました。アデリーナお嬢様——ヴィクトル様の、妹君でございます」
その名に、私はわずかに身を硬くした。ランドルフの名は、もう私の中で冷たい音しか立てない。ただ、アデリーナお嬢様のことは屋敷でも噂に聞いていた。兄とは違う方だと。
「あの方が私に、伝言を託されました」
マリエッタは、火から目を上げて私を見た。
「この家にも、あなたの仕事を惜しむ者がいた——と。それは詫びではないから、私の口から伝えてもいいと、お嬢様は仰いました」
私は、その言葉をしばらく胸の中で転がした。
この家にも、あなたの仕事を惜しむ者がいた。
十年、私の仕事は誰の目にも触れなかった。専属職人と偽られ、名もなく給金もなく針を動かした。誰一人、私の仕事を仕事として見ていないと思っていた。
けれど、見ていた人がいた。マリエッタだけではなかった。
「……惜しむ者が」
「ございました」
マリエッタは、はっきりと言った。それ以上は、何も言わなかった。まるで、まだ言いたいことをぐっと飲み込んでいるようにも見えた。だが私は、それを問わなかった。彼女が言わないことには、言わない理由がある。屋敷で、私はそれを学んでいた。
「ありがとうございます。伝えてくださって」
私は、頭を下げた。
「いいえ。私にできたのは、伝言を運ぶことだけでございます。あの朝、針と糸をお渡ししたのと、同じでございます。私にできたのは、針と糸を渡すことだけでしたから」
彼女は、いつもの言葉をいつものように言った。恩着せがましさは、欠片もなかった。
けれど私は、もう知っていた。針と糸を渡すことだけ、と彼女は言う。その針が、糸が、十年の私を支えたことを。その一本の針が半年前、王妃陛下の蔵で私の名を世に出したことを。
「マリエッタ」
私は、彼女の名を呼んだ。今度は、迷わずに。
「『針と糸を渡すことだけ』と、あなたはいつも仰います。でもそれが全部だったんです。私の十年は、あなたが渡してくれた針と糸で、できていました」
マリエッタは、何か言いかけてやめた。
代わりに、膝の上の針箱を両手で抱え直した。さっき私が一本の針を差した、あの箱だった。空ではなくなった箱を、彼女は胸に抱いた。
「……間に合いました」
彼女が、小さく言った。
「王都には何もかも遅すぎたのでございましょう。崩れた家も、追われた者も、もう戻りません。けれど私には、間に合いました。死ぬ前にお嬢様の名を世に出せました。死ぬ前に、お嬢様のもとへ来られました」
火が、ぱちりと音を立てた。
もう遅い。この物語のなかで、その言葉が何度繰り返されたか分からない。王都には遅かった。社交界には遅かった。ヴィクトルには、遅かった。
けれど、私とマリエッタには。
間に合った。
「マリエッタ。もう、どこへも行かないでください」
私は、言った。
「ここに、いてください。針を握っても、握らなくても。あなたの場所は、ここです」
彼女は、私を見た。
あの朝、彼女が私に言った言葉が立場を入れ替えて口から出た。お嬢様の場所はここではないのです——あの朝、彼女はそう言って私を送り出した。今度は、私が彼女を迎え入れる。
「……お嬢様の場所に、置いていただけますか」
「ええ」
私は、頷いた。
「あなたが、私の場所を作ってくれたんですから」
その夜の店じまいに、私は針山の銀針を布で拭いた。
マリエッタは、二階の客間で長い旅の疲れを眠りに預けていた。針箱を胸に抱いたまま眠る背中が、屋敷で見たどの夜よりも小さく安らかだった。
銀針を、私は灯りに翳した。
あの朝、雨の裏門で皺だらけの手のひらから渡された一本。それを十年と半年、私は握り続けた。布を読み、布を縫い、布の裏に名を残した。すべて、この針でやった。
そして今日、その針の持ち主がこの店へ辿り着いた。
私は、銀針を針山に戻した。明日も、これで縫う。マリエッタが見ている前で、縫う。十年も誰にも見せられなかった私の手を、いちばん古い人がそばで見ていてくれる。
窓の外を、見た。
ファーデンの夜は、静かだった。けれど、その静けさは屋根裏で一人泣いたあの夜のものとはまるで違った。隣の店では、エミルがまだ反物の山と向き合っているだろう。ハンナの台所からは明日のパンの仕込みの匂いがしてくる。カミラの店の灯りも、まだ消えていない。
私の場所が、ここにあった。
そして今日、その場所にもう一人を迎えることができた。
針山の銀針が、灯りを弾いて小さく光った。
——明日、何を縫おう。
ふと、そう思った。マリエッタが見ている前で、最初に何を縫おうか。彼女が渡してくれた針で、彼女に見せる最初の一着。
それを考えると、明日が待ち遠しかった。
十年、私に待ち遠しい明日など一度もなかった。




