表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「お前の針仕事など誰でもできる」と追放された令嬢仕立て師——王都が私を探し当てた時、もう半年遅かった  作者: 歩人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
30/30

第30話: ここが、お前の家だ

 その朝の客は、手を見れば分かった。


 私——ティナ・ファブリツィアの店に、一人の女が入ってきた。旅装の上から、上等な外套を羽織っている。布は悪くなかった。けれど、その手だった。差し出された注文の覚え書きを受け取るとき、女の指先が私の目に入った。爪が、磨かれていた。ささくれ一つない、針も鍋も握ったことのない手だ。辺境の女の手ではなかった。


「肩当てを、繕っていただきたいのです」


 女は、そう言った。


「七日の旅で外套の肩が擦れてしまって。腕のいい仕立て屋がいると、宿で聞いたものですから」


 私は覚え書きを開かなかった。代わりに外套の肩に触れた。布がすぐに答えを返してきた。


 擦れていなかった。


 肩の布目は、まだ張りを残していた。本当に七日の街道を旅した外套なら、肩の経糸はもっと寝て、毛羽が片側へ倒れる。この外套の肩は、新品に近い顔をしていた。繕う必要など、どこにもなかった。




「……今日は、繕う要りようがございません」


 私は、そう言って外套を返した。


「肩の布目は、まだ張っております。本当に七日歩いた肩なら、毛羽が片側へ倒れます。針を入れるところが、どこにもないのです」


「……そう。それは、ありがとう」


 女は、覚え書きを引き取った。私の手元を、もう一度見た。それから、淡く笑って帰っていった。




 女が帰ったあと、私はしばらく作業台の前に座っていた。


 あの女は、肩を繕いに来たのではなかった。腕のいい仕立て屋がいると宿で聞いた——そう言いながら、店に入ってからずっと私の手元を見ていた。布ではなく、私の指を。針を持つ手の運びを。


 半年前によく似た男が来たことを思い出した。市場に現れた、王都の言葉づかいの旅装の男。あのとき私は、連れ戻されるのだと思って身を硬くした。エミルが考える前に私の前へ立った。あの男は手を出さず、名も告げず去った。王妃の密使だったと後で知れた。


 今度の女は、密使ではなさそうだった。けれど何かを確かめに来た顔は、よく似ていた。


 私は、針山の銀針に目をやった。マリエッタが渡してくれた一本だ。それを灯りに翳すこともせず、ただ見ていた。


「お嬢様」


 二階から、マリエッタが下りてきた。旅の疲れはもう抜けて、背筋がいつものまっすぐさを取り戻している。


「今の方、お顔が王都の方でございましたね」


 私は、頷いた。


「肩を、繕いに来られたと」


「肩は、擦れておりませんでした」


「……でございましょうね」


 マリエッタは、それ以上は言わなかった。彼女も、布を五十年見てきた人だ。言わなくても分かっている。




 それから数日のあいだに、客が増えた。


 悪いことではないはずだった。仕立て屋に客が増える。本来なら、喜ぶべきことだ。けれど、増えた客の半分が、布を見ていなかった。


 ある者は、舞踏会ドレスの仕立てを頼んだ。辺境のファーデンに、舞踏会などない。それなのに、王都の流行りの形を細かく指定し、私の縫い方をしきりに尋ねた。「裏地は、どう始末されるの」と。私の署名のことを、知っていて聞いているのかもしれなかった。


 ある者は、ただ世間話だけをして帰った。北東の街道のこと。王都の噂。最近、王宮で大きな騒ぎがあったらしいと。十年ある令嬢が無給で使い潰されていたとか。その手柄が今ごろになって明らかになったとか。そういう話を、私の顔をうかがいながらぽつりぽつりと落としていった。


 私は、どの客にも同じ顔をした。


「さようでございますか」「存じませんでした」「辺境の者ですので」


 屋敷で十年身につけた顔だった。声を立てず、目立たず、ただ縫っていた者の顔。何かが来る予感がすると、私の手はまず布を片づける。証拠を残さぬように。とがめられぬように。


 気づけば、私の指はまた、繕い物を畳んでいた。




「ティナ」


 その夕方、店に寄ったエミルが、戸口で足を止めた。


 いつものように、その日仕入れた反物を抱えている。北方の双糸羊毛だ。彼は布を見せに来るというより、私が今日も達者でいるかを確かめに来る。本人は、そうとは言わないけれど。


 彼は、私の手元を見ていた。畳みかけの繕い物。きちんと角を揃えて、隅へ寄せた布の山。


「何を、片づけてる」


 私は、手を止めた。


「……いえ。少し、整理を」


「客が、増えたな」


「ええ。ありがたいことに」


「ありがたい、か」


 エミルは、反物を作業台の隅に置いた。それから、空いた椅子に腰を下ろした。布を見る目ではなかった。私を見る目だった。


「お前、今日、何着繕った」


「三着、ほどです」


「そのうち、本当に繕う要りようがあったのは、何着だ」


 私は、答えられなかった。


 エミルは、布を読む男だ。布の擦れ方には、歩いた道のりが残る。彼は私と同じものを見ていた。肩を繕いに来た女の外套の張り。布を見ずに私の手だけを見る客の目。何も買わずに噂だけを落としていく者の所作。


「……一着も、ございませんでした」


 私は、小さく言った。


「繕う要りようは、どの方にも。あの人たちは、布を繕いに来たのではありません。私を、確かめに来ました」




 言葉にすると、胸の奥が冷えた。


 マリエッタが、暖炉のそばで糸を巻く手を止めていた。私の言葉を聞いていたのだ。彼女は何も言わずにただ私を見た。屋敷でいつもそうしたように、私が言葉を探す時間を黙って待ってくれていた。


「半年前に、密使が来ました」


 私はエミルに言った。彼は知っている。あのとき私の前に立ったのだから。


「あのときは一人でした。だから、まだよかったのです。けれど今度は——一人ではありません。次々と来ます。布の顔をして、布を見ない人たちが。たぶん、王宮で私の名が出てしまったから」


 私は針山の銀針を見た。


「王都の人たちは、私を見つけ始めています」


 声が、また短くなった。感情が昂ると、いつもそうだ。最後には針の音だけが残る。けれど私の手には今、針がなかった。だから、言うしかなかった。


「また、戻されるのでしょうか」


 言ってしまってから、私は唇を結んだ。


 戻されたくないと言えばよかった。けれど、それは言えなかった。十年、私は自分の望みを口にしてこなかった。望んでも叶わなかった。望むことそのものを、いつのまにかやめていた。




 戻されるのでしょうか、という私の問いに、エミルはすぐには答えなかった。


 彼は、立ち上がった。作業台を回って、私の前まで来た。私が、見上げるくらいの近さだった。


「お前は、戻りたいのか」


 低い声だった。布の話をするときの、あの専門用語の混じった声ではなかった。


「……いいえ」


「なら、戻らなくていい」


「でも、王都が——」


「王都が、何だ」


 エミルの声に、刃が混じった。半年前、密使に向けたあの声と、同じ温度だった。


「王宮が名を出した。客のふりをした連中が来る。それで? お前は、もう王都の人間じゃない。この町の、ファブリツィア仕立て店の店主だ。それ以上でも、それ以下でもない」


 その言い方を、私はどこかで聞いた気がした。


 カミラだった。半年前、密使が来た日にカミラが私にそう言った。あんたは王都帰りじゃない、この町の店主だ、と。エミルは知ってか知らずか、同じことを言っていた。


「だが、お前の手が」と、エミルは続けた。「また、布を片づけてる。半年前と同じだ。あの男が来た日と」


 私の指が、びくりと動いた。


「見てたんですか」


「ずっと、見てる」


 彼は、そう言った。当たり前のことのように。


「お前が布を片づけるときは、何かに怯えてるときだ。指から血が出てるときに大丈夫だって言うのと、同じだ。お前の手は、お前より正直だからな」




 私は、自分の手を見た。


 膝の上で、繕い物の端をきつく握っていた。十年分の針穴と、糸切りの跡のある手。何かが来る予感がすると、布を握る。隠すために。受け止めるために。


 その手を、エミルの大きな手が、上から包んだ。


 布越しではなかった。直に、彼の体温が伝わってきた。布の擦れた跡のある、温かい手だった。半年前、私の冷えた手を初めて包んだ、あの手だった。


「ティナ」


 彼が、私の名を呼んだ。


「ここが、お前の家だ」


 息が、止まった。


「誰もお前をここから連れていかせない。王宮だろうが公爵家だろうが、客のふりをした誰かだろうが——お前を連れていきたい奴がいるなら、まず俺の前を通れ。半年前に言ったろう。俺が前に立つって。毎回だ、って」


 彼は、私の手を握ったまま、まっすぐ私を見ていた。灰青色の目が、揺れていなかった。布を見るときの鋭さでも、いつもの穏やかさでもない、初めて見る目だった。


「あれは男一人を退ける話だけじゃなかった。王都が何人来ても、同じだ。お前の場所はここだ。それを決めるのは王宮じゃない。お前と、俺たちだ」




 家、という言葉が、私の中で響いた。


 その一言が、布のどんな声よりも深く私のなかに沈んでいった。


 私は、家を持ったことがなかった。生まれた伯爵家は十二で出された。借財の代わりに、目ばかり大きな子どもとしてランドルフ公爵家へ送られた。屋敷の仕立て室は、広かった。けれど、あれは私の場所ではなかった。私は、布の裏にいる人間だった。表に出ることも、名を呼ばれることも許されなかった。寝る場所はあった。けれど、帰る場所ではなかった。


 帰りたいと思える場所を、私は二十二年、一度も持たなかった。


 辺境のこの店を開いたとき、初めて自分の名の看板を出した。それで十分だと思っていた。自分の店があれば、それでいい、と。


 けれど、エミルは「店」とは言わなかった。「家」と言った。


 店は、私が一人で作るものだ。家は——違う。家は、誰かがいて初めて家になる。エミルがいて、ハンナがいて、カミラがいて、マリエッタがいて。私が今日も達者でいるかを確かめに来る人がいて。冷えた手を、考える前に包んでくれる人がいて。


 それを、家と呼ぶのだ。


 私は、それを、知らなかった。




「……エミル」


 私が呼ぶと、彼の手が、わずかに力を増した。


「私、家というものを」


 言葉が、つかえた。


「持ったことがありませんでした。屋敷にも寝る場所はありました。けれど、帰りたいと思ったことは一度もなくて。帰る、という言葉が、私にはずっと——」


 声が、震えた。


 エミルは、急かさなかった。マリエッタが私の言葉を待つように、彼も待った。布が乾くのを待つように。


「ずっと、布の話だと思っていました」


 私は、言った。


「経糸が緩んだ布は、もとの張りに戻りたがります。染めた色が褪せた布は、初めの色を覚えています。布はいつも帰る場所を持っています。私は、布のそういう声ばかり聞いてきました。自分には帰る場所がなかったから。布の帰る場所を、代わりに縫っていたんです」


 私は、エミルの手のなかの自分の手を握り返した。


「私にも、帰る場所が、できたんですね」


「ああ」


 エミルは、それだけ言った。


「できた」




 暖炉のそばで、マリエッタが、そっと立ち上がった。


「お嬢様」


 彼女は、糸巻きを置いて、私たちのほうへ歩いてきた。さっき私が一本の針を差した、あの空ではなくなった針箱を、胸に抱いている。


「私が、口を挟むことではございません。ですが、一つだけ」


 マリエッタは、私とエミルを順に見た。それから、戸口の上を指した。看板が、そこから透けて見える。私が自分で彫った「ファブリツィア仕立て店」の文字。


「あの看板を、お嬢様は自分の手で彫られました。あの文字を彫った日、お嬢様の手は震えていたと、私には分かります。名を表に出すことが、どれほど恐ろしいか。十年、裏でしか書けなかった名でございますから」


 その通りだった。私は、看板を見上げた。あの日、私の手は確かに震えていた。


「お嬢様。震える手で名を出した者は、もう裏には戻れません」


 マリエッタは、静かに言った。


「裏地に縫う署名は、消せます。命じられれば、解くこともできます。けれど、表に掲げた看板は、自分で下ろさぬかぎり下りません。お嬢様はもう半年前に、ご自分でそれを掲げられました。王都が今ごろ気づいたところで——遅うございます」


 遅い。


 その言葉が、店の中に落ちた。


 この半年のあいだ、何度も耳にした言葉だった。王都には遅かった。社交界には遅かった。ヴィクトルには遅かった。けれど今、マリエッタはそれをまるで違う意味で言っていた。


 王都が私を探し当てるのは、遅すぎる。私は、もう、ここで名を掲げてしまったから。




 戸が、鳴った。


 ハンナだった。いつものように、何か温かいものの匂いを連れて入ってくる。手には、布で包んだ深皿。


「あら、なんだか、しんみりした顔が揃ってるねえ」


 彼女は、深皿を作業台の隅に置いた。


「エミルから聞いたよ。王都の変なお客が、増えてるんだって?」


「……はい」


 私は、頷いた。エミルが、姉に話していたのだ。


「ふうん。あたしは、よく分かんないけどさ」とハンナは言った。肩肘を張らない、いつもの口調だった。「ここでは、お客さんに名前は要らないんだよ。あんたが王都で何だったかも、要らない。腕のいい仕立て屋が一人、この町にいる。あたしらが知ってるのは、それだけ」


 彼女は、深皿の布を開いた。湯気が、立った。芋とハーブと、ほんの少しの羊肉。控えめな塩。私がこの町に着いた最初の夜に、口にしたのと同じスープだ。


「王都の人がさ、あんたを王都の何かに戻したいなら、戻せばいいよ。でも、戻すってことは、ここから連れていくってことだろ。それは、駄目」


 ハンナは、にっこり笑った。


「だってあんた、もう、うちらの町の人だもの。連れてかれたら寂しいじゃない」


「……ハンナさん」


「なあに」


「私、この町に来て、よかったです」


「あら。今ごろ?」


 ハンナが、笑った。


「そんなの、あたしらは最初っから知ってたよ。あんたが来た日に、ティナさんはここの人になったの。あんたが気づくのが、遅かっただけ」


 私は、そのスープを受け取った。両手で、包むように。胸の奥で、何かがほどけた。あの最初の夜と同じように。




 その夜、エミルとハンナが帰ったあと、店には私とマリエッタが残った。


 カミラが、向かいの店から顔を出していた。さっきの騒がしさを聞きつけたのだろう。腕を組んで、戸口に立っている。


「王都の連中、しつこいねえ」


 彼女は、ずかずかと店に入ってきた。


「うちにも、来たよ。今日だけで二人。布を買わずに、あんたのことばかり聞いていった」


「……ご迷惑を」


「迷惑じゃないよ」とカミラは手を振った。「面白いくらいだ。三十年、この町で針を握ってきたけど、王都の人間がこんなに辺境まで来たことはなかった。あんた一人のために、王都が街道を七日もかけてやってくる。たいしたもんだよ」


 カミラは、私の作業台の銀針に目をやった。マリエッタが渡した、あの一本。


「私はね」と、彼女は言った。「若い頃、王都で修業しようとして、貴族家の貸与制度の闇を見て辺境に逃げ帰った人間だ。あんたみたいに名を奪われる前に、自分から名を捨てて逃げた。臆病だったのさ」


 彼女は、ふん、と鼻を鳴らした。


「だから、あんたが羨ましいよ。逃げてきたんじゃなくて、ちゃんと名を掲げて、それで王都に追いかけられてる。私には、できなかったことだ」


「カミラさん」


「もう一つだけ言っとくよ」とカミラは、私を見た。辛口の目が、めずらしく和らいでいた。「王都が、あんたを連れ戻しに来たって、心配するな。連れ戻すには、まず、この町を通らなきゃならない。ハンナのスープと、エミルの体と、私の三十年の腕と——その婆さんの五十年の手だ」


 彼女は、マリエッタを顎で示した。マリエッタが、淡く笑った。


「全部、抜けてからじゃないと、あんたには手が届かないよ。王都の連中に、それができるかね」




 カミラが帰ったあと、私は店の窓辺に座った。


 ファーデンの夜は、静かだった。けれど、屋根裏で一人泣いたあの最初の夜の静けさとは、まるで違った。隣の店では、エミルがまだ反物の山と向き合っているだろう。ハンナの台所からは、明日のパンの仕込みの匂いがしてくる。カミラの店の灯りも、まだ消えていない。二階では、マリエッタが旅の疲れを眠りに預けている。


 今日一日、王都の客が次々と来た。布の顔をして、布を見ない人たち。私を探し当てようとする者たち。明日も、来るのだろう。明後日も。王宮で私の名が出てしまった以上、その流れは、もう止まらない。


 半年前なら、私は、ただ怯えていた。布を片づけ、息を潜め、いつ連れ戻されるかと身を硬くして。


 今は、違った。


 私は、自分の右手をひらいた。十年分の針穴と、糸切りの跡。エミルの手が包んだ、この手だ。ここが、お前の家だ——彼の声が、まだ手のひらに残っている。布が覚えるように、私の手のひらが覚えていた。


 家。


 帰る場所を持たなかった私が、初めて持った、帰る場所。


 王都は、私を連れていこうとするかもしれない。けれど、連れていくには、この町を通らねばならない。エミルの前を、ハンナのスープを、カミラの腕を、マリエッタの手を。私一人を奪うために、王都はこの町ごと相手にしなければならない。


 そう思うと、不思議と、怖くなかった。




 翌朝、私は店の前の看板を、布で拭いた。


 十年ぶりに表に出した、自分の名前。「ファブリツィア仕立て店」。彫った日、震えた手で。


 今朝は、震えなかった。


 拭き終えて店に戻ろうとしたとき、街道のほうから馬車の音が聞こえた。


 一台や二台ではなかった。


 私は、街道のほうへ目をやった。盆地を囲む山の、最後の峠のあたりに、土埃が上がっていた。馬車の列だった。これまでの、客のふりをした旅人とは違う。一人や二人が、布の顔をして紛れ込んでくるのとは、違った。


 まっすぐ、こちらへ向かってくる。隠す気のない、堂々とした足取りで。


 布の音ではなかった。あれは、もっと重いものの音だった。


「お嬢様」


 いつのまにか、マリエッタが私の隣に立っていた。彼女も、街道のほうを見ていた。その目が、わずかに細められた。


「……あれは」


 私は、息を呑んだ。


 密使でも、客のふりをした旅人でもなかった。あれは、王都が、ついに正面から辺境へ手を伸ばしてきた音だった。


 けれど、私の手は、もう布を片づけなかった。


 私は、看板を拭いた布を、エプロンのポケットに仕舞った。それから、まっすぐに街道のほうを向いた。


 ここが、私の家だ。


 誰が来ても、私はもう逃げない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ