第30話: ここが、お前の家だ
その朝の客は、手を見れば分かった。
私——ティナ・ファブリツィアの店に、一人の女が入ってきた。旅装の上から、上等な外套を羽織っている。布は悪くなかった。けれど、その手だった。差し出された注文の覚え書きを受け取るとき、女の指先が私の目に入った。爪が、磨かれていた。ささくれ一つない、針も鍋も握ったことのない手だ。辺境の女の手ではなかった。
「肩当てを、繕っていただきたいのです」
女は、そう言った。
「七日の旅で外套の肩が擦れてしまって。腕のいい仕立て屋がいると、宿で聞いたものですから」
私は覚え書きを開かなかった。代わりに外套の肩に触れた。布がすぐに答えを返してきた。
擦れていなかった。
肩の布目は、まだ張りを残していた。本当に七日の街道を旅した外套なら、肩の経糸はもっと寝て、毛羽が片側へ倒れる。この外套の肩は、新品に近い顔をしていた。繕う必要など、どこにもなかった。
「……今日は、繕う要りようがございません」
私は、そう言って外套を返した。
「肩の布目は、まだ張っております。本当に七日歩いた肩なら、毛羽が片側へ倒れます。針を入れるところが、どこにもないのです」
「……そう。それは、ありがとう」
女は、覚え書きを引き取った。私の手元を、もう一度見た。それから、淡く笑って帰っていった。
女が帰ったあと、私はしばらく作業台の前に座っていた。
あの女は、肩を繕いに来たのではなかった。腕のいい仕立て屋がいると宿で聞いた——そう言いながら、店に入ってからずっと私の手元を見ていた。布ではなく、私の指を。針を持つ手の運びを。
半年前によく似た男が来たことを思い出した。市場に現れた、王都の言葉づかいの旅装の男。あのとき私は、連れ戻されるのだと思って身を硬くした。エミルが考える前に私の前へ立った。あの男は手を出さず、名も告げず去った。王妃の密使だったと後で知れた。
今度の女は、密使ではなさそうだった。けれど何かを確かめに来た顔は、よく似ていた。
私は、針山の銀針に目をやった。マリエッタが渡してくれた一本だ。それを灯りに翳すこともせず、ただ見ていた。
「お嬢様」
二階から、マリエッタが下りてきた。旅の疲れはもう抜けて、背筋がいつものまっすぐさを取り戻している。
「今の方、お顔が王都の方でございましたね」
私は、頷いた。
「肩を、繕いに来られたと」
「肩は、擦れておりませんでした」
「……でございましょうね」
マリエッタは、それ以上は言わなかった。彼女も、布を五十年見てきた人だ。言わなくても分かっている。
それから数日のあいだに、客が増えた。
悪いことではないはずだった。仕立て屋に客が増える。本来なら、喜ぶべきことだ。けれど、増えた客の半分が、布を見ていなかった。
ある者は、舞踏会ドレスの仕立てを頼んだ。辺境のファーデンに、舞踏会などない。それなのに、王都の流行りの形を細かく指定し、私の縫い方をしきりに尋ねた。「裏地は、どう始末されるの」と。私の署名のことを、知っていて聞いているのかもしれなかった。
ある者は、ただ世間話だけをして帰った。北東の街道のこと。王都の噂。最近、王宮で大きな騒ぎがあったらしいと。十年ある令嬢が無給で使い潰されていたとか。その手柄が今ごろになって明らかになったとか。そういう話を、私の顔をうかがいながらぽつりぽつりと落としていった。
私は、どの客にも同じ顔をした。
「さようでございますか」「存じませんでした」「辺境の者ですので」
屋敷で十年身につけた顔だった。声を立てず、目立たず、ただ縫っていた者の顔。何かが来る予感がすると、私の手はまず布を片づける。証拠を残さぬように。とがめられぬように。
気づけば、私の指はまた、繕い物を畳んでいた。
「ティナ」
その夕方、店に寄ったエミルが、戸口で足を止めた。
いつものように、その日仕入れた反物を抱えている。北方の双糸羊毛だ。彼は布を見せに来るというより、私が今日も達者でいるかを確かめに来る。本人は、そうとは言わないけれど。
彼は、私の手元を見ていた。畳みかけの繕い物。きちんと角を揃えて、隅へ寄せた布の山。
「何を、片づけてる」
私は、手を止めた。
「……いえ。少し、整理を」
「客が、増えたな」
「ええ。ありがたいことに」
「ありがたい、か」
エミルは、反物を作業台の隅に置いた。それから、空いた椅子に腰を下ろした。布を見る目ではなかった。私を見る目だった。
「お前、今日、何着繕った」
「三着、ほどです」
「そのうち、本当に繕う要りようがあったのは、何着だ」
私は、答えられなかった。
エミルは、布を読む男だ。布の擦れ方には、歩いた道のりが残る。彼は私と同じものを見ていた。肩を繕いに来た女の外套の張り。布を見ずに私の手だけを見る客の目。何も買わずに噂だけを落としていく者の所作。
「……一着も、ございませんでした」
私は、小さく言った。
「繕う要りようは、どの方にも。あの人たちは、布を繕いに来たのではありません。私を、確かめに来ました」
言葉にすると、胸の奥が冷えた。
マリエッタが、暖炉のそばで糸を巻く手を止めていた。私の言葉を聞いていたのだ。彼女は何も言わずにただ私を見た。屋敷でいつもそうしたように、私が言葉を探す時間を黙って待ってくれていた。
「半年前に、密使が来ました」
私はエミルに言った。彼は知っている。あのとき私の前に立ったのだから。
「あのときは一人でした。だから、まだよかったのです。けれど今度は——一人ではありません。次々と来ます。布の顔をして、布を見ない人たちが。たぶん、王宮で私の名が出てしまったから」
私は針山の銀針を見た。
「王都の人たちは、私を見つけ始めています」
声が、また短くなった。感情が昂ると、いつもそうだ。最後には針の音だけが残る。けれど私の手には今、針がなかった。だから、言うしかなかった。
「また、戻されるのでしょうか」
言ってしまってから、私は唇を結んだ。
戻されたくないと言えばよかった。けれど、それは言えなかった。十年、私は自分の望みを口にしてこなかった。望んでも叶わなかった。望むことそのものを、いつのまにかやめていた。
戻されるのでしょうか、という私の問いに、エミルはすぐには答えなかった。
彼は、立ち上がった。作業台を回って、私の前まで来た。私が、見上げるくらいの近さだった。
「お前は、戻りたいのか」
低い声だった。布の話をするときの、あの専門用語の混じった声ではなかった。
「……いいえ」
「なら、戻らなくていい」
「でも、王都が——」
「王都が、何だ」
エミルの声に、刃が混じった。半年前、密使に向けたあの声と、同じ温度だった。
「王宮が名を出した。客のふりをした連中が来る。それで? お前は、もう王都の人間じゃない。この町の、ファブリツィア仕立て店の店主だ。それ以上でも、それ以下でもない」
その言い方を、私はどこかで聞いた気がした。
カミラだった。半年前、密使が来た日にカミラが私にそう言った。あんたは王都帰りじゃない、この町の店主だ、と。エミルは知ってか知らずか、同じことを言っていた。
「だが、お前の手が」と、エミルは続けた。「また、布を片づけてる。半年前と同じだ。あの男が来た日と」
私の指が、びくりと動いた。
「見てたんですか」
「ずっと、見てる」
彼は、そう言った。当たり前のことのように。
「お前が布を片づけるときは、何かに怯えてるときだ。指から血が出てるときに大丈夫だって言うのと、同じだ。お前の手は、お前より正直だからな」
私は、自分の手を見た。
膝の上で、繕い物の端をきつく握っていた。十年分の針穴と、糸切りの跡のある手。何かが来る予感がすると、布を握る。隠すために。受け止めるために。
その手を、エミルの大きな手が、上から包んだ。
布越しではなかった。直に、彼の体温が伝わってきた。布の擦れた跡のある、温かい手だった。半年前、私の冷えた手を初めて包んだ、あの手だった。
「ティナ」
彼が、私の名を呼んだ。
「ここが、お前の家だ」
息が、止まった。
「誰もお前をここから連れていかせない。王宮だろうが公爵家だろうが、客のふりをした誰かだろうが——お前を連れていきたい奴がいるなら、まず俺の前を通れ。半年前に言ったろう。俺が前に立つって。毎回だ、って」
彼は、私の手を握ったまま、まっすぐ私を見ていた。灰青色の目が、揺れていなかった。布を見るときの鋭さでも、いつもの穏やかさでもない、初めて見る目だった。
「あれは男一人を退ける話だけじゃなかった。王都が何人来ても、同じだ。お前の場所はここだ。それを決めるのは王宮じゃない。お前と、俺たちだ」
家、という言葉が、私の中で響いた。
その一言が、布のどんな声よりも深く私のなかに沈んでいった。
私は、家を持ったことがなかった。生まれた伯爵家は十二で出された。借財の代わりに、目ばかり大きな子どもとしてランドルフ公爵家へ送られた。屋敷の仕立て室は、広かった。けれど、あれは私の場所ではなかった。私は、布の裏にいる人間だった。表に出ることも、名を呼ばれることも許されなかった。寝る場所はあった。けれど、帰る場所ではなかった。
帰りたいと思える場所を、私は二十二年、一度も持たなかった。
辺境のこの店を開いたとき、初めて自分の名の看板を出した。それで十分だと思っていた。自分の店があれば、それでいい、と。
けれど、エミルは「店」とは言わなかった。「家」と言った。
店は、私が一人で作るものだ。家は——違う。家は、誰かがいて初めて家になる。エミルがいて、ハンナがいて、カミラがいて、マリエッタがいて。私が今日も達者でいるかを確かめに来る人がいて。冷えた手を、考える前に包んでくれる人がいて。
それを、家と呼ぶのだ。
私は、それを、知らなかった。
「……エミル」
私が呼ぶと、彼の手が、わずかに力を増した。
「私、家というものを」
言葉が、つかえた。
「持ったことがありませんでした。屋敷にも寝る場所はありました。けれど、帰りたいと思ったことは一度もなくて。帰る、という言葉が、私にはずっと——」
声が、震えた。
エミルは、急かさなかった。マリエッタが私の言葉を待つように、彼も待った。布が乾くのを待つように。
「ずっと、布の話だと思っていました」
私は、言った。
「経糸が緩んだ布は、もとの張りに戻りたがります。染めた色が褪せた布は、初めの色を覚えています。布はいつも帰る場所を持っています。私は、布のそういう声ばかり聞いてきました。自分には帰る場所がなかったから。布の帰る場所を、代わりに縫っていたんです」
私は、エミルの手のなかの自分の手を握り返した。
「私にも、帰る場所が、できたんですね」
「ああ」
エミルは、それだけ言った。
「できた」
暖炉のそばで、マリエッタが、そっと立ち上がった。
「お嬢様」
彼女は、糸巻きを置いて、私たちのほうへ歩いてきた。さっき私が一本の針を差した、あの空ではなくなった針箱を、胸に抱いている。
「私が、口を挟むことではございません。ですが、一つだけ」
マリエッタは、私とエミルを順に見た。それから、戸口の上を指した。看板が、そこから透けて見える。私が自分で彫った「ファブリツィア仕立て店」の文字。
「あの看板を、お嬢様は自分の手で彫られました。あの文字を彫った日、お嬢様の手は震えていたと、私には分かります。名を表に出すことが、どれほど恐ろしいか。十年、裏でしか書けなかった名でございますから」
その通りだった。私は、看板を見上げた。あの日、私の手は確かに震えていた。
「お嬢様。震える手で名を出した者は、もう裏には戻れません」
マリエッタは、静かに言った。
「裏地に縫う署名は、消せます。命じられれば、解くこともできます。けれど、表に掲げた看板は、自分で下ろさぬかぎり下りません。お嬢様はもう半年前に、ご自分でそれを掲げられました。王都が今ごろ気づいたところで——遅うございます」
遅い。
その言葉が、店の中に落ちた。
この半年のあいだ、何度も耳にした言葉だった。王都には遅かった。社交界には遅かった。ヴィクトルには遅かった。けれど今、マリエッタはそれをまるで違う意味で言っていた。
王都が私を探し当てるのは、遅すぎる。私は、もう、ここで名を掲げてしまったから。
戸が、鳴った。
ハンナだった。いつものように、何か温かいものの匂いを連れて入ってくる。手には、布で包んだ深皿。
「あら、なんだか、しんみりした顔が揃ってるねえ」
彼女は、深皿を作業台の隅に置いた。
「エミルから聞いたよ。王都の変なお客が、増えてるんだって?」
「……はい」
私は、頷いた。エミルが、姉に話していたのだ。
「ふうん。あたしは、よく分かんないけどさ」とハンナは言った。肩肘を張らない、いつもの口調だった。「ここでは、お客さんに名前は要らないんだよ。あんたが王都で何だったかも、要らない。腕のいい仕立て屋が一人、この町にいる。あたしらが知ってるのは、それだけ」
彼女は、深皿の布を開いた。湯気が、立った。芋とハーブと、ほんの少しの羊肉。控えめな塩。私がこの町に着いた最初の夜に、口にしたのと同じスープだ。
「王都の人がさ、あんたを王都の何かに戻したいなら、戻せばいいよ。でも、戻すってことは、ここから連れていくってことだろ。それは、駄目」
ハンナは、にっこり笑った。
「だってあんた、もう、うちらの町の人だもの。連れてかれたら寂しいじゃない」
「……ハンナさん」
「なあに」
「私、この町に来て、よかったです」
「あら。今ごろ?」
ハンナが、笑った。
「そんなの、あたしらは最初っから知ってたよ。あんたが来た日に、ティナさんはここの人になったの。あんたが気づくのが、遅かっただけ」
私は、そのスープを受け取った。両手で、包むように。胸の奥で、何かがほどけた。あの最初の夜と同じように。
その夜、エミルとハンナが帰ったあと、店には私とマリエッタが残った。
カミラが、向かいの店から顔を出していた。さっきの騒がしさを聞きつけたのだろう。腕を組んで、戸口に立っている。
「王都の連中、しつこいねえ」
彼女は、ずかずかと店に入ってきた。
「うちにも、来たよ。今日だけで二人。布を買わずに、あんたのことばかり聞いていった」
「……ご迷惑を」
「迷惑じゃないよ」とカミラは手を振った。「面白いくらいだ。三十年、この町で針を握ってきたけど、王都の人間がこんなに辺境まで来たことはなかった。あんた一人のために、王都が街道を七日もかけてやってくる。たいしたもんだよ」
カミラは、私の作業台の銀針に目をやった。マリエッタが渡した、あの一本。
「私はね」と、彼女は言った。「若い頃、王都で修業しようとして、貴族家の貸与制度の闇を見て辺境に逃げ帰った人間だ。あんたみたいに名を奪われる前に、自分から名を捨てて逃げた。臆病だったのさ」
彼女は、ふん、と鼻を鳴らした。
「だから、あんたが羨ましいよ。逃げてきたんじゃなくて、ちゃんと名を掲げて、それで王都に追いかけられてる。私には、できなかったことだ」
「カミラさん」
「もう一つだけ言っとくよ」とカミラは、私を見た。辛口の目が、めずらしく和らいでいた。「王都が、あんたを連れ戻しに来たって、心配するな。連れ戻すには、まず、この町を通らなきゃならない。ハンナのスープと、エミルの体と、私の三十年の腕と——その婆さんの五十年の手だ」
彼女は、マリエッタを顎で示した。マリエッタが、淡く笑った。
「全部、抜けてからじゃないと、あんたには手が届かないよ。王都の連中に、それができるかね」
カミラが帰ったあと、私は店の窓辺に座った。
ファーデンの夜は、静かだった。けれど、屋根裏で一人泣いたあの最初の夜の静けさとは、まるで違った。隣の店では、エミルがまだ反物の山と向き合っているだろう。ハンナの台所からは、明日のパンの仕込みの匂いがしてくる。カミラの店の灯りも、まだ消えていない。二階では、マリエッタが旅の疲れを眠りに預けている。
今日一日、王都の客が次々と来た。布の顔をして、布を見ない人たち。私を探し当てようとする者たち。明日も、来るのだろう。明後日も。王宮で私の名が出てしまった以上、その流れは、もう止まらない。
半年前なら、私は、ただ怯えていた。布を片づけ、息を潜め、いつ連れ戻されるかと身を硬くして。
今は、違った。
私は、自分の右手をひらいた。十年分の針穴と、糸切りの跡。エミルの手が包んだ、この手だ。ここが、お前の家だ——彼の声が、まだ手のひらに残っている。布が覚えるように、私の手のひらが覚えていた。
家。
帰る場所を持たなかった私が、初めて持った、帰る場所。
王都は、私を連れていこうとするかもしれない。けれど、連れていくには、この町を通らねばならない。エミルの前を、ハンナのスープを、カミラの腕を、マリエッタの手を。私一人を奪うために、王都はこの町ごと相手にしなければならない。
そう思うと、不思議と、怖くなかった。
翌朝、私は店の前の看板を、布で拭いた。
十年ぶりに表に出した、自分の名前。「ファブリツィア仕立て店」。彫った日、震えた手で。
今朝は、震えなかった。
拭き終えて店に戻ろうとしたとき、街道のほうから馬車の音が聞こえた。
一台や二台ではなかった。
私は、街道のほうへ目をやった。盆地を囲む山の、最後の峠のあたりに、土埃が上がっていた。馬車の列だった。これまでの、客のふりをした旅人とは違う。一人や二人が、布の顔をして紛れ込んでくるのとは、違った。
まっすぐ、こちらへ向かってくる。隠す気のない、堂々とした足取りで。
布の音ではなかった。あれは、もっと重いものの音だった。
「お嬢様」
いつのまにか、マリエッタが私の隣に立っていた。彼女も、街道のほうを見ていた。その目が、わずかに細められた。
「……あれは」
私は、息を呑んだ。
密使でも、客のふりをした旅人でもなかった。あれは、王都が、ついに正面から辺境へ手を伸ばしてきた音だった。
けれど、私の手は、もう布を片づけなかった。
私は、看板を拭いた布を、エプロンのポケットに仕舞った。それから、まっすぐに街道のほうを向いた。
ここが、私の家だ。
誰が来ても、私はもう逃げない。




